猫と初恋の話①
軽やかな音色を奏でるは、琴。弾く手はしなやかで、その表情は晴れやか。
上野国沼田は今、春を迎えた。
妻の琴に耳を傾けている城主の腕には、ふにゃふにゃとした手を振り回す赤ん坊が抱かれている。
「やはり母となると、女は変わるものですわね」
「江戸の忠勝様もたいそうお喜びだそうよ」
「初孫ですものねェ。産着や玩具を山ほど送ってこられたし」
「……でも、昌幸様からは何もないわよね」
ぴたり、と音が止む。
「あ……」
聞かれていた。おしゃべりに花を咲かせていた女中たちから、色が失せる。
押し黙る於稲の傍から、右京がおっとりとした笑顔で言った。
「ねぇ、あなたたち、お庭を掃除していらして。少し、耳障り」
褒め言葉も毒舌も同じ口調だから厄介だ。
女中たちは顔を引きつらせながらも、無言で素早く立ち去った。
「……どうした、於稲。もう少し聞かせてくれないか」
赤子の頬をつつく信幸の微笑みこそ、春そのもの。「まんも聞きたいだろう」と赤子の顔を覗くと、幼い娘はだぁと笑った。
赤子は、女。
「……はい」
於稲は改めて琴を奏でるが、その表情は暗い。
「まぁ、於稲ったら。元気を出して? あんな人たちの言うこと、気にすることないわ」
「ありがとう、右京」
チリン。転がるような鈴の音を鳴らして、猫がやってくる。右京が飼っている三毛だ。
「ノノイ」
右京が名を呼ぶと、猫は彼女の手に擦り寄って喉を鳴らした。その声を、右京は聞く。
「……誰か、いらしたみたい。お客様かしら」
「お客?」
於稲と同時に聞き返し、信幸は立ち上がる。
「誰かな、見てこよう」
「真田の親父さんだよ」
ぶらん、と天井から逆さ吊りになった少年が告げた。器用に足先で梁に掴まっている。
「葵亥」
「……父上が?」
その唐突な登場に驚いたのは於稲だけで、信幸は平然と聞き返す。その顔は渋い。と言うより、苦い。
葵亥はくるりと一回転して下りた。
「あと、信仍」
「シゲが、そうか」
とたんに表情を明るくする信幸から、於稲はまんを抱き預かる。
「お久しぶりじゃな。昨年の戦勝祝い以来でありましょうか」
「出迎えてくるよ。宴の用意を……あ」
命を受けるべき侍女たちは、つい先ほど右京が追い払ってしまった。
まんを抱きなおして、於稲はくす、と笑みをこぼす。
「わらわが伝えておきます。殿は早うお迎えに行って下さいな」
「ああ、すまないな、於稲」
本当に申し訳なさそうな顔でまんの頭を撫でると、信幸は足早に表に向かった。
「葵亥、また腕を上げたわね」
エライエライ、と右京は十五歳になった葵亥の頭を撫でた。その様は、信幸が赤ん坊を撫でたのとまるで同じ。
葵亥は思いっきり眉を吊り上げ、彼女の手を払う。
「よく言うぜ。俺が梁の上に居たの、ちゃんと分かってたんだろ」
「まぁ、照れなくていいのに」
「照れてねェッ」
葵亥は真っ赤になって怒鳴ると、そのまま煙のように姿を消した。せっかちね、と右京は笑みを絶やさない。
「せっかちと言うのとは、ちょっと違う気がするが……」
於稲はいっそ葵亥が哀れになってきて、小さくため息をついた。
異を唱えられたのが心外だったのか、右京は眉を寄せる。
「だってね、於稲。あの子、この前の戦でも一番に飛び出していって、危うく北条方に見つかるところだったのよ? こう、矢が飛んできて。かすっただけだったから良かったけれど、あんまり性急なのは忍びとしてはよろしくないわね。元気なのは良いことだけれど」
力説する右京に、於稲は「はいはい」と適当に返す。
人の心とは、複雑で自由のきかないもの。
せっかちゆえに矢傷を受けた葵亥を手当てした者こそ、右京。それから彼の態度が変わったことに、右京は果たして気づいているのか、いないのか。
(恋路とは難しいのう……)
於稲は赤ん坊を抱いたまま、大殿の来訪を侍女たちに知らせようと歩みだした。
「やだ、置いていかないで、於稲ったら」
右京は子供のように寂しげな顔をして、けれどすぐに微笑んで於稲にくっつく。
不思議なくらいに、彼女は於稲に懐いている。一度本人に尋ねてみたら、
『浜松の市で盗人を追いかけていた於稲に、一目惚れしてしまったの』
と、極上の笑顔で答えられた。……取りあえず、冗談と受け取っておいた。
ちなみに。右京は初め於稲を「小松」と呼んでいたのだが、信幸が「於稲」と呼んでいるのを聞いて盛大に拗ね、ズルイズルイと騒ぎ立てた末、今は負けじと於稲の名を連呼している。
他人の情緒には鈍感なようで、情熱的。普段はぼんやりとしているようで、くノ一としては真田忍び衆・草天狗屈指の実力の持ち主である。……武士と共に戦に赴くとき、於稲と離れたくないと駄々をこねるのは少々問題であるが。
「右京は不思議な女子じゃな」
「え、なになに?」
別に褒めたわけではないというのに、目を輝かせている。於稲は思わず笑って訂正した。
「間違えた。右京は、素直な女子じゃな」
「あら、そう?」
話の筋が分からないまま、それでも嬉しそうに右京は瞬いた。
「姫様、どうかなさいましたか」
二人を見つけて声を掛けたのは茜子だ。
彼女は今、若いながらも侍女頭に近い立場にある。というのも、戦や何やで男たちや右京などが城を空ける時、留守部隊として於稲の傍に残るからだ。今は伊賀忍としての活躍こそ少ないが、その忠誠心の強さと真面目な働きっぷりから、於稲からも他の侍女たちからも信頼されている。
いわば、小松姫の懐刀。
ゆえに。
「あら、茜子。見えないと思ったら、こんなところで遊んでいらしたの。けれど、もう少し迅速に動いてくれないと困ってしまうわ。主命があるときに主人の前に居ないのでは、何の役にも立たないもの」
にっこりと微笑んで毒を吐く右京に、茜子もにこやかに返す。
「すみません、右京様。茜子は遊んでいたわけではなく、廊下の掃除をしていたのです。姫様の清清しい琴の音色が途切れましたようで、これでも急いでこちらに参りましたのですが?」
「あら……伊賀のかたって鈍くていらっしゃるのね、意外だわ」
ピシリ、と空気にヒビが入る。
……ゆえに。茜子は何かにつけて右京の目の敵にされている。
「右京、言い過ぎだ。怒るぞ」
於稲は低い声で言って右京を小突いた。
ごめんなさい、と言う右京は随分と不満げである。
「すまぬな、茜子。右京の口の悪さは気にするな。――そうそう、実は今、昌幸殿と信仍殿がいらっしゃったようでな。もてなしの用意を頼みたくて」
「まぁ、それでは急いで支度を」
頷いてから、茜子は首を傾げた。
「広間などに側女はおりませんでしたか」
「ああ……おったのだが、庭の掃除に出してしまっていて」
どこか歯切れ悪く答えると、茜子はそうですか、と不審に思った様子もなく納得してくれた。その横で、右京が悪びれも無く微笑む。
「おしゃべり雀はお庭に放してあげた方が良いでしょう?」
「は?」
「いいや茜子、気にするな」
「………はぁ」
何となく感づいてしまったようである。茜子は渋い顔をしてため息をついた。
「すみません、姫様」
「あああ、おぬしが謝ることではないだろう。気落ちせんで良い」
「ですが……」
於稲は慌てて、しゅんと落ち込んだ茜子を慰める。
弱り顔の於稲に相対して、右京はどこまでも明るく朗らか。ただし、まとう空気には真逆の感情が見え隠れしている。
「ね、茜子、落ち込まないで。あなたが悪いのではないのだもの」
「まぁ右京様、温かきお言葉。もったいのうございます」
飛び散る火花。その刺激を敏感に感じ取ってか、於稲の腕のまんがぐずり出した。
「………いい加減にせぬか、二人ともっ!」
剣呑な雰囲気に圧倒されて小さくなりつつ、間に挟まれている於稲が牽制する。
茜子が我に返ったように頭を下げた。
「私ったら……申し訳ありません」
「ごめんね、於稲。まん」
「毎度毎度、何故そんなに仲が悪いのじゃ、おぬしたちは。……ああ、よしよし」
わぁん、とまんが本格的に泣き出して、於稲は必死にあやす。だが一向におさまる気配がない。
「於稲、わたし、何かまんのお気に入りの玩具を取ってくるわ」
「ああ、それは助かる。すまぬな、右京」
任せて、と右京はパタパタと走っていった。
「……私のことを鈍いと言うわりに」
右京様もやはり『本気』は出しませんね、と言いかけて、やめておいた。だが途中でやめようが言い切ろうが、大差はない。
「すまぬな、茜子。右京のあれは……もはや癖と言うか」
「はい、もう慣れました」
その表情は、慣れたと言うより諦めたと言ったところ。
「本当にすまぬ」
重ねて謝ると、茜子は意外にもニコッと破顔した。
「いいえ、私は姫様のお傍にお仕えできるだけで幸せでございますよ。右京様が根から悪いかたでないのは充分存じ上げておりますし、私も嫌いというわけではないのです。姫様をお慕いしているのは一緒なのですから、似た者同士なのかもしれませんね」
『勝手にあなたと一緒にしないで下さる?』
冷え冷えとした声は、すぐ近くから。ぎくりとして振り向くと、三毛猫が日なたで欠伸をしていた。
「……右京、突然ノノイを使うのはやめてくれぬか。心臓に悪い」
ドキドキと動悸が静まらない胸を押さえ、眠たげな猫を軽く睨む。
このノノイという猫は、もともとは変哲のないただの三毛猫であった。人語をたしなむ趣味など持ち合わせていない。が、その飼い主が普通でないため、前触れなく話しかけてきたりする怪猫になってしまった。そのせいで、城仕えの普通の人間や普通の猫には倦厭されている。茜子などは最初同情していたのだが、ノノイはいつの間にやら性格まで主そっくりになってしまい、最近では悠々自適に城中生活を謳歌しているようだ。
ノノイは顔を上げて、猫らしく笑った。
『だって、どの玩具が良いか迷ってしまったんだもの。でもその様子だと、もう必要ないようね』
「えっ? ………あ」
於稲が覗き込むと、腕の中のまんはすっかり熟睡していた。
くすくす、という艶やかな笑い声が猫からこぼれる。
『ねぇ。わたくし、先に叔父様(昌幸)や信仍様のところへ行っているわ。於稲も早くいらして。茜子はさっさと持て成しの準備などなさったらどうかしら』
「……承知いたしました」
頬を引きつらせながら、茜子は答える。
ノノイはまた一つ欠伸をして、すやすやと寝息を立て始めた。
それを見届けてから、於稲は重いため息をもらす。それを見た茜子は、右京に付き合って疲れたのかと思った。しかしぼうっとした表情を覗いてみると、それだけではないような。むしろ、気が重いといった様子である。
「……姫様? お疲れですか」
「むっ? ――いや……そういうわけでは」
「では、ご気分が?」
「いいや、心配はいらぬ。ただちょっと、億劫なだけじゃ」
於稲は苦笑いで答え、まんを抱えなおす。「億劫……ですか」と茜子は首をひねり、やがて思い至って顔をしかめた。
「大殿(昌幸)がいらっしゃったんでしたね」
ここだけの話、この嫁と舅の仲は芳しくない。はっきり言って、悪い。
昌幸は根っからの反徳川の人間であり、また真田の信条として独立独歩を掲げている。ゆえに、徳川にも豊臣にも心から仕える気はないらしい。
そのため、信幸の妻としてやってきた「家康の娘」が疎ましくて仕方ないという。誰から聞いたわけでなく、言外に本人がそう言ってきているのだ。
それに付け加え、於稲の胎はなかなか新しい命を宿さなかった。会う度に「役立たず」と責められ、何も言い返せない於稲にとって辛い日々が続いていた。
「でも、今回はまん様がいらっしゃるではありませんか。大丈夫ですよ、きっと褒めて下さいます」
「まさか、それはありえぬよ。……わらわには、昌幸殿に何と言われるか予想がついておるわ」
幼い娘の寝顔に瞳を落とし、於稲も半ば諦めたように言う。
「まぁ姫様、なんと?」
「こう言うに決まっておる」
於稲は顔を上げ、眉間に深いしわを刻んで昌幸の表情を真似して見せた。
果たして、その舅の言葉とは。
「徳川は、どうあっても真田を滅ぼしたいようだな」
面白いくらいに予想通りの言葉を吐き、昌幸は呆れたようにため息をついてみせる。
「父上、それはどういう意味でしょう」
向かう信幸の顔は厳しい。昌幸は膳の酒を取ってくっと呑んだ。
「言ったまでの意味よ。ほれ、そこの娘が真田の次の嫡男を生まんのが、何よりの証拠じゃろうて」
於稲はただ俯いている。こうして嫌味を言われることには本当に慣れてしまっていたが、かと言って舅を睨み返すことなどできない。
「父上。今回、於稲はこの信幸の子を無事生んでくれました。もっと他に言うことはないのですか」
このような時、信幸は必ず於稲を庇ってくれる。その瞬間だけは、ひどい罵りの言葉を浴びさせられる苦痛を忘れて、泣きたいくらいの至福の中にいられた。
熱くなる信幸を冷えた目で一瞥し、昌幸は鼻を鳴らした。
「他に言うこととな? あるとも、そのためにわざわざ来たのよ。実はな、今度、信仍が太閤殿(秀吉)の奉行・大谷吉継殿の娘御を娶ることになったのじゃ」
「本当か、シゲ」
信幸と於稲は目を見張って信仍を見やった。茜子や他の侍女たちも同様である。ただ右京だけは、静かに微笑んで、ゆっくりと従兄の方を向いた。
信仍は淡く照れを含んだ笑みで答えた。
「本当だよ。秀吉様が取り持ちをして下さって。ほら俺って、イイコだから孫みたいに可愛がってもらっててさ。相手の子は利世姫っていうんだけど、俺にはもったいないくらいの子だよ」
不意に於稲と目が合うと、信仍は瞬くように視線を逸らした。
「……俺も年頃だし、ちゃんと結婚しておかなくちゃ。いつまでも一人身じゃ寂しいしね」
昌幸は扇を取り出し、忙しく扇いだ。
「吉継殿といえば、越前(福井県)敦賀城主であられるぞ。何より太閤殿に懇意にされておる。これで真田は豊臣家との縁を結ぶことも出来たというわけじゃ。どこかの成り上がり者の家の後ろ盾など必要ないほどにな」
「太閤様も、かつては一介の足軽兵であったと聞いておりますが」
たまらず、於稲は口にしていた。ギッと鋭い視線を感じたが、俯き加減のまま床を睨み続けてやりすごした。
「それで、俺はまたしばらく大坂に住むことになるから。父上や兄貴にはともかく、義姉さんや姪っ子にはこの先当分会えないと思う」
「またか。それは……寂しくなるな」
「うん、でもまた戦なんかがあれば、俺も真田として親父や兄貴と一緒に戦わせてもらえるしさ。この結婚は光栄なことだし、利世姫は可愛いし。真田のためにもいい話だろ」
右京からまんを抱かせてもらって、信仍はおどけてその顔を覗き込む。きゃはは、とどこまでも無邪気な笑い声が上がった。
兄は徳川に。弟は豊臣に。
この兄弟の行く末を予期できた者はいなかったのか。
あるいは。