十二話 伊賀者とは
春の日の暖かくうららかな昼下がり――あれからすぐ家光の言葉を受けた伊豆守の命により彼の近習が伝令のため大奥へと向かった。向かったといえどもむろん建物の外だ。たとえ何者であろうとも一時の例外や特例を除いて将軍以外は男は一人も入ることの許されぬ大奥であった。その大奥の警備のための詰所に向かうと、そこにいた男に近習は話しかけた。
「少々うかがいたいことがあるがよろしいか?」
「……なんでござる?」
と、話しかけられた男は物憂げに言うと、それからゆっくりと振り返った。物憂げに言ったものの彼は近習に話しかけられるのを待っていたらしい。先ほど話しかける相手を探していた近習が歩いている彼に目を止めると、何を感じたか彼はぴたりと足を止め、そのまま背を向けて近習が歩み寄ってくるのを立ちすくんで待っていたのだ。そのように待っていたくせに物憂げに言うのだから、彼はいま気分が沈澱しているらしい。
「お主、伊賀者で間違いないか?」
と近習が聞くと、
「左様で……」
とまた力なく言った。
近習は心中で眉をひそめた。
伊賀者の男は年は三十ばかりであろう。出仕しているくせに月代を剃っておらず、細長い顔をした美男ではある。しかし、これでも武士かと思われるほど指も身体も細くしなやかで、直立しているのにその立ち姿もどこか骨の入っていないグニャグニャとした印象がある。さらに肌は青白く、垂れ下がった前髪から覗く細い目をとろりとさせて、美男だけにゾッと怖気のするような退廃的な影のある男であった。そんな青白い顔をした彼だが、立っているのも辛そうではなく、そもそもこんなところにいるのだから別に病気ではないらしい。つまりその気だるげな振る舞いは彼の心から出たものであろうが、近習はそんな彼に主君の伊豆守が秘密裏に事を行えと念を押した今回の話を漏らすことを躊躇した。だが、目の前の男こそが伊豆守に用を伝えよと言付けられた伊賀者であるから思い切って、
「実はお主たち伊賀者に密命があるのだが……」
と言いかけた。
が、そこまで言った彼はふいに周囲を見回して、「いや、その前に、そもそもここで話すことがまずいか。おいっ。……。いや、ええと、お主、名は何と言う?」と急に言い出した。
急にこんなことを言い出した近習に伊賀者の男は一瞬黙って彼を見つめたが、すぐに、
「冷餅柔膳」
と名乗った。
「よし。冷餅どの。ちょっとこちらへ来てくれ。内密の話があるのだ」
近習が身を返して詰所の外へと歩きだした。柔膳は少しのあいだ歩きださずにその背を見やっていた。そして彼は先ほどまでのかったるそうな様子はそのままに、それでも不意にニタリと笑って赤い唇を舐めると、その背を追った。
二人はあまり人目のつかぬ庭の隅の方へやってきては向かい合った。
「で、なんでござる? なにか内密の話があるといい、その前にチラと伊賀者に密命があるとも聞きましたが」
柔膳が問いかけると、近習は「うむ」と頷いて、「まず前提として、お主は相模に謎の大地が現れたということを知っておるな?」と小声で言い出した。
「それは無論。大地が夢幻の如く現れ、さらにそこに人がいたと城中でも騒ぎになり、しかも戦まで始めるというのだからとうぜん拙者の耳にも入っております」
「そうか。それでここからが内密にせよとの話だが、実はいまこの城にその敵方の男を一人だけ捕らえてあるとのことなのだ」
「ほう」
柔膳がとろりとした細い目を切れ長の鋭い目に変えて声を漏らした。
「そして相手方のことを聞きだすために様々な責めを負わせたそうだが、その男、敵ながら感嘆すべき胆力の持ち主であるらしく何も吐かぬらしい。そこで何やら責めに関する技を会得しているというお主たち伊賀者に白羽の矢が立った」
「ははぁ、なるほど」
柔膳はニヤリと笑って顎を撫で始めた。
「尋問のできる伊賀者を呼んで参れと拙者に御命令したのはご老中伊豆守さまであるが、しかし元をたどればこの御命令は上様からのものでもある。よって下手は打てぬ。そのことを念頭に置いて、冷餅どの。お主、男への責めをやれるか? 男の口を割る技を持っておるか?」
近習の言葉を聞いているのかいないのか、彼がそう言っても柔膳はしばし何も答えず顎を撫でていた。そしてそんな柔膳が、突然くつくつと声を漏らして笑い始めた。柔膳の顔をじっと見ていた近習は驚いて少しのけぞった。
それを目に入れて、笑い声を止めた柔膳が、
「いや、失礼つかまつった。何やら楽しくなってきたと思いましてな。それで、拙者が責めをできるかどうかでしたか。――結論から言えば、できます。そういった尋問は大奥の警護などという退屈な仕事よりもむしろ好きな方で。しかし、こんなことを言った側から自分で言うのもなんだが、それは拙者にはやらせぬ方がいいでしょう」
と言った。
近習は大奥の警備という重大任務を退屈などと言う柔膳にムッとなった。しかし、ひとまず、「なぜ?」と聞いた。
「好きこそ物の上手なれ、とはよく聞く言葉だが、この道ばかりは違う。むしろ好きであるほどしくじる恐れが大きいので。現に拙者、これまで何度か失敗して参りました。つまり仕事を十全に成そうとするあまり加減が利かずになぶり過ぎ、やりすぎることがありました。これは好きが高じたためでござる」
顎を撫でながら柔膳はニタっと笑った。
これには文句の一つでも言ってやろうかと思っていた近習が息を呑んだ。彼は残酷なことを言う柔膳に戒めの言葉をかける勇気を失ったわけではなく、いつの間にか柔膳のとろりと細い目が切れ長の鋭いものへと変じており、しかもその目が透明な炎のようにチロチロと妖しげに明滅していることに気が付いたのだ。それに思えば声も先ほどまでの張りのないものと違って氷のように張りつめて冷然としたものとなり、気だるげな様子も消えている。しかしこれは忍者らしい異様な雰囲気をまとったと言える。
「よって、拙者以外の者を推薦いたしたい」
「す、推薦? それは誰だ? すぐに連れて参ってくれ」
柔膳は首を振った。
「すぐとは参りませぬ。その男はこと尋問においては伊賀忍者一、聞き出したいことは全て聞き出せるある技を持っておるのですが、実はここではなく伊賀におるのです。なので迎えに参りたいが、その尋問、しばしお待ちいただくことになってもよろしいか?」
「なに? いや、それは伊豆守さまの御意を得ねば何とも言えぬが……伊賀に行くと言って、帰ってくるのに何日ほどかかるのだ?」
柔膳は顎に添えた手を放し、言った。
「まず六日」
この報告を近習から聞いた伊豆守はその方に練達の者がいるならそれにやらせた方がいい、と柔膳が帰ってくるのを待つことにした。それほどに捕らえたアスファイヤの男からは確実に情報を得たいと思った。柔膳はすぐに伊賀に向かって出立した。
六日でここ江戸から伊賀まで行って帰ってくるという柔膳だが、伊豆守はそれは彼が自分を大きく見せるために大げさに言ったのだろうと思い、つまり到底信じていなかった。
江戸から伊賀までは片道百二十里はある。一里がおおよそ四kmだから、百二十里なら四百八十kmだ。ということは六日で帰ってくるには伊賀に着いても休まずとって返してくるとしても一日百六十km以上を走破し、かつそれを連日続けなくてはならない。しかもその道は平成現代のものと違って整備されたものではない。道はでこぼこ険しくて、山も川もあるだろう。こんなことは馬であってもちょっと無理だ。しかも柔膳はその馬も要らぬと言い、自分の足で向かってしまったという。後からこの話を聞いた伊豆守は行くのは良いがこれは無駄に時間をかける所業だとして当然憤慨した。ただ、怒られる近習もそのことは見送りの際にくどく説明したが、柔膳は固辞してしまったという。何にせよもう行ってしまったのだから仕方がないと伊豆守は溜息を吐いた。しかし、柔膳が城を立ってから六日目の昼、彼は宣言通りに帰ってきた。伊賀に行った証拠品のように二人の男を携えて。
唖然とする伊豆守たちに三人の忍者は挨拶をすると、ケロリとして見える彼らもさすがに人間並みに疲れていたのか、城中の一室を借りての休憩を願い出た。しかし、それもわずか半刻ほどのことで、彼らはすぐにアスファイヤの男を捕らえてあるという紅葉山付近の武器蔵に入って行った。