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GRAYHEATHIA*グラィエーシア  作者: 瀬川月菜
外伝
154/193

そのさきを行く者

 花の季節が過ぎ、青葉の影がそこここに生まれているある日の午後。庭に響く楽しげな声を拾って、カリヤ・インは歩みを止めた。

(……御子様か)

 王宮という場所では聞き慣れない、赤子の声。あれは我らがリリス族長の息子の御声だ。

 姿を探せば、庭の中、女官たちに囲まれて、筵の上で遊んでいる姿があった。丸々とした手足は動きやすい幼児服に包まれて、まるで綿に包まれた人形のごとく、ころころぽてぽてしている。相好を崩した女性たちの眼差しを気にも留めず、むしった草花を振り回しているのは、なかなかの肝の据わり具合を感じさせた。独特の感覚で生きる様は、父親の血の濃さを表しているかのようだ。

「カリヤさん?」

「……これは真様。どうも、ご機嫌麗しゅう」

 密やかな呼び声の主は、赤子の母親、真夫人アマーリエだった。大仰に挨拶をして道を譲ると、彼女は首を振り、何故かカリヤの隣に並んで、女官たちの玩具のようにも見える我が子を眺めやった。

 おおむね、我が子を見る母親というのは似たような顔をする。

 そこにいるだけで愛おしい。子どもが愛のかたまりであるかのような。

「子ども、お好きなんですね」

 そう言ったのは、何故か、アマーリエの方だった。

「はあ?」

「目が優しいですから。カリヤさんは、子どもがお好きなんだなあと思って」

 呆れ声にも怯まず、微笑ましそうにする彼女に、カリヤは眉間の皺を深くする。

「別に、好きでも嫌いでもありません。我が子なら別ですが」

「カリヤさんらしいです。私は、他の子どもを見たら、つい自分の子どもと重ねて見てしまうんです」

 けれどいまはその息子がそこにいるから、アマーリエの眼差しはとろけるように甘く、優しい。そんな顔をしているとまるで大人だ。十ほど年を重ねたように見える……と言っても、リリス族からしてみれば小柄なせいで子どもに見えるだけで、彼女はすでに立派な成人女性だ。

(子どもが子どもを産むのか、と思ったものだが)

 初対面のときに感じた、雛のような幼さは、いまは形を潜めている。それだけの出来事が彼女を削り、磨いたのだ。瞳の奥にたたえられた静謐さも、凛とした立ち姿も、慎ましい微笑みも、陽を受け風に揺れる花の儚さとたおやかさそのものだ。

 母親になるとは、かくも大きなものなのか。それとも、これこそ彼女の本来の姿なのか。

「……あなたが戻ってくるとは思いませんでした」

 思わず、本音が漏れた。

「それもリリスが迎えに行くことになるとは」

 そのことに気付かれないよう、続けざまに嫌味を放つ。ヒト族との会談の日の出来事を誰もが美談として語るが、それに至るまでの苦労を自分だけは語り継いでやると、カリヤは心に決めている。本当に、綿密な準備をしたというのに、とんでもない番狂わせが立て続けに起きて、収拾がつかなくなりかけたのだという危機感をもう少し持ってほしいものだ、誰にとは言わないが。

 アマーリエは口を閉ざし、透き通った瞳を向ける。

「それを許したと聞きました」

「ええ。『あのとき』とは違うと判断しましたから」

 彼女の知らない過去、あるいは唯一と思う片割れがいかに残酷であったかという事実を、カリヤはしばし、追想する。



       *



 それはまだ、カリヤがユメと結婚する前。別の女性と婚約していた頃のことだ。

 当時、リリスは揺れていた。

 次期族長であったキヨツグの花嫁候補とその一族の手によって、当代のセツエイ・シェンが毒に倒れた。犯行の動機が、恋人である娘の、キヨツグに人の心がないという糾弾であったせいで、詮議の行方は誰もが注目するところだったのだ。

 カリヤはその決定的な瞬間を間近に見ていた一人だ。

 それは詮議の場でのこと。セツエイの名代として上座についたキヨツグは、膝をついて項垂れる咎人たちを見下ろしていた。たった一人、青ざめた顔ではらはらと涙をこぼす娘だけは彼をひたと見つめていたが、キヨツグはまるでそれが見えていないかのように振る舞った。生まれながらの族長。そう呼ばれるのも納得できる立ち居振る舞いだった。

 キヨツグは、命山に住む者の血縁だ。セツエイの養子となる当初から、次の族長は彼だと考えられていた。実際、族長候補である公子の位を授かる前からそのように扱われ、他の公子――セツエイの実子であるリオンや、リィ家のマサキらは、名ばかりの候補だった。それゆえに、悲劇が起こった。

 なれば、キヨツグを追い落とせば。

 一人の公子とその親族、カリヤに言わせれば候補としてどうして名を連ねているのか理解できない輩が、そのように考えて、キヨツグの暗殺を企んだ。実行犯にキヨツグの側に侍ることのできる娘を選び、言葉巧みに説得して、毒を使わせた。いまそこで泣いているのがそうだ。

 その犯行の理由を、娘は「人の心がないのが恐ろしかったから」だと述べた。

「――よって、そなたらの裁きを次期族長に委ねることとし、次代が定まるまで謹慎を命ず」

 始まった裁定に、甘い、と思った。次代が定まれば、恩赦が与えられる。刑は免れずとも、軽くはなるだろう。(この程度か)とカリヤが思ったのもつかの間。

「しかし」

 台詞を読むように、淀みなく、キヨツグは続けた。

「浅はかで身勝手な謀略で公子を狙い、結果族長を害したことは許しがたい。よって謹慎を入牢、対象をそなたらの係累とし、当事者であるそなたらには極刑を申し渡す」

「ひっ――」

 被疑者は蒼白となり、力を失ってへなへなと崩れ落ちた。裁きを終えたキヨツグはさらりと立ち上がり、仕事を終えたとばかりに立ち去ろうとする。

「キヨツグ様――」と追いすがり、泣き崩れる声が響き渡る。

 だがキヨツグは一度も振り返らず、それどころがまったく表情を変えなかった。情の一欠片さえも与えられないと知って、娘はますます泣き叫ぶ。

「人でなし!」

 その絶叫には誰もが戦慄した。公子に対して放っていい言葉ではない。

「あなたは一度もわたくしを愛してくださらなかった。愛の言葉どころか笑顔すらくださらなかった。わたくしは駒のひとつにすぎなかった。いまこうしてわたくしを見下ろしていて、何の情も覚えてくださらないあなたは、人として欠けている。そんな人間が治めるリリスなど、見たくない。愛することを知らないあなたは人外だわ――」

 たとえ罪を犯した者の悪あがきで、それが恋人であった娘の哀願の代わりであっても、キヨツグ・シェンにだけは言ってはならなかった。

 キヨツグが何を言うのか、官たちは固唾を飲んだ。

 しかし彼はまったく迷いのない足取りで、速やかにその場を立ち去った。まるでまったく聞こえておらず、娘のことすら忘れてしまったかのようだった。

 慟哭が響く。罪を犯す前は真夫人候補だった娘は、いまや見る影もない。つまらない罪ですべてを失った愚か者がそこにいる。その様を目の当たりにし、「さすがキヨツグ公子」と唸る長老たちがいれば、「なんという冷酷さだ」と怖気をふるった官吏もいて、「娘が哀れだ」と感じた者も少なからずいた。

 そして、カリヤは思ったのだ。

 ――あの男は、リリスを滅ぼすかもしれない。


 公子キヨツグの有能さはさておき、人として欠けているという噂は、信憑性を持って広まった。それだけ彼は能力に恵まれ、美しく、また強かった。幾人もの佳人が彼の花嫁候補に名を連ねたが、彼はその誰にも興味がなかったことは、王宮に勤める者なら大抵は知っている。彼は義務として女性と付き合い、利があるか不利益を被るかという状況判断をして、彼女らと別れた。憧れていた娘たちを袖にされた男たちのやっかみが多少あったことは、認める。

 そこで、あの裁きである。キヨツグは族長にふさわしくないのではないか、という声が上がった。

 顔色一つ変えず、語調を乱すこともなく、愛した女を死刑にする。

 カリヤも、その揺るぎなさに危機感を覚えた者の一人だったが、実際には少し、違う。

 族長としてその姿勢は評価できる。平等で、誰にも心を動かされない、冷酷で強靭な精神は、為政者にとって得難い能力だ。

 だがカリヤは、その裏に秘められている危うさを恐ろしく思ったのだ。

(あの男が、もしたった一人の人間に入れ込んだとしたら。その人間のために、リリスのすべてを犠牲にできる)

 リリスそのものの血筋。恵まれた才覚。族長にふさわしい能力。それらはリリスに繁栄をもたらすだろう。

 しかしその影響力が強ければ強いほど、ひとつ違えば、周囲を巻き込まずにはいられない。ともすれば、リリスを滅ぼすことすらできる。

 だからカリヤは、反対派に回った。キヨツグがもし己の心を揺るがす存在と出会ったならば、それはいずれ、リリスの崩壊へと繋がると考えたからだった。

 支持派と不支持派が入り乱れ、ヒト族やモルグ族との戦いもあり、キヨツグの族長就任は遅れに遅れた。それでも秩序が保たれていたのは、やはりキヨツグと彼の見立てた臣下が有能だったのだろう。さすがに、キヨツグが臣下の見合いを斡旋していると聞いたときには「……馬鹿なのか?」と口に出してしまったが。

 しばらくして、反対派は、命山が秘匿するものを開示するよう求める方向に舵を切っていた。あらゆる面でキヨツグの力を削ぎ、彼の失態でリリスを道連れにしないための措置だ。神秘の時代でないというのなら我ら新世代の手に委ねるべし、という考えは若い世代を中心に広がり、それらが暴騰しないよう手綱を取るのがカリヤの役目だった。

 活発で、裏表のない、開けっぴろげで無謀な若者である反対派の者たちは、カリヤとは正反対だったがゆえに、ひどく愚かしく愛おしかった。

(優しさを示し、時には厳しく当たり、多くの愛する者たちとともに豊かな思いを感じればいい)

 そう願う一方、こうも思った。

(弱味を見せられず、心のうちを明かすことができず、唯一と決めた者に優しい言葉もかけられない、愚か者にはなるな)

 物心つく前から、自分が捻くれた性格をしていることに気付いていた。外で遊びまわるよりも本を読み、遊戯板で大人と勝負をし、大人たちの話を聞いてそれがどういう意味なのかを考えるのが好きだった。どうなるか予想できないまま女児を突き、泣かせる同世代の男児を「なんて考えなしなのだろう」と呆れて見ていたし、「馬鹿はお前だ」「もう少し頭を使ってものを言え」と言って喧嘩になったことも一度や二度ではない。

 そんな人間に友人らしい友人などできるはずもなく、それでいいと思っているのがカリヤだった。別に不自由はしなかった。誰彼構わず毒舌を吐くほど頭が悪いわけではなかったので、必要なときにじっと黙り、最低限の礼節を保っていれば、大抵のことは上手くいった。長じて公人となっても、仕事ができればそれほど問題はなかった。

 キヨツグ・シェンの存在を知ったとき、カリヤは彼を「同類だ」と思った。

 他人を心のどこかでどうでもいいと思っている。生きる楽しさというものを知らない。そんな己を認めながら変えようとも思わない。

 ただ、カリヤにはユメという存在がいた。

 幼馴染のユメ・インは、カリヤにとってこの世で唯一のかけがえのないものだった。偏屈なカリヤの近くにいて、ともに遊び、言い争いをしたのも数知れないが、それでも長い時間を共有した。常に真っ直ぐでいる彼女を恋うようになったのは、自然な成り行きだった。

 それでも、彼女を手に入れようとは思わなかった。

 結局それは、カリヤが臆病だったからに過ぎない。これまでどんなものにも見向きもしなかった自分が、彼女の存在だけで、何もかも犠牲にしてもいいと思ってしまう。そんな想像ができたからだ。キヨツグと同じだ、彼に対して抱いた危機感は、そのままカリヤ自身の恐れになる。彼女だけを守りたがる、愚かな男に成り下がる。

(この世に彼女が生きている。それだけで十分だ)

 リリスを守るために、カリヤは生きる。それが彼女の幸福に繋がるのだと信じて。


 ――そう決めていたというのに、まさかのユメ本人に求婚されてしまったのだから、気付くべきだったのだ。

 想像もしないところから「たった一人」を手に入れてしまう、キヨツグ・シェンの可能性に。



       *



「『あのとき』のリリスには、命山にまつわるものという揺るぎない神秘がありました。しかし、いまは違う。それらは私たちの前に少しずつ姿を現し、この時代に溶け込もうとしている」

 だから、とカリヤはアマーリエを見た。

「それは、あなたがやってきたことで生まれた変化です。そのことが良いか悪いか、私にはまだ判断できませんが、神秘の象徴であるよう期待されていた天様は少なからず荷を下ろすことができた。『他人の手を借りる』という考えは、かつての彼にはなかったでしょうから」

 アマーリエを迎えに行く際、リリスの全氏族が集まったが、このときキヨツグは命令という言葉を用いなかった。氏族の大小に関わらず、すべてのリリスに、「力を貸してほしい」と告げたのだ。

 もう呼び声に振り返りもしなかった彼ではない。この地に生きる者たちの姿を認め、彼らを導く族長に変わった。

 だからカリヤは許したのだ。文句を言い、青筋を立てながら、リリスのためにアマーリエを迎えに行くことを。

 子どもの声が響く。

 何気なしに目をやるのは、癖だ。子どもがいると、何故か無意識にそちらを見るようになる。我が子を思い出して気になってしまう。だからアマーリエの「目が優しい」という指摘は正しい。カリヤは、娘のナナミをこの世で二番目に愛している。

「……私たちがしたことが、正しいのか、いまもわかりませんけれど……」

 アマーリエはわずかばかり首を傾げ、穏やかに言った。

「願うことのために信じて行動したから、生きよう、と思えるようになりました。いまは、それだけでいいのだと思います。私たちの行いの善し悪しは、未来の人たちが決めるでしょう」

「責任放棄ですか?」

 間髪入れずに言うと、アマーリエはふっと笑みをこぼした。

「いいえ。だって生きていますから」

 彼女はリリスに戻ってきた。ヒト族の地で生きることも、死も、選ばなかった。

 生きている限り、その責を負う。

 くっとカリヤが笑い声を殺すと、アマーリエも微笑みを浮かべた。そうして二人は互いに一礼し、アマーリエは我が子のところへ、カリヤは自らの仕事に向かった。


 戻りが遅くなったので、仕事が山積していた。処理するカリヤも大変だが、付き合わされる文官たちもたまったものではないだろう。

「カリヤ様って、毎日そうやって生きていて楽しいですか?」

 無礼千万なことを言ったのは、カリヤに付いている中級文官だ。そうやって、と言いながら、眉間にわざとらしいほどの皺を作って見せてくる。常になにがしかに苛立っている、と彼は言っているのだ。

「生きることを楽しいかそうでないかで考えられる単純さが羨ましいですね」

「いやあ、だって、楽しくない日々がいつまでも続くって苦行じゃないですか。辛くないですか?」

 彼は嫌味をものともしない。時々、こうした変り種が現れる。そして長い付き合いになる。

「辛くありません。私はやりたくないことに有限な時間を割けるような被虐趣味の持ち主ではないので」

 きっぱり言い切ると、彼は首を傾げた。

「じゃあ、やりたいことをやっているってことですよね。それっていったい何なんですか? さっぱり思いつかないんですけど」

「ではずっと考えていなさい」

「ええー。カリヤ様の意地悪ー!」

 さっさと仕事に戻れと追い払い、やっと一人になった。何が「意地悪ー!」だ。いい歳をして、子どもか。わざとやっているだけにたちが悪い。だがその性格の悪さが、カリヤの側にいられる理由なのだと思う。周りにいるのは大抵一癖も二癖もある者ばかりで、まったく落ち着かない。

 いま、唇の端に浮かぶ笑みのことは、誰も知らなくていい。

(ユメや、彼のような者がいるから、我が道を進むことができる)

 私はこうして生かされている。

 だからカリヤは生かす。誰かを生かすことのできる者たちを、長く、自由に。そのための人生だと思っている。


 やがて帰宅を迎えてくれた妻と娘の笑顔に、思う。

 たとえ、この選択が間違っていたものだとしても――いまこのときは、それでいいのだろう。

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