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GRAYHEATHIA*グラィエーシア  作者: 瀬川月菜
第18章
123/193

18−7

 市職員と身辺警護と医師がやってきたのと入れ替わりに、ミリアたちは四人揃ってコレット家を後にした。

 入るときも思うけれど、出るときも物々しい家だ。アマーリエは本当にお嬢様だったんだなと思う。

(でも、あたしは好きじゃない)

 以前彼女が住んでいたマンションの方がましだと感じるのは、この家が広すぎるせいだ。無機質なあの部屋とは違って、ここには人の温もりが残っているのに、まったくアマーリエを包もうとしない。彼女がそれを拒否していることもあるだろうけれど、安らがせようとする意図が見えないのだ。どこまでも完璧に整えているという矜持が見えて、居心地が悪い。

 だからカーペットに溶けたアイスの染みを作ってやった。そのときのアマーリエは困った顔をして、深く沈んだ水底のような目や、何も見ず何も聞こえないような態度ではなくなっていたので、ミリアは自らの振る舞いに内心拍手を送った。あたしは馬鹿だけど、友達を見捨てるような馬鹿(おろかもの)じゃない。

「ねえ」

 だから、それぞれの行き先に最も便利なターミナルで送迎の車を降りたミリアは、他の三人を短く、けれど強く呼び止めた。

「なーにー? ミリア?」

 リュナがアイスを舐めながら振り向く。キャロルは母親みたいな顔で、オリガはいつものように険しい顔をして言った。

「嫌よ」

 むっとした。

「まだ何も言ってないじゃん!」

「わかるわよ。アマーリエをリリス族のところにやろうって言うんでしょ?」

 睨み合うミリアたちを、アイスを頬張って固まるリュナと落ち着いたままのキャロルが見守っている。ここからはいつもの展開だ。ミリアの発言を、オリガは何を馬鹿なことをと一蹴する。

「私たちに何ができるの? ただの大学生に。あの子には厳重な警備と監視がついていて、市長よりも重要人物扱いだわ。無理よ。慰めることはできても、逃がすのは無理」

「やってみないとわからないでしょ!」

「実行するまでもないわよ! やって、失敗して、私たちは最悪殺されるか実験体にされるか戦場に送り込まれるかのどれかになるの!」

 ごくりと息を飲んだ。やってみないと、とは、言えないことがわかってしまったから。

 ショックで棒立ちになるミリアからオリガは目を逸らす。

「……私だって、可哀想だと思うわよ。泣くか怒るかしてくれればいいのに、全部諦めて、ここにいないみたいな顔をして。まるで半死人だわ。お腹に子どもがいるのに、もっと考えるべきことがあるでしょうに、それすらもわかっているのかどうか」

「オリガ、それは違う。アマーリエは見つけただけなんだよ。本当の恋を」

 眉間に皺を寄せて、オリガはしばらく黙ってミリアの言葉を吟味していた。

「……そんなの、熱病と変わらないわ。無理やり離れ離れにされたせいで、気持ちが高ぶっているのよ。いずれは元通りになる、ならなくちゃいけないのよ。恋を失っても、子どもがいるでしょう」

 まるで自分にも言い聞かせるようだ、と思ったとき、気付いた。オリガは、行動できない自分を肯定して、その上でこの場所でアマーリエにできることがあるのだと考えを切り替えようとしているのだ。

 みんなわかってるんだ、と思う。何がアマーリエにとって最良なのかは、一緒にいて、見ていればわかる。いまミリアが、オリガが、聞いている他の二人が思い出しているのは、最愛の人のことを語る彼女なのだから。

「ほんとに、そうだと思う?」

 本当に、アマーリエの語るそれは、ただの恋の話だっただろうか。

 ミリアなら、あたしはいまこんなに幸せで、こんなにも愛されているとおおっぴらに語るそれを、アマーリエはしなかった。胸に秘めて、秘め続けて、大切に抱きしめていた。誰かに愛された、そのことを誰かに話したくないほど独占したかったのかもしれない。本当の宝物は誰にも見せてはいけない。他人に知られることがなければ、それはいつまでも自分だけのものになるから。

 廊下に立って扉越しに彼女の話を聞きながら、なんてピュアなんだろうとミリアは泣きたくなった。ずっとそうだった。出会ったときからアマーリエはずっと、純粋で不器用な女の子だった。

 大学入学当初から、市長の娘が在籍していることは噂になっていて、お嬢様学校の制服を着た彼女の写真が出回っていた。けれど実際のアマーリエは優しい表情と穏やかな声に普通の喋り方をする女の子で、ミリアとは正反対だった。「いままでの講義ずっと寝てたからノート見せて」と言ったミリアの知人たちに嫌な顔一つせずノートを貸してくれた。でもミリアは親切にされっぱなしなのが嫌で、ノートを返すついでに購買で買ったジュースを渡すと「別によかったのに」と驚いていた。

『ねえ、嫌なら嫌だって言った方がいいよ。損ばっかりしちゃうよ』

 多分、自覚があったのだと思う。ふっと笑ったアマーリエは、仕方がないという顔になって。

『いいの。いまはそう思っても、いつか彼女たちが別の誰かを助けてくれれば、それでいいって思うから』

 育ちがいいってこういうことだ、と思った。「止めといた方がいいと思うけどなー」と、彼女の純粋さを試すつもりでさらに忠告めいたことを口にしたミリアに「ありがとう」とアマーリエは笑った。ミリアの容姿の派手さや、性格や喋り方が自分とは違うからと言って跳ね除けることはなく、本当に感謝を覚えているようだった。

 そんなアマーリエが、やっと見つけた恋。

「あのね。自分の汚いところを認めるのが本当の恋だって、あたし思うんだ」

 いくつもの恋をした。本当の恋人を見つけたのだと思ってきた。けれど別れが来て、小さな齟齬や裏切りや逃亡があった。いつだって美しくて可愛い自分を愛してほしいという自尊心や怯えとともに、真実の恋を探し求めていた。

「みんな、恋人にいいところを見せたくなるよね。好きになってほしいんだもん。汚いところとか不細工なところを見せて、嫌われるのが怖いから、必死に取り繕うよね。でも、アマーリエは認めてたんだよ。自分の恋心に、汚いところがあるんだってこと。そういうのって……」

 みんな知っている。恋をすることには勇気が必要だってこと。

 たくさんの恋を経験する人が優れているとか、たった一つの恋に心を捧げる方が尊いとか、くだらない優劣をつけるつもりはない。たった一つ思うのは、みんな同じ。

 幸せになりたい。そして――幸せになってほしい。

「……何が言いたいの」

 三人を代わる代わる見つめるミリアに向かって、オリガは強張った問いを投げる。

 それに答えるミリアは、息を吸い込み、大声ではないけれど強く、断固として主張した。

「アマーリエを、帰してあげよう。そうしなきゃダメだと思う」

 いつか、遠いところへ行くのだと言ったアマーリエを、何もできずに見送ったとき、そこに隠されていた真実にミリアは激怒した。どうしてアマーリエが、なんで何も言ってくれなかったのと、泣き喚いて、ここにいない彼女を責めた。けれどいまは、たとえもう会えなくなろうとも、彼女を守って幸せにしてくれる人がいると知っているから、きっと晴れ晴れとさようならを言うことができると思う。

 だからこのとき苦しんでいる彼女を、大好きな友人を、愛したというその人に変わって守る使命がミリアにはあった。そんな風に思える友人と出会えていた人生を、ミリアは誇りに思う。

 一人でも、やるつもりだった。友人を助けて自分の将来が破滅を迎えるなら、きっとこの街に未来はない。そんな気がする。

 そのとき、小さな手が木の棒を差し上げた。

「わたし、賛成」

「リュナ」

「だってさー、アマーリエ、ちっともご飯食べないし。ご飯が美味しくないってよくないよ?」

 アマーリエがほとんど手をつけなかったデザートを「ちょうだい」と横取りしてきたリュナは、肩を竦めて戯けたように言った。するとくすりとしたキャロルが白い手を挙げる。

「私も賛成するわ。アマーリエの味方になれるのは、きっと私たちだけでしょう」

 そうして三人で、オリガを見た。まるで苦くて飲めたものではないコーヒーを口にしたような顔で、何か言おうとした。

「……そう言うからには、策があるんでしょうね?」

 多分、キャロルとは違った意味で現実主義的で自分にできる範囲のことを知っているオリガは、これから全員が、医者なり教師なり約束された未来に大きなバツを書き付けて背を向けることを、心底心配して、止めようと考えたはずだった。それでも誰より情が深い彼女は、それらを飲み込んで、覚悟を決めてくれた。

「もっちろん! トートさんって市職員の人、いるでしょ? かなりアマーリエのこと気にしてたから味方になってくれるはず!」

「うわ、出た。行き当たりばったり」

「でもミリアのそういう勘ってかなり当たるのよね」

「とりあえず作戦会議だね。何食べようかなー?」

 リュナが差し上げたアイスの棒に向かって、手を伸ばす。全員の手が同じところを目指したのを見届けて、決意は言葉にせず、ミリアたちは行動を開始した。

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