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第5章 第32話



 凄まじい咆哮が、天を揺らす。

 圧倒的な存在感を放つその黄金色の魔物は、体毛に絡む枝や葉屑を落とすように、その巨躯をブルブルと震わせる。

 無自覚――本能的な行動だろうか。大した知能もないはずの魔物は人払いでもするかのように、猛烈な殺気を振り撒いていた。


 一歩踏み出す毎に、地響きを連れてやってくる脅威。二つある頭の片方で、目の前の冒険者チャレンジャーを捉え、威圧するように睥睨へいげいする。


 平和な樹林に突如出現した、醜悪な魔物。だがこの地に住む者ならば、奴の正体に覚えがあるはずだ。

 体躯のサイズ感こそ、未知の恐怖を抱かせる元凶となっているが。その姿はどこからどう見ても、頭の二つある狐にしか見えない。

 壮絶な巨躯さえ度外視すれば、どこにでもいるような小型魔物――双頭小狐ゾッケ以外の何者でもない事を理解できるだろう。


 元は愛嬌ある面容をしていたためだろうか。凶悪な存在であることに違いはないが、主たる顔つきは可愛げのあるそれだ。

 愛嬌と威圧の入り混じった絶妙なそれは、まるで自身に歯向かう端くれな存在を嘲笑っているかのようにも見える。

 もう片方の頭は意思が通っていないのか、仮面のような無表情でぼんやりと蒼天を煽いでいた。


「や、やだ……。来ないでよ……」


 小刻みに痙攣した足は、上手く地を踏み締めることが出来ない。力が抜けるようにぐにゃりと曲がった関節たちは、少年の矮躯わいくすら支える力を失い、成す術も無く崩れ落ちてしまう。


 腰が砕けてしまったのだろう。立つことも叶わず、脚を引きずるように移動しながら、少年は腕の力だけでどうにか自身の獲物を手に取る。

 小さな蒼玉サファイアをあつらえた子供用のロッドには亀裂が入り、いつ折れてもおかしくないような有り様だ。


「何アレ。あんなの、僕知らない。今まで見てきた奴らと、大きさが全然違う……!」


 黄金色の体毛を揺らし、極端なまでに肥大化した双頭小狐ゾッケは、少年を見定めるように、彼の周囲をゆっくりと回っていた。


 小さな個体がキュゥキュゥと出す愛くるしい鳴き声も、このサイズで奏でられれば、圧倒的な音の暴力と化す。

 低く漏れる唸り声は大気を鳴動し、少年の心臓を鷲掴みにする。臓物を直接撫でられたような感覚が少年を襲う。不快感のためか彼は顔を歪め、苦しそうに胸を押さえる。


 込み上げる吐き気を堪え、男の子としてのプライドをどうにか守り抜いたその刹那。威嚇するように歯列を見せ、大きく踏み出した双頭小狐ゾッケの前足が、少年の目前へと迫った。


 虚空を切り裂き、大地に刺突を食らわすように踏み出された一歩。恐怖の臨界点を突破したのか。それとも地響きが股の間を絶妙な加減で駆け抜けたからか。

 ビクンと大きく総身を震わせた少年は、その幼気な顔に悲壮の表情を浮かべ、じんわりと湿っていく股間に手を重ねていた。




 茂みの反対側からその様子を眺めていたレージは、大きく揺れる双頭小狐ゾッケの尻尾を目の当たりにして、驚嘆の声を漏らした。


 幼少期に観たアニメ映画で、獣を模した神にしがみ付き大空を飛ぶシーンが出てきたことを思い出す。同じようにしがみ付いたら、魔物の気紛れで吹っ飛ばされ、別の意味で空を飛ぶ羽目になるかもしれないなと、レージはそんなことを考えていた。


「随分と大きな魔物ですね……」

「親玉――にしてはデカ過ぎるし、突然変異でもしたんだろうか」


 大きな靴下ゾッケ。プレゼントでも貰おうとして、世界はこれほど大きな魔物を作り上げたのだろうか。

 この状況には相応しくないであろう不謹慎な冗談を叱責するかのように、巨大な双頭小狐ゾッケ――小狐という文字が些か噛み合っていないが――は、豪快な雄叫びを上げる。

 耳をつんざく絶叫に少年は大きく肢体を仰け反らせ、そのまま白目を剥いて倒れてしまった。


 祈るような格好で、気を失ってしまった少年。彼を睥睨し暫し周囲をうろついていた巨大な双頭小狐ゾッケは、攻撃の気配を見せぬ目標に不明朗さを抱いたのか、気絶した少年に顔を近づけ、低く唸りながら威嚇行動に出始めた。

 どうやら、あまり頭の良くない魔物のようだ。


「どうしましょうか、レージ様」


 乞うような声で、禁術使いの元魔王に声をかける銀髪メイド。


 この町を訪れ、冒険者として日銭を稼ぐようになってから――何人もの先輩冒険者たちに、力を貸して貰い、ここまでやってきた。

 単純な戦力や知識などの話だけではない。新人が入手するには相応しくない、珍しい素材を持ち帰った時に、絡んできた輩をいなしてくれたこともあった。

 皆、良い人たちばかり。彼らに助けられて、今のレージがあると言っても過言ではない。


 ――天啓、なのだろうか。

 絶体絶命な状況に陥った少年冒険者を救うことは、定められた運命なのではないか。

 今までして貰ってきたことを、今ここで返す。恩返しをするのだ――。


「どうもこうもない。あのような魔物を俺が倒したら、今まで隠してきた『本当の実力』がバレてしまう」


 胸を焦がす恋慕に似た“熱”に侵され、気概に満ち溢れていたレージの面差しに、影が差す。

 黄金色の双眸が、冷めたような目付きへ変貌。燃えていた眼差しが、即座に鎮火してしまう。


「少年は、運が悪かった。俺のような|戦い慣れていない初心者・・・・・・・・・・・では、彼を救うことは出来ない」

「レージ様……」

「堕落した主に幻滅したか? ……これが俺だ。情に流され余計なことをしては、後々自分の首を絞めることになる」


 ローズの時は、欲に負けて結局助けに入ってしまったが。少年相手なら、そのようなことはないだろう。

 見なかったことにすれば良い。もしアリシアの気紛れで、湖の方へ寄り道しようと案が出なければ、この惨状をレージが知る由は無かったのだから。


「襲われる瞬間を見れば、未練が残る。最悪の結末を目撃する前に、湖へ戻ろう」

「……はい」


 心なしか沈んだ調子のアリシアを連れ、足音を立てぬよう慎重にその場を離れようとするレージ。

 本来は救うことの出来る生命を見捨てるというのは、僅かながらに心が痛むことだが。死後の世界へ連れ戻される可能性を代償にしてまで、救うほどの生命ではない。


 未練がましく振り返り、少年の姿を捉えるアリシア。ホムンクルスらしからぬ態度に気になるものを感じ、レージも同じように後方を振り返ってしまう。

 足元の確認が疎かになったその瞬間を狙ったかのように、運命は――二人を逃さなかった。



「――――――――!」



 足下から、何かが折れる音が生じた。乾いた音が、小気味良く樹林に木霊する。

 アリシアのパンプスが、落ちていた枯れ枝を踏ん付けたのだ。

 スカスカなはずの枝は気持ち良いほどに綺麗に折れ、バキィ――と見事な音を奏でた。

 避けられぬ戦いの始まりを告げ知らす、戦場に捧ぐ前奏曲プレリュードの第一音の如く。


「えええええええええええええええええええいやそれはない! てか何でそんな大きな音が出る! しかもこのタイミングでだああああああぁぁぁ――――――っ!!!」


 恩を蔑にする、そのクズ思考に天罰が下ったのか。邪神との盟約を存じぬ別の神が、レージの悪行を咎めんとしたのか。

 人智を超えた超常現象を疑うよりほかない、的確なターゲット変更に、レージは奇声を上げながら後方の脅威を仰いだ。


 戦意はおろか意識すら失った少年を睨みつけ、殺気を嗅ぎ分けていた巨大な双頭小狐ゾッケ。突如後方より出現した気配に、奴はぐおんとその巨躯を揺らし、レージとアリシアをその両目に映し込んだ。


 新たな標的を捉え、低く唸りながら威嚇行動に出る双頭の大狐。呑気に野次馬を演じていたはずが、問題の当事者になってしまった。


「絶対に逃がさないって顔してるな……」


 思わず呟かれた軽口を裏付けるように、丸太の如く肥大化した双頭小狐ゾッケの前足が、横殴りに振り抜かれる。

 前足に捉えられた木立はアリシアが踏ん付けた枯れ枝より威勢の良い断末魔を上げ、太い幹を真っ二つにして吹っ飛んで行った。


 羽虫を払うような動作で樹木をへし折る腕力に、レージは笑うしかない。

 このままアリシアを抱えて戦線離脱する――とそんな考えも頭を過ったが、それで済まされるような状況ではなかった。


 戦意に満ちた巨大双頭小狐ゾッケはきっと、その剛健な脚を駆使して精も根も尽き果てるまで標的を追いかけ回すことだろう。

 どのみち戦うしかないのであれば、面倒な手順は踏まず、倒してしまった方が楽だ。


「今の騒ぎを聞きつけた誰かが来てくれてたら、その中に混じってやっちゃうんだけど――」


 付近に手の空いた冒険者がいなかったのか、渦中に飛び込んでくるような殊勝な戦士はいないようだ。

 唯一の部外者は、ズボンをぐしょ濡れにしながらパッタリと倒れている。今なら、目撃者はいないはず。異変に気が付き誰かが訪れるより先に、一撃で仕留めてしまった方が賢明だろう。


「下がってろよ、アリシア!」


 パンプスが枝を折ったのは、不可抗力。起きてしまった現実に恨み節をぶつける暇があるなら、その前に目の前の脅威を取り除いてしまった方が良いに決まっている。

 いくら図体がデカかろうと、元魔王レージ・クラウディアの前では、あの程度の魔物は脅威にすらならぬのだから。


「業火の魔導――神級・炎獄ヴォン・ヘル


 限界を超えた禁忌の魔導。常人では使用することすら不可能な、破格の魔力を代償に生み出されるはずの魔導。それをレージは拾った石を投げる程度の気楽さで、眼前の獣に向けて解き放った。


 騒ぎを最小限に留めたい。一撃で仕留めるということを最優先に、レージは己の持つ最高レベルの魔導を練り上げた。


 オーバーキルも甚だしい、真紅のエネルギーは双頭小狐ゾッケの巨躯を突き抜け、流星のような儚さで空の彼方へ消えて行く。

 射出された業火の魔導は火炎球の姿を映し、通り道だとでも言うように大気を抉り削り取っていく。この世界に宇宙空間があるのかどうか、レージは知らなかったが。きっと遥か彼方で静かに爆散してしまっただろうと、深く思案しないようにしておいた。


 理解より先に生命を散らした残骸は、遅れて己の絶命に気が付き、バランスの悪い巨躯をぐちゃりと崩し倒壊していく。

 意識を顕現していた方の頭は完全に消滅し、顔があったはずの場所には、円筒状に綺麗な風穴が開いている。


 外皮も肉も視神経も何もかも、火炎球に抉られ焦がされ、消し炭となって大気の向こう側まで飛んで行ってしまった。強烈な火炎で傷口が焼かれたためか、文字通りの血の雨を降らすことにはならずに済んだようだ。


 頭部を失い、目標が完全に事切れたことを確信したレージは、満足気に死骸から背中を向けた。

 自身が招いた現況を悔やんでいるのか。申し訳なさそうに、目を伏せ腰の前で手を擦り合わせるアリシア。

 気にするなと肩をポンと叩き、レージはニッと白い歯を見せた。そして――。


「逃げるぞ」


 アリシアの手を握り締め、レージは急いでその場から逃走した。

 イレギュラーな日陰者は、暗躍に徹する以外に生きる道がない。堕落した元魔王ヒールは、どう足掻いても清廉な英雄ヒーローに成り得ないのだ。




 ◇◇◇




「う、うぅ……」


 猛烈な爆音に大気が鳴動し、少年は闇の中に沈んでいた意識の欠片を、どうにかして掴み取ることを叶えた。


 込み上げるものを飲み下し、荒い呼吸で不快を誤魔化す。

 残っていた胃酸でただれた喉を撫でつけ、治癒の魔導を施す。掠れた声と呼気のみを吐き出していた喉笛を、どうにか呼吸が可能な状態にまで回帰させ、少年は眦に浮かぶ雫を手の甲で拭い去った。


「よ、かった。生きてる、みたいだ……」


 辛うじて新鮮な空気を取り込めるまでには回復した。しかし足腰には力が入らず、ピクピクと四肢が痙攣していた。

 下腹部を苛むじっとりした湿り気に、情けない気持ちでいっぱいになってしまうが。一先ずは生き永らえたことを、幸福だと思いたい。

 一体何があったのだろうかと、少年は今にも飛びそうな意識をどうにか覚醒させ、周囲の状況を把握しようと努めた。


「誰か、いる……?」


 切り倒された木立の向こう――新緑の中に、白っぽい影と黒っぽい影が一つずつ映っている。

 だが、さっきまでいたはずの、巨大な魔物の姿は見えない。


「まって――待って、くだ、さい……」


 何が起きたのか。それだけで良いから聞きたいと、少年は手を伸ばそうと試みるが。

 絞るような声は、彼らには届かない。


「金髪の黒装束さんと、白と黒の、お姉さん……?」


 ようやくくっきりとしてきた視界に映った光景を、少年はどうにか目に焼き付けんと奮闘する。


「後で、ギルドでお話聞かなくちゃ……。きっと、助けてくれたんだよね。……それなら、お礼しないと、いけないから」


 脅威が去ったことに対する、安堵のためか。電池が切れたように、少年はカクンと脱力し、再度意識の闇へと引きずり込まれていった。



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