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GRAYHEATHIA*グラィエーシア  作者: 瀬川月菜
第18章
124/193

18−8

 これは夢だ。

 ――呼び声がして、周囲を見回す。どこ、と呟くけれど、見つけられない。アマーリエは声の主を求めて走り出した。声がした。確かに聞こえた。あの人だ、あの人だと思うのに、どこにもいない。どんどん息が切れて、苦しくなって来た。もう見つからないのではないかという恐怖がアマーリエの呼吸を奪っていく。聞こえたと思った声は、自分の願望が聞かせた幻聴だったのではないか。

 どこにいるの。

 会いたい。抱きしめて欲しい。

 そのとき、耳鳴りのような響きが世界を満たし、白い光が塗りつぶしていく。白くて何も見えなくなる直前に、空にそびえ立つ光の柱を見た。

 あれは何の光だろう。何を貫き、繋ぐのか。

 これは夢だ。でも本当に夢だったのだろうか? たとえば年齢や、立場や、国や世界が別のものであったなら。何かが違ったなら、と願ったことはなかったか。

「――――」

 彼の名前を呼ぶより早く、漂白された世界は消えていく。

 どこにいるの。

 どこに、いるの。

 あなたを呼ぶことができたなら、今度こそ、あのときの祈り(・・・・・・・)は届くのだろうか。



 目を開けると、地の底のような闇の中だった。

(風が恋しい)

 どこまでも続く大地が恋しい。空調機器ではなく、炎の熱と光が欲しい。人が丁寧に織り上げた絨毯と冷たい板張りの床が懐かしい。

 お腹の子の世界はリリスがいい。

 あの場所はアマーリエにとって幸福の象徴だった。命に溢れ、触れられるものに血と熱が通っていて、内側に取り込むあらゆるものが清々しく温かだった。そうして導いてくれる人たちがいて、笑ってくれる人たちがいた。そこで生きるなら、みんなに愛を注いでもらえるだろう。健やかに育ち、生まれてきてよかったと思える。

 私が何を諦めたとしても、この子の未来だけは諦めてはならない。

 ベッドから抜け出て、上着を纏い、踵の低い靴を履いた。監視の目なり、どこかに警備の目なりがあると思ったのに、何故か何事もなく門まで辿り着けてしまった。外の世界は暗く、ビル群の光も絶え絶えに見える。ちょうど切り替わる時間帯らしく、外灯の光がふっつりと絶えると、まるでアマーリエを導くように闇の道が出来上がった。

 誰かが、何かが、行けと言っている。

 あるいは、引き摺り込むべく誘い出している。

 そのどちらであっても、この機会を逃す手はなかった。細く門を開け、夜に身を滑り込ませる。大きなお腹を抱えていると、大通りに出るのも大変だったが、運良く停まっていたタクシーに乗り込み、都市外部に向かうよう頼んだ。

「病院じゃなく? こんな時間に?」

 壮年の運転手はそう言って、じろじろとアマーリエを眺め回したが、しばらくすると正面を向いて車を発進させた。この地区には富裕層の家が並んでいるから、どこかの家の醜聞に関わる女だと思われたのかもしれない。あれはなんとか家の妾宅、こっちがどこそこ家の愛人とその家族が暮らしている家、なんてことは幼い頃から耳にしていた。目的の場所に着いた後は、料金を無視して紙幣を数枚握らせれば、しばらくアマーリエのことを忘れてくれるだろう。

 タクシーでは都市外には出られないため、ゲートまでは徒歩だ。この時間には、別都市や農場などと第二都市を行き来する大型車が多く走っていた。外に出るどれかに乗せてもらえないだろうか、と視線を向けてみるが、入ってくる車が多くて外に出る車両が見つからない。

「奥さん! どうしたんですか?」

 そうしているうちに、詰め所から出てきたゲート警備員に見つかってしまった。親切そうな、若い男性だった。アマーリエが妊婦だと知ると放っておけないと思ったらしく、車の往来から庇うように車道側に立って壁になってくれる。

「迷ったんですか? どこへ行きたいんです?」

 問われる間、アマーリエの視線は詰所の向こうにあるゲートの、人が通行するための通用ゲートに向いていた。あそこをくぐり抜ければ、都市を出ることができる。

「奥さん?」

「……家に」

 気付けば、呟きがぽろりぽろりとこぼれ落ちていた。

「家に、帰りたいんです。夫がいて。その手を、跳ね除けてしまったけれど。本当はずっと、あの人のところに帰りたくて」

 落ちる言葉は、強い風に容易く撒かれてばらばらになる。その風が向かう場所へ行きたい、という思いがますます強くなって、アマーリエは一歩踏み出した。

「ちょ、ちょっと奥さん! だめですよ、許可証がないとここは通せませんし、いまは感染症のせいで移動規制がかかってるんです。それにどこまで行くつもりかわからないけど、そのお腹で歩いていくのは無理ですよ!」

「お願い、行かせて。あそこには……」

 必死に止めてくれる青年を押しのけるアマーリエの心は、すでにその向こうへと飛び立っている。

 そこは、彼らが強く美しく、あるがままに生きている場所。自らを守り、自らと戦い、気高く誇り高い生き方が息づいている。彼らは異種族であるアマーリエに言った。 

 どんなものも、生きるだけ。

 辿り着いた通用ゲートは、しかしロックがかかっていた。壁に備え付けられた端末を叩くも、パスワードエラーの表示が出てアラートが鳴るだけだ。どんなに入力しても正解にたどり着けるはずがないのに、赤い光と音に苛立ちが募り、ついには扉を叩き壊そうと拳で殴り付けた。

「おい、どうした!?」

「ちょ、ちょっと、誰か医者、医者か警察を……!」

 鈍い音が響く。拳が痛い。見上げた空の夜明けの眩しさが、胸を締め付ける。

 なんて美しい朝だろう。世界はいつも泣きたいくらいに綺麗すぎる。

 未来を、選んだはずだった。ここで生きると思い直して、彼の手を拒んだ。

 だってそうするしかなかった。自分と世界を秤にかけて、傾くのはいつだって世界の方。

 その上で自身が納得できる未来を選び取ったはずなのに、それすらも天秤にかけられる。同じことをずっといつまでも繰り返した先で、アマーリエには何が残るのだろう。

 きっと何も。何一つとして、残らない。いつかこの心も、秤に乗せられて、奪われる。

(嫌だ……)

 寄り添っていられる真昼。二人の温もりがひとつになる夜。相手のことを思う一人のとき。そのすべての思い出がアマーリエを苛む。ここはなんて冷たく暗い場所なのだろう。色が、温度が失われていく。光が霞む。ここでは育てた花が死んでしまう。

「誰の道具にも犠牲にもなりたくない! どうして誰もわかってくれないの!?」

 開かない扉に傷だらけの手で殴り、いつしか泣き叫んでいたアマーリエは、やがて力を失い、扉に爪を立てながらずるずると座り込んだ。頑丈な身体も、脚力も、剛腕ですら持つことができない自分が忌まわしい。どんなに力を尽くしても、結局弱いままだった。

「――――あ」

 高ぶった感情が、あるとき、ふつっ、と途切れた。直後、全身が燃やされているかのような熱が押し寄せる。違う、熱ではない。これは痛みだ。外からも内から裂かれるような激痛で、地面についた手の感覚が失われ、目が利かなくなる。闇に包まれて何も聞こえなくなっていく中で、アマーリエは本能で腹部を庇いながら、がくりと肘を折って崩れ落ちた。

 この感覚を知っていた。フラウ病で倒れたときに感じた、自分ではどうにもならない身体の異常によるもの。一歩一歩踏みしめている階段を踏み外し、転がり落ちていく。行き着く先は、死だ。

「おい、大丈夫か!? 奥さん! 奥さん!?」

 痛い。

(痛い――)

 音も見えるものも痛みも、全部色にして混ぜ合わせたようにぐちゃぐちゃになって、何もわからなくなった。途切れ途切れに覚えているのは、手を握りしめていたオリガ、キャロル、リュナ、ミリアの泣きそうな顔、「こんなはずじゃなかった」という声、白い部屋と眩しすぎるライト、薬の匂い。病院だ、と思ったこと。

 それらが現実であると理解する一方で、夢を見ていた。

 そこは何もかもが白い世界だった。ぼんやりと陽炎のような光が立ち上り、何ともわからない不思議な陰影を作り出している。さらさらと音が響くのは、それとわからないほどささやかな雨が降っているからだ。

 ここはどこだろうと思いながら、歩き出そうとしたときだった。

『どこへ行くんだい?』

 光の塊のような獣に話しかけられて、アマーリエは首を傾げた。どこかで会ったような気がするけれど、思い出せない。

 考え込んでいる間に立ち上がった獣は、ゆうらりと輪郭をぼやかせながらこちらに近付いてくる。

『――もういい(・・・・)のかい? なら、案内してあげるよ。それが役目だからね』

 こっち、と尾を揺らすそれが、あまりにも綺麗でほっとするものだったから、アマーリエは安心して後を追った。

 ――………………。

 けれど遠くから何か聞こえて、少しも行かないうちに足を止めてしまう。

(本当にもういいのかな……いいんだよね……?)

 けれどかすかに届いた不明瞭なそれは、アマーリエをそこに留めてしまうほど、強く不思議な力を持っていた。胸の奥が妙にざわめいて、もう一度聞こえないかと耳を澄ます。このままでいいのかと疑いが増す。何か忘れていないだろうか。大事なものを置いてきてはいないか。

 ――…………ゃぁ……。

 そのとき聞こえたのは、小さな生き物が泣く声だった。

 途端、あらゆるものがアマーリエの元に戻ってきた。流れる血が失われていく感覚。現実から引き剥がされていく意識と、夢すら見えない奈落に突き落とされていく恐怖。ビルの影、車の往来の片隅、人の傍らにある、ずっと恐れていたそれがついにアマーリエを捕らえたのだ。

(キヨツグ様)

 凍りつくような恐怖と絶望の中で、しばらく呼べないでいたそれを囁いた。愛を告げれば応えてくれるように勇気をもらえる気がして。

 足が飲まれた。あっという間に飲み込まれた身体のほとんどの感覚がない。呼吸ができているのかすら、わからない。ただ手を伸ばす。伸ばし続ける。この闇の向こうに、あの白い安らいだ世界があると知っていても、まだ行けない。この手、指の一本だけでも、現世に留めなければならない理由がある。

 けれどなけなしの希望を込めた指先すらついには消えてしまう。

(私の――)

 だから叫んだ。

(私の赤ちゃん……――)

 まだ名もないその子を、せめて、愛の言葉の代わりに。




『――――』


 答えが聞こえた。

 その声に、いつか見た優しい虹の環を思わせる光と雪のごとく降り注ぐ清らかな光を感じながら、アマーリエは取り戻した自分を委ねていく。

 意識が消える最後に、残されていた指先を、小さな温もりがぎゅっと強く握ってくれた気がした。

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