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十八話 寒村



「見ろ。村があったぞ」


 山林を出た四季右衛門が首を向ける右方にはやや遠くに草原の草を刈って建てられた建物の数々があった。山裾から小さく広がるように建てられており、見える限りほとんどが焦げ茶色の材木を建材とする木造りのものだ。それらの建物はところどころ屋根にある煙突から煙を噴くものがあるなど、そこはまさに村であった。


「何ぞ食い物を買いたいが、果たして両替屋はおるかなぁ」

「まず、おるまいな。見ろ。家の数も少ないようだし、屋根も風雨にさらされ尽くして黒ずみが多い。造り直す余裕もないのだろう。どう見ても、寒村だ」


 猛蔵と柔膳がこうした言葉を交わしながら、四人は山沿いに内向きにカーブして膨らんだ草を刈って作られた道を歩いて村の方へと向かった。村は建物のロッジみたいな造りようといい、地面に石畳が敷いてあることといい、遠目から見ても日本の村とは違いがある。だが、たしかにどこもかしこも薄汚れていて、両替屋が必要になるような場所だとは思われない。村の外縁を区切る柵も近くなり、日本語でのんびりとした会話を交わす二人が口を閉じた。そして村の入り口に四人がたどりつき、そこを通り過ぎようとしたとき、どこからか「待った!」との声が響き渡った。アスファイヤ語だ。それ故に、解らずそのまま中に入ろうとする四季右衛門を除く三人を、四季右衛門が「待て、止まれっ」と小声で鋭く言って止めた。


「何だ?」


 三人はぎくりと足を止めた。


「先の声、あれは我らにかけられたものだろう。待てと言っていた。見ろ。人が来る」


 前方からは四人の男たちがこちらへ駆け寄ってきていた。見れば各々たくましい、屈強な身体つきをしているが、武器も持っておらず、土汚れのある白い服はくすみ、布もくたびれて、どうやら兵ではなくただの民のようだ。来たる彼らをながめながらやや身を強張らせた猛蔵が、

「何故だ。何のために呼び止められた?」

 とうめくように言った。


「わからん。身なりには不審はないはずだ。だが、何事か知れてこちらの素性を見破られるようなことがあれば厄介だ。私が相手をするためお前たち、決して口を開くなよ」


 一人前に踏み出した四季右衛門が釘を刺すと共に、男たちが四人の下に到着した。彼らの一人が足を止めるやいなや、

「なあ! あんたたちっ、兵科兵団の奴らだろう?」

 と勢い込んで聞いてきた。


 四人が着ているものはソーラコア兵から奪った兵士たちの制服だ。四季右衛門は流暢なアスファイヤ語で「そうだ」とぬけぬけと答えた。


 それに男たちはうっすらと微笑みながらコクコクと何度も小さく頷いて、

「魔族がオッフェンバック断結界の中に入り込んだりしたから家族のために辞めて故郷に帰ったが、実は俺たちも元は兵科兵団にいたんだ。あんたら、知らない顔だが、俺たちの顔を知っているか?」

 知るも知らぬも互いの顔など知っているはずがない。それはともかく、四季右衛門はそんなことを聞いてくる相手が何を言いたいのか読めず、――なんだ? こちらを元朋輩と思うて話しかけてきたのか? 或いはまさか、自分たちを知っているかどうかでこちらを見定めようとしているのか? と思念懸念を次々と浮かべつつ、それでもけっきょく堂々と、「いや、悪いが知らん」と言った。


 男たちは鼻から深く息をついて気を落としたような顔をした。その顔に清十朗たち三人はどきりと心臓をちょっと跳ねさせた。そんな言葉がわからぬ三人を置いて会話は再開した。男たちの一人が、

「それでも、俺たちが元々兵科兵団にいたってこと信じてくれるか?」

 と窺うように言った。


 どうやら男たちは自分たちが元兵科兵団所属だということを主張したいようだ。四季右衛門は男たちを見上げ見下ろしながらその言葉にどう答えるべきか吟味した。そもそも彼らがそういった主張をして何を目的としているのかがわからない。わからないものだから四季右衛門の脳中にはまた様々な思念が泡のように浮かんできた。その中でも最も大きく膨らみ、割れ難いのは、やはり彼らが元仲間だとして近寄りこちらを何事か謀ろうとしているのではないかという懸念だ。その謀りがどのようなものであるか、また本当にげんざい進行しているのかはもちろん知れぬが、その謀りによってこちらの正体が暴かれるようなことがあればそれは今回の任務に重篤な差し障りが生じる。前の砦のときにもその懸念は発揮されたが、結界の中に自分たちが潜り込んでいるということが万が一相手の中枢に知られれば、四季右衛門たちは唯一持っている――こちらが王都に入り込むことはないだろうと相手が思っている、というアドバンテージを失うのだ。したがって四季右衛門は慎重になったが、よくよく考えると相手が近寄ってくるのならば道を聞くというこちらの目的も果たしやすいし、それが終わればさっさと退散すればよいと思い至った。また次に現れた懸念として、すでに男たちはこちらが変装しているということを見破っており、それを暴くための策略としてこのような主張をしているという考えも浮かんだ。しかし四季右衛門はこれも却下した。服飾やさりげない身振りなどその組織に属しているものしか知らぬ符丁や暗示をして相手の嘘や変装を見抜くということは忍者もよくやることだ。だが、注意深く見上げ見下ろしてもその暗示の兆候は見えないし、それにこちらの変装をこの短時間で見破ったというのが元より考えられない。厳しい研鑽の上に成り立っているだけに自分の忍法にはそれほどの自信を持っている忍者四季右衛門であった。そのため思案の結果として、

「信じてもいい」

 と四季右衛門は言った。


「おおっ。そうか」


 男たちは笑顔になった。そしてそのまま仲間たちと顔を見合わせて軽く喜びあう。そんな彼らを見て四季右衛門が、

「しかし……それがいったいどうしたというのだ? 朋輩のよしみで、何ぞ頼みでもあるのか?」

「実はそうなんだ」男たちの一人が後頭部を掻いた。「救国物召喚っていうのがあっただろう? あれって結局どうなったんだ? お前たちももしかしたら守秘義務があるかもしれねぇが、頼む、元仲間のよしみで教えてくれ」


 彼らはアスファイヤが日本にやってきた云々の一連のことは知らないらしい。テューマー王もその辺りの事情説明は民衆に対して当然に行っているが、ここが寒村なだけにその報がまだ行き届いていないようだ。

 男たちの言葉を聞いた四季右衛門はなるほど、と納得すると共にそういうことか、と拍子抜けした。ごちゃごちゃと一人で思案していたが、彼らの主張はこれを聞くためであったのだ。ペーチャーへの尋問によって不思議なことに彼らよりよっぽど事情に詳しい四季右衛門はアスファイヤが異世界に召喚されたことや、今げんざい召喚された国と戦をしていることを説明してやった。話を聞くうちに男たちの顔は困惑したものへと変じてきた。それも当たり前だ。いくら魔法が存在する世界の住人とはいえ、自分たちがいつの間にか異なる世界に来ていたなどとあまりにも荒唐無稽――前代未聞が過ぎることだ。話を語り終えた四季右衛門は顎に手を添えて黙考する男たちに次は王都までの道を尋ねるという自分の用を果たそうと声をかけようとした。その前に――

「そういうことならお前たち、どうしてこんな村にやってきたんだ? 四人なんて何をするのかわからん数で、いったい何の仕事をしているんだ?」

 と男たちの一人が聞いてきた。四季右衛門は沈黙した。


「だってそうだろう? 戦をしているのならば、その最中にこんなところへ来る理由がない。いや、来られるわけがない」


 この言葉には他の男たちも「うーん。たしかに」とうめいた。そうしていると別の男が四季右衛門にやや胡乱気な目をちらりと送り、 

「お前たち、本当に兵科兵団の者か? まさか姿を偽っているんじゃないだろうな?」

 と言った。


 あてずっぽうの放言であろう。それでも実は的を射た言葉である。しかし四季右衛門はいささかも動揺した様子を見せず、むしろ呆れたように微笑すらして、

「何を言う。おかしなことを言うな。そんなことはありえない」

 と返した。


 やはり四季右衛門、こういうところは胆太いと言わざるを得ない。そんな彼の態度もあってか、また別の男が「そりゃそうだ」と援護した。


「それはこの人の言う通り、いくらなんでもめちゃくちゃだ。だってこの人は救国物召喚から続く諸々の事情を知ってたじゃねぇか。それはまだ民衆は知らされてないんじゃねぇのか? 俺たちが知らなかったようにさ」

 全くの思い違いだが、四季右衛門を疑った男は「むっ」と言葉に詰まった。


 しかし、彼は未だわだかまったものが喉元にあるのか、口ごもりながら、

「実は戦をしてるって国の奴が変装して潜り込んだとか……。それなら事情を知っててもおかしくはない」

 と言って、さすがにおずおずと機嫌を窺うように四季右衛門を見た。


「……」


 四季右衛門は変わらず微笑したままでいた。そんな彼が口を開くより先に、また例の男が援護を飛ばした。


「それこそありえねぇよ。オッフェンバック断結界が張られたそうじゃねぇか。あれを越えるなんて不可能だ」


 否定された男はその言葉にも一理あったのか「むう」とうめいたが、次にくちびるを尖らせて、「じゃあ、なんでここにやって来たんだ?」とつぶやいた。


「なあ、あんたたち、どうしてここに来たんだ?」

「秘事だ」


 つぶやく仲間の代わりに聞いてきた男に四季右衛門はこう答えた。ばっさり言われたことで男たちは押し黙ったが、隠されるとかえって想像をめぐらすのが人間心理だ。それに先ほどは守秘と思われる事情を教えてくれただけに男たちの心には少しぐらい秘密に踏み込んでいてもいいだろうというある種の気安さが無意識的に芽生えていた。そのため彼らは遠慮することなく思索を続けた。そして男たちの一人がある着想に至った。至ったのはやはり四季右衛門に疑いをかけていた男であった。


「まさか……お前たち、戦場から逃げてきたのか?」


 彼がふいに口にすると、他の男たちは眉をひそめて四季右衛門を見た。今は兵科兵団を辞めてただの民衆ではあるが、彼らは元々恐ろしい魔族たちを相手に戦っていたという自負を未だに大切にしている者たちであった。兵科兵団を辞めたのも万が一故郷に魔族たちがやってきたなら身体を張って守ろうという意思ゆえだ。ただそれでもやはり自分たちだけ故郷に帰ってしまったという負い目はあって、戦場からただ逃げ出そうという人間にはその負い目の分だけ厳しく軽蔑的ですらある男たちであった。男たちの一人が目を鋭くして「そうなのか?」と聞いた。


「そんなわけはない」


 急に剣呑な雰囲気となったのを読んで笑みをひっこめた四季右衛門が即座に否定した。


「では、何故ここに来たんだ? 戦をしている兵たちが四人だけでこんな何もない村に来る理由は他に考えつかないが」


 たしかに四人だけでこの寒村に来るもっともな理由は見当たらない。ここは戦場となった砂浜から近い村だが、さらに近いところに前に立ち寄った砦があるからだ。補給などの用があったとしてもそこでやればいい。それでも四季右衛門が何か理由を捻りだそうと血流の音を聞くほど凄まじく脳を回転させていると、アスファイヤ語を聞きとるのにより慎重となったのが仇となったか話はすぐに進み、男たちの一人が無言のままの四季右衛門を見て、

「……本当に逃げ出したのか?」

 と言った。


 話が勝手に進んでしまったことと、男たちのさらに険呑となってきた雰囲気を察して、妙なことになってきたな、これでは道を尋ねることは叶わぬかもしれん、と心中で舌打ちした四季右衛門は「違う」とはっきりと否定した。


「では何故ここに来た?」

「くどいな。それこそが兵科兵団の守秘だとは思わぬか?」


 四季右衛門のこの言い訳には男たちは鼻白んだ。何しろ最初に守秘義務を気にしていたのは男たちの方だ。そこを突かれると弱い。じっと四季右衛門と見つめ合っていた男たちはふと目を逸らし大きく息を吐くと、その内の一人が、

「それもそうだ。いや、悪かった。なんだか頭に血がのぼってな」

 と言って愛想笑いを向けた。それによっぽど後ろ暗いはずの四季右衛門がやわく笑みを返しては「よい。そういうこともある」と許した。そして彼はそのままの流れで王都までの道を聞こうと口を開きかけた。


 その時である。四季右衛門から目を逸らしていた男たちの一人が「あれ?」と声を上げた。


 四季右衛門は「どうした?」と聞きつつ心中にて――またか。今度は何だ。と呟いた。しかし彼には恐れも焦りも湧き起こらなかった。相手が対応するに経験の少ない異邦人であるということや慣れぬ言語を使っていることもあってどうも普段とは勝手が違うが、彼は交渉事や尋問、ひいては偽証や誤魔化しなどの薄氷を踏むような仕事をこれまで多々こなしており、つまりそれらの物事が得意であった。相手がいかなる不審、文句を挙げようと口を以って切り抜ける自信はある――。


「いや、後ろの体格のいい彼、けっこうな大怪我をしてるじゃないか。ほら、顎の皮がめくれあがっている」


 瞬間、四季右衛門が目を剥いて鞭のように振り返った。体格のいい彼とは猛蔵のことだ。見ればたしかに彼の右顎辺りの皮はいま不気味に浮いている。さすがの四季右衛門が――きゃつ! また顎を掻いたな! と心中で躍り上がった。


「こりゃ大変だ。すぐに治療の魔法で手当てしてやろう」

 と、男が脳中での激動に反して凝然と固まる四季右衛門の脇を抜けて猛蔵の方へと小走りに駆け寄った。自分へと近づいてくる男に猛蔵は不審げな顔をした。どうやら彼は自分の状態に気がついてはいないらしい。迂闊と言えば迂闊だが、彼としても言語が理解できず様相の把握できない状況を見守るのに気が向いてそのような心理になかったのであろう。ともかく話の流れがわからない猛蔵はどうしてよいのか分からず懐疑的な表情をするばかりであった。


 これに対する四季右衛門は何とか誤魔化しの理由を捻りだそうと再び脳を凄まじい勢いで回転させていた。しかし天は無情なり、何も案は下りてこない。まず、男がやろうとしているのは怪我を治してくれるという間違いなく善性の行動であるだけに下手な断りは大不審だ。無論、日本語を話して猛蔵に危機を伝えるわけにもいかない。となればいっそのこと何かしらの行為を以って場を切り抜けるか、とも考えたがそれも無理だ。場には四季右衛門と男たちのやり取りを「何だ何だ」と遠巻きに眺める村人が少しずつ集まり、十数人ほどにも及んでいた。これではたとえ一瞬男たちを倒そうともその者たちに見咎められてしまう。これらの結果として四季右衛門は凝然と固まったままであった。

 男が猛蔵の前に立った。猛蔵はなおもって気がつかない。そしてそんな猛蔵の顔を見上げる男が「ん?」と首を捻った。


「膿んでおるのか、皮の下が黒ずんでおるな。おい、どうしてそんなことになるまで放っておいた」


 男が目を細めて猛蔵の皮の下を注視した。すると彼はまた「……ん?」と首を捻った。その視線に鋭い疑惑の念を感じ取ったか、猛蔵はようやくハッとして飛び退こうとした。だが、その前に、何に気づいたか男の手が蛇のようにするりと猛蔵の顔を這った。そして彼の指は顎の浮きに触れ、その皮を少し剥がしてしまった。彼が「まさか!」と叫び終わる前に猛蔵は後ろへ跳ねとんでいた。

 猛蔵が数メートル後ろへとトン、と下りた。その顔はとんだことによって皮が右眉の辺りまで斜めにめくりあがり、決して化膿などではない猛蔵の髭面が露わになっていた!


「あーっ!」


 この場にいた全員が叫んだ。


 悪魔が上唇を舐めているような猛蔵の皮のめくれた顔を見た男たちは大狼狽をまざまざと示しながら、

「ま、魔族かっ?」「いや、それはない。闇の魔力を感じない」「しかしあの容姿、アスファイヤの者とは感じが違う」「敵対しているという国の者だ。結界に入り込んでいたんだ!」

 と口々に声を上げた。


 その声を聞きながらさしもの四人の伊賀忍者たちも愕然として立ちすくんでいる。猛蔵の変装は暴かれてしまったのだ。ということはつまり、今回の任務を果たすに重要な大いなる秘密を知られてしまったのだ。


 場には一瞬、ぎこちない空白の時が流れた。その中で先に動き出したのは男たちの方であった。暴かれた側よりも彼らの方が心情的に優位であるのはたしかにそうだが、この奇怪事を前に素早い判断を下したのはさすがに元ソーラコア兵としての能力だと言える。彼らの一人、常々四季右衛門に疑いをかけていた男が、

「ほら見ろ、ほら見ろ、やっぱりね!」

 と吼えると、左手を横へとかざした。

 

 よく意味のわからない行動だが、実にその意味はあった。近くの小屋から剣が回転しながら飛び出し、中空をブーンと音を発しながら飛ぶとヒモでもついていたかのように男の手に収まってしまったのである。もちろん、ヒモなどない。これは遠くの物を呼び寄せる魔法であった。


「よくも謀ったな! 敵ならば……斬る!」


 剣を上段に振り上げた男は騙されていたからには遠慮なし――目の前にいる四季右衛門に躊躇なく剣を振り下ろした。兵としての腕前いまもなお衰えず、疾風と評して差し支えのない凄まじい斬り下ろしであった。


 完全に先手を取られた四季右衛門は自分の頭上に剣が直下してくる段階にあって未だ刀も抜かず直立したままであった。しかしそれも仕方がないかもしれない。何しろ男は先の先まで剣など持っていなかったのである。武器を呼び寄せる魔法など四季右衛門にとっては全くの意外事であるはずであった。持ち物にかかった四季右衛門の手からようやく服の包みが落とされた。


 途端にコッという頭骨を断つような鈍い音が響き渡った。そのすぐ後に服の包みが地面に落ちてむなしい音を立てる。その後に続く音は何もなかった。誰の悲鳴も、血が地面に垂れる音も――。

 実に血は降らなかった。代わりに天空に飛んだものがある。それは平たい氷片のような形をしていた。どこぞかへ回転しながら飛んでいったそれの下によほど氷のように固まった男がいた。腕を振り下ろした体勢で固まる男の剣に切っ先はなかった。

 その男の前に彼はいた。いつの間にそうなったのか、左足を地に擦らんばかりに引き、空に向かって横ざまに腕を振り抜いた姿で。その手の先で仕込杖が煌めいた。移木四季右衛門は生きていた。しかもあの絶体絶命の窮地から一切逃げず、相手の剣を打ち破ることによって。あのごく短い時間に無構えの状態から抜き打ちを食らわす一瞬閃光の剣法――これを居合、あるいは抜刀術という。

 陰口快弁や変装術の忍法から分かる通り、四季右衛門は潜入や敵からの情報収集を専門とする忍者であった。そんな彼でも剣を振るわなければならない状況は当然にある。そこで彼は自分にあった剣法はないかと考えを巡らせ、この抜刀術に案を悟った。これならば対象とのすれ違いざまの暗殺にも都合がいいし、正体を隠す関係上、大っぴらに剣を振り回せない時の多い自分と最も相性が合う。以来、四季右衛門はただこの抜き打ちにのみ一念を捧げ、ひたすら刀を鞘走らせてはまた納めるという修業を積んだ。一見、単純明快な反復練習であるこの修行は、実のところ退屈以上に凄まじく過酷な道であった。何しろこの修行には到達点というものがない。何となれば抜刀術を用いての勝敗とは最初の一閃に全てが集約されているのであって、つまりは相手の攻撃がこちらを襲うよりも速く相手を斬らなければならない。そのためにはとにかく一刹那でも速く剣を振ることだ。その速度を高めることに完成はない。ゆえにただ『速』という一字を書き続ける猛烈徹底した修行を積み、刻苦たる時を過ごした四季右衛門はやがてこの剣法を手に入れるに至った。たしかに抜き打ちに全てを賭ける修業をした四季右衛門は尋常の剣技では並みの剣士以下だ。しかし彼は、あるいはどんな大剣豪にも勝てるかもしれない。いかな剣豪であろうとも剣技を振るえねば意味がないからだ。四季右衛門は剣技を振るう前に相手を倒してしまうからだ。これが移木四季右衛門の恐るべし鬼速の剣法であった。

 今もまた刀を杖に偽装した仕込杖にてそれを見せ、相手の剣を叩き折った四季右衛門は手の中でくるりと刀を反転させると左足を戻しながら目の前の男の首筋に袈裟がけを見舞って打ち据えた。倒れ伏してくる男を後ろに下がって避けながら四季右衛門が言う。


「こうなってはやむを得ぬ。この場の者たち、一人残らず打ち据えよう」


 言うまでもなく仲間に向けた日本語だ。この声が上がる前にすでに後ろの三人はぐっと身構えていたが、さらにその前からすでに四季右衛門の隣をすり抜けて後ろの三人に迫っていたのはやはり元ソーラコア兵である三人の男たちであった。同じく剣を呼び寄せ手にしている彼らはそれぞれ一人ずつ清十朗たちに馳せ寄る。

 清十朗に向かう男が、呪文を唱えるや腕を振るって火球を放った。


「おおっ」


 火矢の速度で飛んでくる人の胴体ほどの大きさの火球を半身を横に逸らして避けた清十朗はうめいた。


「これが例の火の玉か。今のが妖術、いや魔法!」


 言いながら、火球が間近を通ったことで焼けつくように熱を持った顔に片手を当てる清十朗へと男が剣を振り下ろしてきた。


 見開いていた目を鋭くした清十朗がすかさず後ろへ飛んでそれを避ける。

 葉の舞うように数メートルもスーッと飛び逃れ、未だ空中にいる清十朗を「あっ」と叫んだ男が反射的に追った。追いながら、地面の土に斬り込んだ切っ先を掲げて再び彼は清十朗を襲撃した。先ほどの剣はかわしてのけた清十朗だが、いくら忍者とはいえ後ろに飛んだ清十朗と前に走る男では次の行動に移るための容易さにどちらが優位がつくか。それはもちろん男の方だ。いまようやく着地したことで逃れられぬ膝の硬直を起こした清十朗は、またも間近に迫りくる男の剣を前に今度は咄嗟に飛ぶことも後ずさることもできず、その上未だ剣も抜けていなかった。まさに逃げるもならず受けるも叶わぬ必殺の襲撃。――で、あったのに、

「むっ」

 と、詰まったような声を漏らした清十朗はしかし、上体を逸らすことで相手の袈裟切りをかわし、続いて縦に横にと次々襲いかかってくるギラリと光る冷たい白刃を足を止めたまま光に這う影のようにことごとくかわした。飛ばずとも、飛燕を思わせるほど軽快身軽な清十朗であった。


 攻撃の手が止まり、呆気にとられた顔で後ずさっては剣を青眼に構えなおした男が、

「よく避ける……」

 とうめく前で、再び大きく飛び退いて四メートルほど離れた清十朗が着物袋をほどき、ようやく刀を鞘から抜き払った。すでに地にある袋の上に鞘を落とした清十朗は、男を睨み据えながら静かに刀を立て、右肩に垂直へと構え上げた。肩の力は抜き、背すじなど力を入れるべきところは入れ、一身にて硬軟を体現する中々に堂に入ったと見える姿だ。未熟といえどもさすがは忍者――若く、一見大人しそうな清十朗だが、これまで荒修行を積んできた彼はそうしていると凄まじい剣気を放射した。八双に構えた刀身がそれに応じて暖かな陽光を冷光へと変じさせる。


「……お前を、斬るっ。ただの民草らしいお前を手にかけるは不憫に思うが、忍者の正体を暴いたが悪い。それを前世からの業と思え」

 と清十朗が低い声で言った。


 アスファイヤ語が清十朗に伝わらないように、もちろんこの言葉は男には解らない。だがこの状況で何を言っているのか解らないからこそ恐ろしく感じて、言葉を聞いた男はどきりとして怯んだ。怯んだのには若い清十朗が意外と堂に入った構えをするためもあり、先ほど自分の攻撃をことごとくかわされたこともあり、そのため軍を離れて少しした自分の剣の腕が相手に勝るか不安になったからでもあった。となれば頼むべきはやはり魔法だ。冷汗を流す男はほとんど腹話術めいた口の動きで小声の呪文を唱え始めた。使おうとしている魔法は空中を横走る稲妻の術であった。アスファイヤ人は基本的にどうも火の玉を撃ち出すサンセクションの方が肌に合っているらしく、こちらの方が使い心地が良く、大きさや撃ち出す速度などの調整が容易かったが、しかし攻撃速度ではこの稲妻の魔法が上だ。放てば一瞬で標的に達するまさに稲妻そのものの技であった。先ほど素晴らしい反射神経でサンセクションをかわしてのけた清十朗でも不意を打って放たれたこれを避けるのは絶対不可能に間違いなかった。


 それを知らぬは清十朗――彼はそろそろと足を前へと踏み出し始めた。剣法勝負であれば別におかしくないが、この場合ではあまりに鈍重と言えるゆっくりとした動作であった。

 男はそれに――よし、勝った! と心中で公算を立てた。彼は呪文を唱える時間を稼ぎたかったのだ。それだけが勝利への条件であったのだ。そして清十朗の慎重さを以ってその条件はたしかに成立した。彼は少しずつ前進してくる清十朗に対し、同じだけ後退して間合いを取りながら呪文を唱え続けた。間もなく呪文は完成した。剣の柄から離れた男の左手が柄を滑り、刀身を撫でて、前に突き出された。


「あーっ!」


 次の瞬間、叫びが上がった。

 しかしそれは上がるべき清十朗の声ではなく、他ならぬ男のものであった。叫ぶ彼のすぐ間近には距離を詰めて刀を上段に振り上げる清十朗の姿があったのだ。たしかにまっすぐ飛んだはずの稲妻の魔法は清十朗に見事かわされてしまったのだ。その稲妻のかわしよう、距離の詰めようは男の眼前で劇的に展開した。

 かわすに絶対不可能と思われた稲妻の魔法を清十朗はいったいどのようにかわしたのか?

 彼は知っていたのである。もちろん、稲妻が来るなどとは露とも思っていなかったが、ともかくも飛び道具が来るだろうということは知っていたのである。それは忍者の優れた目がほとんど動いていなかったはずの男の唇が動くのを目敏くも捉え、呪文を唱えているのに気づいていたためであった。魔法を使うには呪文を唱えなければならないということはもとより清十朗も知識として教えられており、先ほどの火の玉の際にも見ていたことだ。そうして飛び道具が来ることを予見していた清十朗は大胆にも相手の腕の動きに合わせてあえて地を蹴り前へ飛び出すやスライディングをして稲妻の下を潜り抜けた。これが稲妻を避け得た清十朗の行動であった。しかし魔法を避け得るとはいっても魔法における遠隔攻撃というものは必ずしも火球や稲妻のようにまっすぐ飛ぶものだけではない。一帯を爆発させるものもあるし、何なら地を這う魔法もある。それを使われていれば清十朗の命は無かったろう。が、少なくとも清十朗の常識では飛び道具とはまっすぐ飛ぶものであるし、その無知がこの場合、清十朗の飛び道具にあえて立ち向かう剛胆さとその飛び道具を読んだ観察力に上手く呼応して彼は運をも掴んだと言える。

 そして今、スライディングという通常の剣士ならばまずやらぬであろう行動をした清十朗はバネのように跳ね起きて、刀を振り上げ襲撃した。中天に掲げられた刀が陽光を受け、光そのものと化したように恐ろしく輝きながら振り下ろされる。


「うおう!」


 魔法をかわされ動揺した男であったが、辛くも剣を持ち上げ、斬り下ろしを防いだ。土壇場にてこれまで培ってきた剣の研鑽を発揮した男であったが、いちど剣の決闘から逃げた彼に優勢は回らなかった。比喩ではなく――体をもって実際に回ったのは清十朗の方であった。鋼が相打つ戛然とした音が尾を引くうちに、清十朗は相手の剣を支えにぐるりと男の横に回り込んだのだ。回り込んだ清十朗は間髪いれずに男の太ももをひざ蹴りした。


「ああうっ」


 男は息のつまったうめきを上げた。人体の中でも太く強靭な太ももだが、どうやら横にはあまり肉がついていないらしく、そこのあるポイントを抉り込むように打たれると途端に麻痺を起こして意思に反して膝が崩れてしまう。清十朗はそれを狙ったのだ。片膝をがくがくと曲げ、前のめりになって苦鳴する男の側に立つ清十朗は介錯人の如く刀を振り上げた。


「……お命頂戴仕る」


 ふだん優しげで、清らかですらある清十朗の瞳が決然と鈍く光った。忍者の眼光であった。そして彼は「ふっ」というかすかな気合と共に今度はこちらの方が稲妻を落とすように男の首に白刃を振り下ろした。――


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