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GRAYHEATHIA*グラィエーシア  作者: 瀬川月菜
第18章
122/193

18−6

 アマーリエの体調は日々変化して落ち着かなかったが、お腹の子どもはみるみる大きくなっていった。調子のいい日はなるべく周りを探るように心がけたが、特に変化はなく、誰もマサキの来訪に気付いていないようだった。どんな魔法を使ったのか検討もつかない。けれどそれが人生で一度きりの魔法なのだろうということは、わかっていた。

 彼の無事と幸せを祈ることしかできないと思っていたけれど、思考も身体も、日々大きくなる胎児を気にかけざるを得なくなってきた。様々な検査や予防接種、新薬を開発するための細胞摂取に協力することはアマーリエの精神を削ったが、ひっきりなしに胎動を感じると、そこに命が息づいているのがわかって、耐えなければならないという思いが強くなった。

 この子は自分の身を守る手段を持たない。守れるのはアマーリエだけだ。

 どんな目をしているのだろう。髪の色は。顔かたちは。抱き上げて、抱き締める資格がないのだとしても。

 そうして臨月間近になった頃だった。身重のアマーリエの世話は年老いた自分だけでは難しいと、サーワイが父に進言した。その結果、コレット家には大学の友人たちが顔を出すようになった。

 今日は全員揃っていた。オリガは積まれていた雑誌を読み、キャロルは本棚を眺めている。リュナは買い出しに出たところだ。ミリアはソファに座ってテレビを見ていたかと思えば、ドレッサーやクローゼットの中を覗いてはしゃいでいる。

「ミリア、少しはじっとしなさいよ。ちょろちょろと鬱陶しい」

「そんな言い方しなくてもいいじゃない!」

「二人とも、喧嘩はだめよ。胎教に良くないでしょう?」

「胎教って、キャロル……」

 呆れたようにオリガは言うが、ミリアはその通りだと大真面目に頷いている。以前なら笑って彼女たちのうちの一人になって笑っていたはずなのに、いまアマーリエはそれらを外側からぼんやりと眺めていた。

 彼女たちがどう思っているのか、怖くて聞くことができないでいる。

 異種族と結婚し、お腹に子どもがいるアマーリエを、どう感じているのか。こうして過ごしている分には大学で賑やかにしていたときのままで、それがいっそう不安を煽った。惰性的にお腹を撫でながら、そこに居場所がないことを思い知る。

「アマーリエ」

 ふと見上げると、ミリアが近くに立っていた。

「ミリア。どうしたの?」

 笑って尋ねると、彼女は綺麗に描いた眉をきゅっと寄せ、唇を引き結んだ。泣きそうにも見える表情で、感情を押し殺した言葉を漏らす。

「そんな笑い方じゃなかった」

 意味がわからず、何が、と問う前に、ミリアの感情が爆発した。

「そんな、なんにも見てないような笑い方、アマーリエはしなかったっ!」

 全員の視線を集めて、ミリアはリップグロスで彩った唇をわななかせた。

「ときどき遠くを見ることはあっても、あたしたちのこと、どうでもいいみたいに思ってなかった。いまのアマーリエはアマーリエじゃない。あたしの好きなアマーリエじゃないっ!!」

 叩きつけるように言って、部屋を飛び出していくミリアを、オリガが険しい顔で追いかけていく。待ちなさい、という声と足音が遠ざかり、しばらく経ってもどちらも帰ってこなかった。

 嵐がひとりでに暴れて勝手に去っていったのを見た、そんな印象で、呆然としていたアマーリエはやがて深く息を吐き、肩を落として、ぼうっとお腹を撫でた。

(どうでもいい、わけじゃない)

 でも一番じゃない。恋人がいたミリアならわかるだろう。友人よりも愛する人を優先してしまう、ちょっとした裏切りを働いているだけ。そう伝えればいいものを、口にする気力がなかった。深い諦めがため息に混じって漏れ出す。感情を迸らせてアマーリエの無神経を抗議したミリアには申し訳ないし、罪悪感を覚えるけれど、この感情を、それが生まれ、育てた出来事や思い出は大きすぎて、わかってもらえないのではないかという恐れがアマーリエの口を重くし、意思を絡め取る。

 そんなとき、テーブルにことりとマグカップが置かれた。湯気に混じって香るのはスープだ。見上げると、にこりとしたキャロルがアマーリエの隣に腰を下ろした。手には同じ、温かい飲み物の入ったカップを持っている。

「二つあるポットのうちの一つがお湯で、もう一つがスープなんて、至れり尽くせりね」

 部屋の隅にあるワゴンには、友人たちとアマーリエのための飲み物が用意されている。グラスと氷で冷たいものを飲むこともできるし、お湯でインスタントの温かい飲み物を作ることもできるのだ。

 アマーリエはしばしマグカップを見つめて、そっと手に取って口をつけた。優しい塩味のスープはサーワイが作ったものだとすぐにわかった。ささくれだった心を鎮めてくれる。

「アマーリエ。あなた、ずっと怒っているでしょう?」

 キャロルの笑み混じりの問いは、アマーリエの心に突き刺さる。けれどどういうことだろうと首を傾げた。

「……『怒っている』って、どうして?」

「私たちが何も知らないから」

 突き刺さったものが、鈍く疼いた。キャロルは羽毛のように柔らかい微笑みでアマーリエを見つめている。

「あなたがリリスの国へ行って、何を見て、どんな生活をしていたのか。あなたが結婚した人はどんな人なのか。その人のことをどう思っているのか。何も知らない私たちは想像することしかできないし、あなたにとっては大事なのだろうそれに触れてもいいか、ずっと考えているのだけれど……」

 すうっと頬を涙が伝って、驚いた。

「あ……」

 ちょうどいい機会だったみたいね、とキャロルは笑った。

「教えてくれる? 私たちの知らないあなたのこと」

 覗き込む友人の微笑みに、添えられる手に、唇が震える。

 そして、想いは言葉となって溢れ出た。

 父に告げられたときの衝撃と、すぐに逃亡したこと。諦めて戻り、嫁いだこと。リリスという国の文化と、そこに生きる人たちのことや、慣れない風習の中で戸惑っていると誰しも親切にしてくれたこと。特にキヨツグが気遣ってくれたのを、喜んでいいのか、どう受け止めていいのかわからなかったこともあった。

 リリスの中に溶け込もうとして、他人に無理だと嘲笑われたことがひどくショックだった。そこで知り合った男性と衝動的に逃げてしまったのは、いまでも後悔している。

 彼をとてつもなく傷付けた。そんな彼が追いかけてきて口にした言葉に、アマーリエはこの人が大切だとやっと気付けた。

 いつもいつもいつも、包んでくれた。逃さないでいてくれた。ふわふわと夢見る子どものようなアマーリエを、その手で育てるように柔らかく。そこから世界が広がったのだ。眩い光が射し、祝福のようにすべてが歌うように鳴り響く。自分と彼の二つの心臓の音、触れ合った手から伝わる体温もまた歌になる。そういう恋だった。そんな美しい恋だった。

 いつか隔てられてしまうことを、恐れを、話せないでいたことを。消えていなくなってしまえればどんなにいいだろうかと考えてしまったことを。会えなくなったいま、お腹の中にいる彼との子どもが動く度に、泣きたくなるほど後悔するのだ。

 さよならは優しいものでなんかない。けれど。

 こんな世界、こんなどうしようもない世界。あなたが、あなたたちがいるから、守りたいと思ってしまったから。

 アマーリエは、この一年のことをとめどなく語りながら、マサキのことを思い出していた。こうやって誰かに聞いてほしいと思っていたことを、彼は知っていた。だからあの申し出だったのだろう。だからこそ、拒絶しなければならなかった。何度優しい彼を傷付けたとしても、代用品にしてはならない。

 代わりなんていない。いるはずがない。胸を破るほどに根ざすこの想いが、別の誰かに向けられるとは思えない。

 だからこそ、怖い。自分がそこまで純粋な人間であるという自信がアマーリエにはない。

「ずっと思っていることがあるの……」

 秘めていた恐れを口にできるのはいましかない。懺悔するように、慎重に口を開いた。

「私は、リリス族の長の妻だから、族長に愛されているっていう絶対の安心感を求めて、好きになったのかもしれない。好きだって錯覚しているんじゃないかって。リリスで生きるために、あの人の気持ちを利用したんじゃないかって……」

「後悔しているの?」

 後悔。

 好きになったことを。

「ううん」

 次の瞬間、思いがけない言葉がこぼれ落ちた。

「――奇跡だと思う」

 自身の言葉にはっとなって、アマーリエはようやく、左薬指に嵌めたままだった指環を意識した。

 約束の環はずっとここにあった。誓いは、失われたわけではなかった。

「たとえ、私が汚い理由であの人を好きになったんだとしても……」

 打算や利己はあったかもしれない。身を守るための手段になりうることは否定しない。それでも、好きになったことは、アマーリエにとってかけがえのない運命だった。

「私は、あの人と一緒にいたくて、笑ってくれれば嬉しくて。悲しい顔はさせたくなくて、どうしたら幸せだと思ってもらえるだろうって考えて。幸せにしたかった。愛していたいと思った。ずっと。いつまでもずっと」

 一生をかけて、恋をする。たった一人を想う。

 恋をしたことのない人間の戯言と嘲笑われようが、信じていたいことがある。世界の終わりも始まりも、かつてヒト族が空の高みに手をかけていたことも、すべてが遠く過ぎ去ったとしても、永遠に失われないものがあること。

「それが、奇跡?」

「死がいつか私と彼を別つとしても……それでも、一生恋ができるのなら、それは、きっと、幸せな奇跡だよ」

 この胸にある想いがそうであると、信じたい。

 キャロルは、笑ったりしなかった。温かい眼差しでアマーリエを見つめ、そっと肩を抱いてくれる。

「そうね。だってそれは、永遠ってことだものね」

 アマーリエが微笑みを返したとき、部屋の扉が勢いよく開かれ「たっだいまー!」と賑やかにリュナが現れた。

「アイス買ってきたよー! ついでにオリガとミリアも拾ってきた!」

「ちょっと、この食欲旺盛娘に言ってやって。いま秋だって。いくつ食べる気だって」

 言われて、首を巡らせた先にあるカレンダーの月暦が進んでいて驚いた。そういえば少し肌寒い。赤ん坊も大きくなるはずだった。

「新発売の芋栗アイスでしょ、南瓜タルトアイスでしょ、お餅アイスでしょー」

「あらまあ。早く食べた方が良さそうね、もう溶けているでしょうし」

 オリガとキャロルが器とスプーンを探していると、それまでひっそりと立っていたミリアが、足を引きずるようにやってきてアマーリエの前に立った。俯き、下ろした両の手を拗ねるような拳にしている。なのに、いまにも決壊しそうだ。顔は見えないけれど、鼻をすすっている。

「ミリア」

 呼ぶと、こくんと喉が動いた。

「……ごめんなさい」

「あたしも……ごめん」

 ぽつんと言う彼女に、アマーリエは首を振り、少しだけ笑みを浮かべた。

 どうでもいいわけじゃない。けれど大切なものができてしまった。どちらも取れたらいいけれど、自分の手の小ささと無力さを思った。

 買ってきたのがずいぶん前のように何故かもう半分以上溶けてしまっていたアイスを、一口ちょうだいだの、こっちの方が好きだのと騒ぎながら食べて、その甘さに少しだけ、慰められた気がした。

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