第5章 第35話
夜を彩る甘美な空気に水を差したのは、闇に紛れて接近しつつある、微かな敵意だった。
異変に気が付いたのは、露店市場を抜け――宿屋街に辿り着くかどうかというところだった。
後方に幾つか、気配のようなものを感じる。足音は隠しているようだが、尾行に慣れていないのか、気配を消しきれていない。
素人か、それとも突発的な行動か。もしくは初めから、レージに気付かせることが狙いなのか。
何にせよ、一定間隔を保ってピタリと後ろを歩かれるというのは、嫌な気分だ。
「アリシア」
小声で囁くと、アリシアは僅かに首肯する。
指を絡め肩をぶつけ――些かイチャつき過ぎなカップルを演じながら、通りを外れて行く二人。
ただの勘違い――邪神の命令に背くような真似をして、過敏になり過ぎているのかもしれない。
道を外れ、木立の並ぶ茂みの中へふらつくように入っていく。夜の雰囲気に高まった男女が、内緒の逢瀬を果たす素振りをしながら、さりげなく通りから姿を消す。
このままこちらを気にすることなく通り過ぎ去ってしまえば、レージの思い過ごし。単に行き先が一緒だっただけだ。
しかしレージの祈りもむなしく、二人がひと気の少ない小道へ入ったことを幸いと、尾行者らは足音すら隠さずに、速度を上げて追いかけてきた。
腰を抱き、くねくねと甘い空気を演じていた二人だったが。明らかに目的が自分たちだと分かったところで、二人は身体をパッと離し、各々臨戦態勢をとった。
視覚不能な速度で、スカートの中から暗器と化した双剣を取り出すアリシア。短く収納されていたそれは腕の中で一振りされ、本来の長さを取り戻す。
暗がりの中に、ぼんやりと人影が浮かぶ。突如ボゥッと手に持った棒に明かりが灯り、男の姿がはっきりと映し出された。
「よぉ、兄ちゃん」
いつの間にか、気配は四方に分散していた。死角から襲撃されることを危惧し、レージは念のため極化暗視を発動。視界が昼間のようにはっきりする。
視線だけで、周囲を確認する。
五人――六人か。粗野な風を醸し出す六人の男たちが、下卑な笑みを浮かべながらレージとアリシアを囲む。
「俺たちに何の用だ」
「ヒヒ……。知る必要は無ぇさ。どうせ死ぬんだからな!」
言い終わるが早いか、レージを囲った男たちは、一斉に飛び掛かってきた。
明らかな殺気が、四方よりレージを捉える。理由も分からぬまま、口上すら無しに襲撃されたレージは動揺し隙を作ってしまう。
こういうことに慣れた集団なのだろう。一糸乱れぬ動きで肉薄する男たちは、個々異なる己の獲物を振りかざし、片手間に中級の魔導をぶっ放してきた。
「初心者を騙った熟練者でも、あれだけの化け物を殺した後じゃぁ――反撃する余裕も無かろう!」
ゴウンと風を切って、頭上を重量感ある何かが通り抜ける。木槌だ。咄嗟の同時攻撃に混乱しかけるが、魔導の連撃を上級の風の魔導で防ぎ、迎撃を兼ねてがむしゃらに水の魔導を発動する。
「水の魔導――初級・水飛沫!」
指輪から出現した水の球が破裂し、飛沫となって周囲に飛び散る。瞬間的な目くらましにしかならないが、一先ず一斉攻撃からは逃れることを果たした。
不意を打たれ辛くも戦線から離脱したレージ。先手は取られてしまったが、充分やり直し可能だ。
むしろ最初から全力でかかってきてくれたおかげで、自身の力を過信し足をすくわれることにもならずに済んだ。
さらに相手には、大きな誤算があった。
「――ていっ!」
「ぐふっ!」
舞うような軽やかさで繰り出される、見事な回し蹴り。闇夜を切り裂く堅いパンプスが、襲撃者の顎の先を砕く。
複数人でレージを襲撃しつつ、その騒ぎに紛れてアリシアに手を出す算段だったのだろう。
だが無念なことに、その試みは失敗に終わる。
か弱い女人の姿をしつつも、アリシアの正体はダンジョン護衛専門の戦闘用ホムンクルス。戦いの最中まで、絶対領域や胸元に視線を釘付けにするような輩相手に、手間取るようなことはない。
「ご無事ですか、レージ様! こちらは二人とも、無事撃退出来ました!」
レージが人間の殺生を嫌うことを慮ってのことか。機械の如く緻密な動作で急所を外し、一撃で意識を刈り取っていく。
柄の部分を逆手に持ち、頭蓋に痛烈な一撃。傷を負いつつも辛うじて意識のあった輩をも、暗黒世界へと突き落とす。
勝利を確信しきっていたのだろう。暗闇に紛れてアリシアを襲った不埒な輩は二人とも丸腰で、大きめの布袋と縄を手に持っていた。
暴行目的の誘拐だったのだろうか。
「…………誘拐」
ふとレージの中で、記憶の欠片がざわめきを上げかけるが。すぐさま、思考は中断される。
レージへの殺意で本来の目的を覆い隠す――陽動作戦は失敗したようだが、このまま引き下がるわけにはいかないらしい。
「お、オデ、ぎぎぎ、銀髪、好き……! ぜ、ぜぜ絶対に、逃がさない!」
フランケンシュタインのような大男が、木槌を振り回しながらアリシアへと突貫する。
ことごとく、攻撃が外れる。腕力はかなりのもののようだが、頭の方は大して育っていないようだ。
筋力極振りの化け物すら、アリシアは軽やかな双剣乱舞でいとも容易く昏倒させる。細身の肢体から繰り出されるその連撃に圧倒されたのか、残された三人から戦意が消失する。
仲間を置いて逃亡を謀ったのか。背を向けた瞬間を狙い、レージは土の魔導を三発同時に撃ち出す。
意識を手放した輩の数が、一気に二倍になった。
◇◇◇
傷口に治癒の魔導を施し、奴らが持っていた縄で総員縛り上げたレージは、彼らの荷物を物色していた。
人間の殺生は嫌いだが、だからと言って、自分を襲った人間の正体も分からぬまま置いて帰るわけにもいかない。
内ポケットを漁ると、案の定この町の身分証が出てきた。身分証不携帯は至極異常なことであるとは聞いていたが、追剥をする時でも所持しているのかと思うと、少し呆れてしまう。
それとも、敗北を喫するとは夢にも思っていなかったのか。
「六人中――三人が、身分証不携帯か。この場合、持ってた方が真面目なのか、持たずに襲った方が賢いのか、どっちなんだろうな」
ちなみに、木槌を振り回していた大男は、生真面目にも身分証を所持していた。
三人の身分証を、隅から隅まで眺めるレージ。
念入りに検めたレージは、やや戸惑った様子で、それらの板を地面に投げ捨てた。
「……三人とも、冒険者みたいだ」
「冒険者……ですか?」
「雰囲気から推察するに、初日に目が合った――いつも、ギルドの隅で酒盛りしてる奴らの仲間の可能性が高いな」
月光に照らされたゴールドの瞳が、冷たく光る。
アリシアの美貌に目が眩んだ変質者かと思っていたが、もしかすると今回の襲撃は予め計画されていたものだったのかもしれない。
「恨まれるような真似をしたようなつもりはないけど、逆恨みされてる可能性もあるか。……もしくは、価値のある素材を毎度のように持ち帰っていたことを知っていて、弱いくせに金持ちだと思われたのか」
しかし、それにしては準備が良すぎる。魔導の才にも長けた屈強な男たちでレージを襲い、騒ぎに紛れて非戦闘員であろうか弱い女を攫う――調子に乗った新人を歓迎するには、払った代償が大き過ぎやしないか。
「もし、先の口上が脅しじゃなく、本当に俺を殺すつもりで襲ったのだとしたら」
そこまでして、レージを襲わんとする理由は何であるのか。それに奴らは、気になることを言った。『あれだけの化け物を倒した後では』――とは、どういうことか。
楽観視することなく、最悪の状況を想定して思考するなら、巨大双頭小狐を打倒したことを指しているのだろうと思われるが。
何故奴らは、それをレージの所業だと知ったのか。そして、もしそれが真実であるとしたら、それだけの実力者だと知った上で、何故レージを殺害しようと試みたのか。
「ここで考えても、答えは出なさそうだな。一先ず、警戒だけは怠らないようにしなければ」
周囲から気配が完全に消えたのを確認してから、レージはアリシアを連れ、宿への帰途を急いだのだった。
◇◇◇
そこには、真っ白な世界が広がっていた。
天地はおろか奥行きすら把握することの叶わぬ、不可解な空間。
主はこの場所を、現世と冥界の狭間と呼んだ。
世にも恐ろしい容姿をした邪神もとい神は、厳かな面持ちで現世の行く末を見守っていた。
「やはり、ワタシの見込みは正しかったようだ」
見るも悍ましい形相をぐちゃりと歪め、不協和音を奏でながら笑う。
神に抗う矮小な存在を嘲笑するものではない。本心より、眼下に広がる光景を――世界の変遷を楽しむような、純真な笑みだった。
「運命の創造には、東雲麗二――キミの才能が不可欠だったようだな」
神としての器か。何か他に目的があるのか。
小さな盟約不履行に激憤することもなく、神はレージの動向を静観していた。
「幸運を呼ぶ異世界人よ。ここからの人生をも、是非ワタシのために捧げるが良い」
ほんの僅かな水滴ですら、落ちれば水面に波紋を浮かべるように。
レージ・クラウディアという異分子の投石は、世界に確かな変化をもたらそうとしていた。




