第3章 第18話
自分はこの世界に求められし人間ではない――イレギュラーな余所者であり、日陰者であるという現実を改めて突き付けられたせいだろうか。
陽射しが意識を活性化させても、レージはベッドから身体を起こすことはしなかった。
ネガティブ思考に脳内の半分以上を浸蝕され、正解のない不安に苛まれる。
幸い、レージには悩みの共有が可能な――信頼できるメイド、アリシアがいた。精神的にも肉体的にも孤独になることは無かった。
おかげで、ポエミーな自問自答を繰り返し負のスパイラルへ陥るようなことにはならずに済んだのだが。
このまま期日になるまで、誰とも会わず――メイドと二人きりで隠遁生活を送っていたいと、そんなやる気のない引きこもり思考がじわじわと芽生え始めてしまっていたのだ。
腹の虫が主の身体に飢餓を訴えるが、無視する。虫だけに。
伊達に、自堕落な学生ニートを続けていただけはある。空腹を我慢し続けても、いずれ食欲が消え去りぼんやりとした眠気と怠さが全身に広がっていくだけだということは、過去の経験を経て実証済みだ。
それを数日間続けたらどうなるのかは、レージにも分からなかったが。水分だけなら水の魔導で幾らでも出せるので、生命に係わることにはならないだろうと、そんな風に考えていた。
「アリシア……。アリシアは、腹減ったりしてないか?」
「大丈夫ですよ、レージ様。わたしはホムンクルスですので、飲まず食わずでも体調を崩すことはありませんから」
ホムンクルスとはいえ、エプロンドレスに包まれたアリシアの体躯は、本物の女のものと比較しても遜色なく――人肌に温かく、柔らかい。
一人用のベッドに二人で潜り込み、レージはボーっと虚空を見つめたまま、アリシアの肢体を抱き締めていた。
人恋しいのか、言葉にし難い寂寥感をごまかしているだけなのか。こうしていると、落ち着くのだ。
心から信頼し、信用出来るメイドを胸の中に抱いていると、不安も恐怖も、温もりに紛れてゆっくりと消えて行く。
「アリシア。もう一回だけ、良いか?」
「……お食事も摂らずそればかりでは、お身体に堪えるのではありませんか? ……わたしは別に嫌ではありませんし、レージ様のご命令に従うだけですけど」
無感動なグレーの瞳を瞬かせ、抑揚のない声で紡ぐメイドさん。
彼女の気遣いには答えず、レージは無言でメイドの身体をまさぐりにかかったのだ――――――が。
「お休みのところ申し訳ございませんが、お掃除に入りたいと存じます。よろしければ、暫しお部屋を開けて貰えないでしょうか」
控え目なノックと共に、宿主の声が扉越しに届く。
異世界での隠遁生活は、半日も経たずして幕を閉じることとなった。
◇◇◇
都合が悪ければまたにするとのことだったが、返事をするために身体を起こすといきなり世界がぐにゃりと歪んだので、レージは迷わず、素直に部屋から出ることを選択した。
これ以上腹の中を空にしたままだと、いずれ身体を動かすことすら困難になっていたかもしれない。
まだ全然平気だと思っていたが、そうでも無かったらしい。油断した。ずっと転がったままだったので、些か感覚が麻痺していたようだ。
諸事情により充満してしまった匂いもそのままに、レージはアリシアと共にそそくさと宿から退出した。
外に出ると、開け放たれた窓の向こうから宿主の咽たような咳の音が聞こえた。
原因を察するのは、容易なことだ。途端に気恥ずかしくなり、レージはアリシアを連れて急いで露店市場へと向かった。
遅めの朝食兼昼食を摂りながら、レージは懐に仕舞った銀貨を擦り合わせ溜息を吐く。
身分証の入手という難題から逃れたレージの前に立ち塞がったのは、資金不足という生命維持に重要な事項だった。
資金不足というと、語弊があるだろう。厳密に言えば、欠乏しているのは貨幣――この町で流通する通貨だ。いつまでも、魔石や魔力結晶で賄うわけにもいかない。
昨日の取引の際も――レージがこの町の貨幣で幾らくらい支払ったのか、全く以て把握していない。
今はまだ何とかなっているが。金銭感覚を養うことなく、適当に魔石で支払う生活を続けていれば――間違いなく、資金が枯渇する未来が訪れるだろう。
ぼったくられる可能性だってある。面倒なことは出来るだけ避けたいレージだが、生きるための努力すら放棄して、ツケを未来の自分に押し付けるのだけは絶対にしたくないというのが本音だ。
要するに、カネが欲しいのだ。出来れば所有している魔石たちが、この町の貨幣では、どの程度の価値を持っているのか――その辺りも、知っておきたい。
双方同時に叶えるのは難しい。とりあえず現状必須の条件は、露店等でも問題無く使用可能な通貨を手に入れる――とそんなところだろうか。
「身分証が手に入れば、ギルドに登録出来るのかな……」
出来るだけ目立たず、静かに暮らせるものが良い。元魔王レージ・クラウディアは、魔導の扱いに長けている。ダンジョン制作の際、小物のほとんどは土の魔導で作り上げた。レージは意外と器用なのだ。
手工業ギルドに登録して、食器とか家具とかを作る――そんな生活も楽しいかもしれない。
欲を言うなら、あまり時間や身体を束縛されないものが理想だ。
「まずはどんなギルドがあるのか、気になったのを一つ一つ見ていくか。どうせ身分証が手に入るまで、他にやることないんだから」
焦げ目の付いた肉塊を口の中に押し込み、飲み下す。土の魔導で生成した湯呑に、水の魔導で生み出した冷水を注ぐ。
水面に映る自分の顔を見やり、一息に飲み干した。
さて行こうかと隣に座るメイドに声をかけようと顔を向けると、彼女は肉の塊を手に持ったまま停止していた。
「……アリシア?」
灰色の双眸を開いたまま、銀髪ツインテールのメイドさんは、じっとレージを見つめていた。
まるで人形のように、ピクリとも動かずに。硝子のような透き通るような瞳に、レージの顔を映している。
「どうかしたか?」
「――――――は、はい!? 何でしょうか、レージ様」
古典的にも顔の前で手を振ってやったところで、アリシアはようやく反応を見せた。
「大丈夫か? やっぱり、どこか具合が悪いんじゃないか……」
「いえ、平気です、レージ様。少し、ぼんやりしてしまっただけですから」
火を通しただけの肉塊を口に放り込み、咀嚼し嚥下するアリシア。
本人は何でもなさそうに振舞っているが。ダンジョンで生活している時に、このようなことは無かったはずだ。
意味を成すかどうかは分からないが――気は心だ。艶のある銀色の頭にポンと手を乗せ、治癒の魔導をかけてやる。
日差しを受け、艶っぽく煌めく銀髪。ツインテールの毛先を摘まみ、アリシアは顔を背けるように俯いてしまう。
ホムンクルスの頬に薄く朱が滲んだことには、レージも――アリシア本人も気づくことは無かった。




