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GRAYHEATHIA*グラィエーシア  作者: 瀬川月菜
外伝
159/193

雪と剣と獣の婚姻 3

 覚醒間近のリオンは、雪原の戦場の夢を見ている。

 飛び交う怒声が雑音のように割れ響く。戦いの場は遥か前方、リオンは後方の自陣で指揮を執っていた。間断なくもたらされる報告を聞き、指示を与えながら、そろそろか、と頃合いを見る。

 そうして、予想通りモルグ族は撤退を始めた。

 長引く争いで、モルグ族が本気の攻勢に出ることは滅多になくなっていた。少なくともリオンがいる北部前線はそうだったし、赴任する以前からそうであったと聞いている。小競り合いの回数が最も多く、このように司令官を必要とする中規模の戦闘は半日も続かない。

 その日も、戦闘開始からそれなりの時間が経過すると、素早く退却する。まるで誰かに「ちゃんと戦っています」と見せつけるような戦闘だ。

 戦いが色合いを変えるのは、先方に見慣れぬ戦闘員が紛れているときだ。恐らく、モルグ族方にも前線を守る者が常駐しており、時々、どこからかの増援――あるいは余所者が参戦するのだ。そういうとき、戦闘の規模は大きくなる。「ちゃんと戦っています」という見せかけに過ぎなかったものが、余所者の目があることで本気の戦いになるのだ。いつものようにかかると、痛手を食らうので、気が抜けない。

 ただ、たまさか訪れるそれをどこか楽しみにしている自分がいる。

 モルグ族の指揮官についての情報を、多く知っているわけではない。将軍職になってからは特に、リオンは戦場に出なくなった。立場上の理由もあるし、族長になりうる公子の資格を持つがゆえ周囲に制止されるからでもあった。だから、先方の指揮官を見たことがない。

 知っているのは、男で、凄まじい使い手で、美しい獣のような人物だ、ということ。負傷して動けなくなった仲間を三人抱えて退却する、どうやら厚い情の持ち主らしいこと。しかしこちらを敵と見なした攻撃は、狙われれば絶対に無事では済まない、殺気に満ちたものであるという。命だけは助かった兵が言うには、冬の化身とも思える魔物に襲われたような気がしたそうだ。

(戦ってみたい)

 どれほどの者か、知りたい。

 これだけ長く相対していれば、顔を見ずとも、だいたいの人物像が見える。冷静で、なのに内に熱いものを滾らせ、凶暴で傲慢だ。少し捻くれたところがあって、特に権力者や、声ばかり大きい者を小馬鹿にする。だが、一度懐に入れた者を、まるで家族のように大切に扱う。

(刃を交えたい)

 北部戦線は、ある意味、リオンとあちらの力比べだったのだと思う。互いに血を流し、痛みに呻き、凍えるような冬の地に、わずかばかりに見出した慰めが、恐らくはよく似た立場である敵を好敵手とみなして、競い合うことだった。

 リオンはいま、夢の中で、不可侵の雪原に立ち、黒色の森を見つめている。周囲には、折れた矢や、投げ出された剣、ひしゃげた兜と砕かれた鎧、ずたずたに切り裂かれた旗や外套の残骸に、ちろちろと大気を舐める炎と鮮血が散らばっている。そこでリオンはただ一人、己のしたこと、これからすることに思いを馳せる。

 ――許されはしない。許されようと思ってはならない。背負っていく。失われたもの、損なわれたものを忘れることなく。ともに行く。

 ただ、この重荷を分かち合うとしたら、それは。

 雪が、静かに舞い始めた。リオンの頬に落ちたひとひらが、溶けて頬を伝っていく。風と混ざり合った雪片は、やがて吹雪となり、世界を白く、鈍色に塗りつぶしていく。進むべきか、立ち去るべきか、答えが出せないまま、リオンは荒れ狂う雪風に飲まれていった。


(……旨そうな匂いがする)

 目が覚めて最初に知覚したのは、脂の乗った肉を強火で炙った匂いだった。

 そこは、北の離宮。リオンの部屋の寝台だった。剣は枕元にあり、着ているものは寝巻きだ。冷気を防ぐために天蓋が降りており、毛布に包まったリオンの周りを柔らかい闇が覆っている。布の間から差し込んでいるのは、どうも真昼の光のようだ。

 いったい誰がここまで運んだのだろう。

 そして何故先ほどから肉を焼く匂いがするのか。

 その味を想像したせいか、胃袋が空腹を主張し始める。身を起こすと疲労感は消え、全身に食欲が漲っていくのを感じた。

 寝台から出てすぐ側の窓が開いている。そこから漂ってくる匂いらしい。黒木の枠に手をかけて、庭を覗き込む。

 古木ばかりの侘寂を強調する庭園で、火を起している者がいた。

 火鉢の上に被せた網の上では、肉がいい塩梅に焼けていた。滴り落ちる脂が、ぶわあっと強い炎を生み出すせいで、辺りはもくもくと立ち上る煙で心なしか灰色がかっている。

「ああ、目が覚めたのか?」

 肉を焼いている銀髪の男が、顔を覗かせたリオンににかりといい笑顔を向けて言った。

「…………ここで何をしている?」

「肉を焼いている」

「見ればわかる」

 一刀両断に返すと、からからと男は笑った。

「見舞いに来たのに目を覚まさんから、どうしようかと思ってな。土産に持って来た肉でも焼けば腹が減って起きるのではないかと思ったんだが、なかなか有効だったようだ」

 ここまで私を運んだのはお前なのかとか、私の側近たちはどうしたとか、誰が肉を焼くのを許したのかなど、言いたいことはそれはそれは大量にあった。

 だが、それらをすべて飲み込んで、リオンは窓からひらりと飛び降りると、男の隣にしゃがみ込む。

「アシュ」

 名を呼ぶと、彼は――モルグ族の若長アシュ・ラ・ホウは、満面の笑みで答えた。

「なんだ、リオン」

「腹が減った。その肉を寄越せ」

 アシュはいそいそと、どこか甲斐甲斐しく串に刺した肉を渡してくる。網から下ろしてもなお、じゅうじゅうと香ばしく焼ける肉にリオンはかぶりついた。火傷しそうに熱く、弾力のある肉に歯を立て、ぎりぎりと噛みちぎる。

「どうだ?」

「悪くない」

 太った秋の鹿の肉だ。上質な脂が乗り、赤身肉に凝縮された旨味が、噛めば噛むほど染み出してくる。弾力が強いのは新鮮だからだ。

 脂で汚れた唇を舐めると、視線を感じた。

「な、」

 何だ、と問いかけた唇が、塞がれる。

 薄く煙の匂いがする唇だった。どうやらこの男は煙草を吸うらしい、混ぜ物の香子蘭が甘ったるく香るのが、不思議と似合う。見た目とそぐわない、意外性があるという意味で。

「美味い」

 いまさら、口付けの一つや二つで騒ぎ立てる歳でもないが、アシュの唇を舐める仕草とその台詞は、リオンの眉間に胸のざわめきを由来とする深い皺を刻むのに、十分すぎるほど艶かしかった。

 ふん、と鼻を鳴らし、火に炙られる串を掴み、肉に噛みついていると、こちらに駆けつけてくる足音が複数。辺りが煙っていることに「なにこれ!?」「リオン様はご無事?」と驚きの声を上げた側付きたちは、座り込んで肉を焼くアシュと、それを手掴みで食べるリオンの姿に目を丸くした。

「な……何をやってるんですか、あなた方は!!」

 稲妻、あるいは絶叫。そんな声が落ちてきた。

 ちゃっちゃとアシュを追い出すと、彼女たちはリオンを部屋に戻し、意識がなかった間のことを聞かせてくれた。

「驚きました、意識のない姫様をモルグ族が運んできたんですから」

「しかも血を浴びているし、紅漣も怪我をしているし。でもリオン様は寝ているだけで」

 紅漣はその後、適切な治療を受けて療養中だという。混ざりものの彼なら、普通の純血馬よりも治癒力が高いため、後遺症もなく、すぐに以前のように走ることができるだろうということで、安心した。

 リオンがこんこんと眠り続ける間に、アシュが見舞いのために侵入し、追い返され、というやり取りを数度やって、翌々日。現在に至るというわけだった。軽々と警備を突破されたことを口惜しく思う部下たちは、庭先で肉を焼かれてしまい、心底悔しそうだ。

「大変だったなあ、お前たち」

「本当ですよ! うちの大将が敵方の大将に横抱きにされて現れるなんて、全身の血が引きました!!」

「さすがにこの件は天様にご報告します。結婚式が終わるまで飲酒を禁じていただきます」

 他人事のように笑っていたリオンは、その言葉に眉をひそめた。

「子どもでもあるまいに、兄に告げ口か? しかも私から酒を取り上げる? 冗談じゃない」

「冗談でないのはこちらの方です!」

 酒宴の後、休みもせずに遠駆けに出て、獣に襲われ、ぶっ倒れて眠るあなたが言いますか、とまで言われ、本気で怒っているのを察したリオンは、これ以上感情を煽ることはせず、黙って彼らの主張を聞いた。そうして、わかった、すまなかった、と詫びを入れ「気をつけると約束する。酒盛りをしても夜明け前には必ずお開きにする」と告げ、「遅すぎる!」「午前二時までですよ!」と注意され、あいわかったと答えたのだった。

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