第3章 第20話
三日振りの来訪を快く迎えてくれたのは、娼館のオーナーではなく娼婦のローズ・プリムヴェラだった。
レージを見つけるや否やしなやかな動作で駆け寄り、甘い香りを振り撒き躊躇いなく抱き付いてくるローズ。香水か石鹸かはたまた肉体から溢れるフェロモンか――退廃的な雰囲気を醸し出し、嗅いだ者を瞬く間に堕落させる甘ったるい匂いが、ふんわりとレージの鼻先を包み込んだ。
ホムンクルスであるアリシアには効いていないのか、彼女は涼しげな面差しのまま――意図的に二人から目線を外すようにして――娼館の方を静かに見つめていた。
「レージさんったら、あれから全然来てくれないんだもん。私のこと、嫌いになっちゃったかと思ったわ」
「すみません。このところ色々やるべきことがあったもので」
「忙しい時こそ、いっぱい来てくれて良いのに。悩み事とかあったら、スッキリするまでぜーんぶ話して良いんだよ。本当はイケナイことなんだけど――レージさん格好良いから、特別にお望みの方法で癒してあげちゃうかも」
どこまで本気なのかは分からないが、あまり真に受けると泥沼に嵌まってしまいそうだなと、レージは思う。
しかし何故だろう。心では分かっているのに、身体が言うことを聞いてくれない。
このねっとりとした絡みつき方と周囲に漂う甘美な香りは、思考力を徐々に奪っていく。
「今日はオーナーに用事がありまして。お呼び戴いてもよろしいですか?」
「あら残念。オーナーさん、大事なお客さんのお相手してるから、今すぐは会えないわ」
桃色の瞳をパチクリと開き、唇の前で人差し指を立てるローズ。すぼめられた口先からふぅと甘い吐息が漏れた。
娼館のオーナーともなれば、やはり忙しいのだろうか。
「では待たせて貰うということで――」
「どうせ待つなら、私のお部屋で待たない? オーナーさんお話長いから、当分戻って来ないと思うわ。ね、良いでしょ?」
滑らかに擦れる腕がレージの体躯を締め付け、タコのように絡みつく。
軽くウェーブのかかった桃色のロングヘアが風に揺らめき、ふぁさりとレージの腕を掠める。
魔性の瘴気を間近で吸い続けていたからか。温室でのまどろみを思い起こさせるような――夢見心地な気持ちになりながら、レージはふらふらと自らの意思で歩み、ぼんやりと浮かぶピンク色のヴィーナスに引き寄せられていく。
気が付いた時には、レージは既にローズの持ち部屋へとお邪魔することになっていた。
◇◇◇
ローズと同じ香りを振り撒きながら、レージは心苦しそうに背中を丸め、急ぎ足でアリシアのもとへ舞い戻った。
出発前と寸分違わぬ位置で、姿勢良く佇むメイドさん。主の帰還に気が付いた彼女は銀色のツインテールを揺らし、お腹の前に手を重ねて恭しく腰を折った。
「お済みですか?」
「すまない。大事な時なのに、身体が勝手に動いてしまって……。それより、オーナーは?」
「まだいらしておりません。もしかすると、レージ様の来訪を想定した上で、あえて先ほどの娼婦さんにお出迎えさせたのかもしれませんね」
「きっとな。金払いの良い、客だと思われてるかもしれない」
お礼としてサービスでお手合わせ戴いた前回とは異なり、今回はしっかり料金を取られた。
正確な金額が分からず支払えなかったので、ツケにしておくとのことだ。現在レージの身分証を所持しているのは娼館のオーナー。個人情報は筒抜けだ。つまり、逃げ道はない。
無論逃げ場を発見しようと、踏み倒す気はないが。
「また払いに来たら、同じようにやり込められてしまうのだろうか……」
まあそのおかげで、ほぼ間違いなく身分証受け渡しの手筈が整っているのだろう――と推察することが出来た。
楽観視は出来ないが、もしここでレージを捕えようと企んでいるのであれば、後払いなどにせず魔石か魔力結晶で払っていけと言うはずだ。
思えば、この町の貨幣を所持していないというのも怪しさに拍車をかけているのではないだろうか。
やはり早い段階で日銭を稼いでおかなければなと、レージは気を引き締めた。
他愛もない世間話に花を咲かせていると、館の裏手から無駄に豪奢な衣装を纏った小男と、彼とは相反すようにスラリとした長身かつ痩身な老紳士が姿を現した。
彼のイメージを一言で言い表すなら、執事長という言葉が一番しっくりくるだろう。口髭を蓄えた白髪交じりの男性は、鈍色の装飾を施された片眼鏡を直し、畏まった仕草で僅かに腰を折ってみせた。
「ラビリカ国――冒険者ギルドのギルド長をなさっている方でございます」
「お初にお目にかかります。レージ・クラウディア様。アリシア様」
揉み手をしながら金歯を見せるオーナーの紹介に、落ち着いた声で答える老紳士。
胡散臭いオーナーとは裏腹に、彼からは清廉潔白な印象を抱かせる。道を外れた行為を、何よりも嫌う傾向にある――そんな気がしてしまう。
レンズ越しの両目が利巧に細められ、視線が交錯する。威圧的な風は感じさせなかったが、直感的に、この老紳士に嘘偽りを突き通すことは不可能だろうなと、レージは思った。
「ダンジョン探索中に|不幸にも紛失してしまった《・・・・・・・・・・・・》身分証を、再発行して欲しいとのことでしたが、ご所望のものはこれでよろしいでしょうか」
想定外の言葉に、瞬間きょとんとしてしまうレージ。
話を合わせろとでも言うように、オーナーがコホンと咳払いをする。
老紳士の鼠色の瞳が、キラリと煌めく。幼少の子供が必死に弁明する様子を、静かに見守る祖父のような目付きだった。
「拝見します」
差し出された二枚の板を手に取り、眺めやるレージ。裏面にも細々と説明書きのようなものが書き込まれているが、ダンジョン内で捕えた女冒険者のものと大体同じような内容であったため、斜めに読み流した。
デタラメな出身地と共に、レージの名前が刻まれている。文字を象る溝に、爪を通す。光沢ある表面が、指先を弾く。原理は分からぬが、どうやら特殊な加工をしているらしく、鋭利な物で削ったり偽装したりすることは出来ないようだった。
もう一枚の方にも目を通して見たが、刻まれた名前が異なるだけで他は大体同じようなものだ。
「お間違いありませんか?」
「ええ、これで間違いないです」
確かめるような様子で問われた質問に、レージはオウム返しの如く頷きながら答える。
気になることは幾つかあったが、それをこの場で――この老紳士の目の前で問い質すことはレージには出来なかった。
胸元に手を差し入れ、老紳士は懐中時計らしき物体を手に取った。暫時見据え、鼠色の双眸を薄く細める。
「どうやら長居し過ぎたようです。では、オーナー。お話の続きは、いずれということで」
「お待ちしております」
口角を吊り上げ、黄金色に輝く歯列を見せつけるオーナー。漆黒のキノコヘアを赤べこのように前後に揺らし、背中を丸めてヘコヘコと揉み手をしながら、老紳士を送り出す。
その背中が視界の端で豆粒のようになって、遠方の樹木の陰に隠れたところで――オーナーはようやく丸めていた背中をピンと伸ばし、豪奢な衣装を揺らし、レージの前まで歩み寄ってきた。
「これが、この町で使用できる“身分証”ですか」
「裏面をご覧いただければお分かりでしょうが――。ギルド長の印が刻まれた、信憑性の高い身分証です。この町どころか、他の町――この国と友好的な関係を重ねている異国であれば、ギルドを通せば使用できる品ですよ」
思わず、身分証を落としそうになった。
「それほどのものを!?」
「このようなことを申し上げるのも恐縮ですが、私も想定外のことなのです。プリムを窮地から救ってくれた方だとポロっと零してしまいましたところ、あのお方が直々に身分証の発行――正確に言えばグレーどころか真っ黒な違法行為ですので、書き換えを装った違法作成ですがね――を行って下さったんです」
「普通、そんなことあり得るのですか?」
「ございません。元々は私も、行方不明者や永きに渡って死亡届の出されていない冒険者の身分証と、こっそり差し替えるつもりでおりましたので」
動揺しているのだろう。多くの秘密を抱えた経営者には、有ってはならぬこと――部外者であるレージとアシリアに、オーナーはポロポロと情報を零してしまう。
「そうだ。さっきから気になってたんだが――何故、既に『冒険者ギルド』に登録済みになっているのだ?」
受け取った身分証は二枚とも、刻銘の如くしっかりと『冒険者ギルド登録』と刻まれている。
この三日間の悩みは何だったのだろうと、レージは苦笑いするしか無かった。
「冒険者ギルドは、それこそレージ様と同様田舎から参られた流浪の剣士などが一時的に訪れ、いつの間にか去っていたり――ダンジョンに潜ったまま所在不明になったり、凶悪な魔物に骨まで喰われてしまったりと、様々な事が起きますので正確な人員管理が非常に難しく。他のギルドと比べてどうしても管理がザルになってしまうのです。――行方不明者や死亡者も他のギルドと比較して格段に多く、仕方ないと割り切られておりますのが実情です」
プリムを救って下さったレージ様なら問題ございませんが――と、オーナーは狐につままれたような顔で、不思議そうに首を傾げていた。
身分証を天に掲げ、木漏れ日に映す。
天啓なのだろうか。幾ら悩んでも、お前には戦う道しか残されていないのだと、神に――邪神に、運命に、強いられているのかもしれない。
「アリシア」
アリシアの分の身分証を、彼女に手渡す。
イレギュラーな転生者と戸籍のないホムンクルス。闇に包まれ霧に飲まれていた足下に光が差し、強固な大地がせり上がってくる。
霧が晴れ明瞭となった地を踏みしめる。ようやく確かな居場所を手にすることが出来た。
「ここまで色々あったけど――何ていうか、最後はあっけなかったな」
強張っていたレージの口角が、安堵に緩む。
こうしてレージたちは、身分証を手にすることとなった。




