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GRAYHEATHIA*グラィエーシア  作者: 瀬川月菜
外伝
140/193

夜の果て

 リリス族の歴史に語り継がれることになるその日の全貌を、当事者たるアマーリエが知ったのは、王宮に戻ってからのことだった。いや、戻ったその日にちゃんと理解できていたかは正直怪しい。数日かけて、リリスの全氏族が代表者を寄越したのはとんでもないことだったのだ、と飲み込んだのだから。

 ――帰還の日、アマーリエは終日続いた緊張の極みにあった。

 シャドの人々の歓呼の声も、王宮の前庭に集まった出迎えも、どこか遠い世界の出来事のように感じていた。コウセツを抱いている様は、まるで縋るようであったと思う。この光景に惑わされない、騙されない、といったような。けれどそれも、アイをはじめとしたお付き女官たちの歓迎の声を受けるまでだった。

「真様」と一言言って、極まったように涙を飲んだアイは、自らの立場を忘れてアマーリエを強く抱擁した。かつてアマーリエに平手を見舞った彼女だった。身勝手をして、大勢を振り回して、けれど無事に帰ってきたことに、万感の思いがあったのだろう。そう思うと、染み入るものがあった。

「街の門を開けよ。祝い酒を振る舞え。祝福を受けしリリスの花嫁と御子が戻ってきた」

 キヨツグの声に、わっと人々が湧いた。宴が始まり、その賑わいは街に止まらず、外で陣幕を張っている氏族たちにも広がっていったようだった。闇に輝く灯火のようなリリスの首都は、この日だけは光と声が絶えない眠らぬ街になった。

 挨拶を、と集まってくる人々からアマーリエを遠ざけたのはもちろんキヨツグだ。

「明日場を設けるゆえ、今日は容赦してほしい」

 それもそうか、と人々が退いたのは、疲れ切った顔色のアマーリエがずっと赤子を抱えているのも理由だったと思う。リリス族にはとても子どもを可愛がる人が多い。それが弱い赤子ならなおさら大事にしたがるのだ。その上、命山の後ろ盾を得たキヨツグの子だ。待望の赤子がここにいると知って、多くの人々が「御子様だ」「お顔を見た?」などとコウセツに関心を寄せていた。

 そのコウセツは、馬上で抱えられていても歓呼の声や宴の騒ぎにもまったく関心を持たず、ぐっすりよく眠っていた。疲れさせたのもあるだろうが、もしかすると相当マイペースな気質なのかもしれない。見知らぬ場所で知らない人たちに囲まれて、ひどく泣くのではないかと思ったけれど、今日はとりあえず大丈夫そうだ。

 部屋に戻り、用意されていた揺り籠の中に寝かされて、医官の診察を受けている間も起きる気配のない息子にほっとしつつ、着替えをした。湯船に浸かるほど体力がなく、身を拭った後は、ただひたすら横になりたくてたまらなくなった。疲労は、眉間やこめかみを締め付ける痛みとだるさになってアマーリエを襲っていたが、ハナの検診を拒むことはできない。

「……はい。ひとまずは問題ございません」

 何か気になることや相談したいことはないかと尋ねられ、いまは大丈夫だと言うと、ハナが頷いた。じっと見つめられると居心地が悪くなるのは、アマーリエのかつての行いがひどかったのであって、仕方がないことなのだ。

 なんとかお付き典医の許可が得られたので、寝間着姿で眠っているコウセツを抱き上げ、みんなに言い渡す。

「今夜はこのまま連れて行きます。起きたときに私が見えないと不安がると思うから」

「かしこまりました。医官が詰めておりますので、何があればお呼びください」

「おやすみなさいませ」

 おやすみなさいと挨拶を交わして、灯り持ちが照らす廊下を行く。

 さらさらと、若木の間を風が吹き抜ける音がする。夜の本当の暗闇が足元までにじり寄ってくるのが、慕わしい一方で、少し怖い。目が慣れない、というのだろうか。暗すぎると思う。けれど心のどこかでほっとしている。すぐ近くにある闇が覆い隠してくれるから、すべてを知られ、見られることはない気がするのだろう。

 寝殿に明かりが入っているのを見た途端、呼吸が乱れた。

 灯り持ちが去っても、アマーリエはしばらくそこから動けずにいた。しかし寒かったのだろう、コウセツが呻いたので、勇気を出して扉に手をかける。

 春であってもリリスの夜は冷える、そんな当たり前のことを感じさせる光と空気が流れてきて、アマーリエとコウセツを包み込んだ。

 かちゃりと磁器の澄んだ音がして、器を持っていたキヨツグがふっと導かれたようにこちらを見る。

 ただそれだけの光景に、アマーリエは泣き崩れた。


「……すみません。まだ落ち着かないみたいで、気持ちが不安定になっていて……」

 アマーリエは速やかにキヨツグに回収され、椅子に座らされて温かいお茶を振る舞われた。その間コウセツは休み支度をしたキヨツグの膝の上にいる。広くて大きな場所に安心したのか、ますますぐっすりだ。

 ここにきてようやく、と言うべきか、アマーリエは落ち着いて自らと周囲の状況をきちんと捉えることができたようだ。戻ってきてなお、見えない大きな流れにただ流されてきたようだったのが、やっと流れ着いたという感じがする。リリスで当たり前に飲まれているお茶の味。絹の寝間着。電灯ではなく炎の灯りで照らされた部屋。そういったものが日常になるのだという恐れと喜びを同時に感じている。

 だが、あれはない。現れた途端、崩れ落ちるなんて。

 キヨツグは何事かと思っただろうに、恥じ入るアマーリエを静かに見つめながら、時々足を動かしてコウセツを揺らしている。

「……しばらくは揺り戻しが来るだろう。焦る必要はない。皆承知している」

 気を張れば張るほど、一人の時間や眠るときに疲労や精神的な負荷がやってくる。その波は以前とは違って、ひどく大きくアマーリエを揺さぶる。それに振り回されるなということだ。振り回される自分を受容しなければ、いつまでも焦って、余計に苦しい思いをする。それをコウセツに波及させたくないと決めているから、強く頷いた。

「……よく眠っている」

 キヨツグが息子を見下ろして呟くのには、さすがに笑ってしまった。

「本当に。大人しい方ではあるんですが、すっかり夢の中です。この様子だと夜泣きも大丈夫そうですね。もし泣いたら起こしてしまうと思いますが、すぐ出て行きますから心配しないでください」

「……出て行かずともよい。子どもは泣くのも仕事のうちで、お前は最優先に休息を取る必要がある。ゆえに私が連れて出る」

「え、ええ……?」

 キヨツグは少し目を上げて、不満そうな面持ちになった。

「……私では心許ないか」

「いえそんな! でも……」

 いいのかなあ、と思う。疲れているのはキヨツグも同じで、夜遅く戻ってきて朝早くから活動するのだから、休息が必要なのは彼もそうなのだ。

「……コウセツが慣れるまではここで寝かせ、しばらくしたら乳母や世話係に託すという手もある。だが」

 提案を一つ口にしながら、彼は軽々と赤子を抱いて立ち上がった。

「……そうしたことは明日になってから決めよう。気になっていることは多々あろうが、話すには一夜では足りぬ」

 それはアマーリエも同じだった。だが今日はもう休もうと思考を切り替え、隣の寝間に続く扉を開ける彼の後に続く。話したいこと、聞きたいこと、これからのことをたくさん語り合いたいけれど、この夜だけでは到底無理だ。

 でも最初に聞くとしたら、それは。

「……どうした?」

 しゃら、と、首を傾げた拍子に古びた耳飾りが揺れる。

 以前彼の耳になかったもの。けれどいまここにあるのなら意味があるとわかるそれ。

「……綺麗な耳飾り、ですね」

「……預かりものだ。お前宛にも預かっているものがある」

 そう答えて、キヨツグは忍び笑うようにかすかに微笑んだ。

「……その話もまた明日だ」

 右手でコウセツを抱いたキヨツグが、空いた左手で、アマーリエの指先を絡め取る。

 ほんの少しの、甘い仕草。絶えてしまうのではないかと思っていた熱を灯し、胸を騒がせる。呼吸一つで目眩を覚え、震える目蓋を伏せると、くすぐるように触れた鼻先がアマーリエを上向かせ、そして。

 熱を合わせるように重ね、啄ばむように触れた口付けに宿っていたのは秘められていた情熱だった。ずっとこうしたかったという思いが、どうしようもなく溢れ出しているのを感じた。それでも、本来なら荒々しいそれを抑え付けて、とろけるほど優しいキスに代えてくれる。

 キヨツグはアマーリエの肩を左手で抱えた。それはきっとまた潤んでしまった目や泣きそうな顔を隠すためだった。そうして、つむじや髪に何度か口付けていた彼はふと動きを止めた。

「……明日、だな」

 大変遺憾である、とでも言い出しそうな呟きだった。いまこの瞬間が限りなく失い難いものだからこそ、終わってしまうのが惜しい。いつまでもこうしていたいというのが言外に滲んでいて、アマーリエは赤くなった目を拭いながら泣き笑った。

 家族三人、寝台に横たわると、夜の闇がひたひたと降りてくる。

「おやすみなさい」

「……おやすみ」

 これからめまぐるしい毎日になることだろう。自分のしたこと、誰かの振る舞いに、落ち込み、傷つけ、苦しむことになる。落ち着いたと思えるには相当な時間がかかるに違いない。けれど、愛する人や家族、友や仲間たちがいて、そこには大小の幸福がきらめているのだ。

 そんな明日が来ることを嬉しいと思うのは、生まれて初めてだった。

 一人きりの夜に今度こそ怯えることはなくなったのはこの日が最後だった、と後に思い返すようになる一日が、終わっていく。

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