第2章 第17話
真っ先に疑ったのは、目の前の小男ではなく自分自身の耳だった。
想定外の言葉に、レージは瞠目する。だがすぐに逸った心を、自ら胸の内で叱責する。
こうして何もかもすぐに信用してしまうから、こんな状態に陥っているのではないか。
「そんなこと、出来るはずがないだろ」
「出来ますよ。ギルドのお偉いさんとは、親しくさせて貰ってますから。その程度のことなら、容易く処理出来るでしょう。勿論、頼まれれば誰が相手でも――というわけではありませんがね」
プリムの生命を救ってくれたことは、それほどに価値のあることですからと、オーナーは試すような口ぶりでそう続ける。
「払うものさえ払って戴ければ、お客様ですから」
揉み手をしながら、商売人の顔でレージを見上げる。
生理的な嫌悪を生む、窺うような上目遣い。レージはそれに目を合わせず、何でもないことのように、ぶっきらぼうに返す。
「幾らだ」
「幾ら出せますか?」
営業スマイルとは違う笑い方で、ニマァッと気味の悪い笑みを浮かべるオーナー。
絵の具の塊をぶちまけ、無秩序に混ぜ合わせたような。湿っぽく不快な極彩色のオーラが、彼の背後より漂っているような錯覚が生まれる。
極度の緊張感そして無理矢理押し付けられた集中のせいか、周囲から音が消える。雑音すら、耳に入らない。鼓膜に届くのは、自分の息遣い。血液を運ぶ、血管の伸縮運動。逸る鼓動の音。
このまま自分自身すら空気と混ざって消滅してしまうのではないかと、見当違いな不安がせり上がる。
「……いやいや、何を言っているんだ。俺は」
負け組思考が、まだ抜けていない。
オーナーと対峙しているのは、かつての自堕落者――東雲麗二ではない。レージ・クラウディア、元魔王だ。
総身を冷やす不安を、四肢を縛る恐れを、無音の雄叫びで引き離す。
弱味を握られ、脅されているわけではない。取引を持ち掛けられているだけだ。
怯えていることを悟られては、良い様に付け込まれるだけ。これしきの平静すら装えず、この場を乗り越えることなど出来ない。
懐に仕舞い込んだ布袋の口を緩め、手を突っ込む。
腹の探り合いは苦手だし、相場も分からない。褐色女から奪った金銭程度で、支払えるとは到底思えない。
小男の口元が緩み、金歯が顔を覗かせる。心の中で舌打ちしながら、レージは小さな魔石を袋の中から取り出した。
「おや」
落胆するような声。定規を当てたように真っ直ぐに切り揃えられた前髪から、太い眉が顔を出し、ピクリと動く。
重々しく漏れる吐息からは、期待外れだとでもいうような、侮蔑の声が聞こえてくるようだ。
出しかけた魔石を袋の中に戻し、新たな獲物を手に取る。宿屋での口止め料として使おうとした、色艶の良い魔力結晶だ。
綺麗に磨かれたそれは木漏れ日に照らされ、紫紺の光を映す。サイズの大きな魔石でも出すと思っていたのだろうか。小男の口から漏れたのは、些か賞賛の込められた感嘆の声だった。
広げられた手の上に、魔力結晶を乗せる。そのまま握らせようとするが、手の平を閉じようとはしない。
焦燥と共に、小男の顔を見やる。まだ出せるでしょうとでも言うように、小男は耳から垂れた装飾を揺らしていた。
耳朶ごと引き千切ってやりたい気分を抑え込み、レージはもう一つ――魔力結晶を取り出し、握らせようとする。欲の皮ばかり突っ張った成金シイタケは、手を閉じようとしなかった。
「……守銭奴め」
当人には聞こえぬよう口の中で呟きつつ、最初に見せた魔石を取り出し、小男の手の平に投げ捨てた。
「……確かに」
魔力結晶二つと魔石一つを乗せた手を握り締め、オーナーはそれを懐に差し入れた。
「お名前をお聞きしても、よろしいでしょうか?」
「レージ・クラウディアだ。この子は、アリシア――――。アリシアだ。苗字はない」
「畏まりました」
指輪だらけの手を振り上げ、ジャラリと音を立てる。駆け寄ってきた護衛の男性に何やら耳打ちしたオーナーは、商売人の顔と化していた面差しを元の接客スタイルへと変容させた。
唐突な表情の変化に、レージは驚いてしまう。
そして何より――ついさっき取引めいたことをしたばかりだというのに、背中を丸め、腰の低い態度をとり、媚を売るように揉み手をしながら、人の良さそうな笑顔を浮かべるだけで、確かな信用を抱かせる風貌へと変遷するそのカリスマ性に、驚きを凌駕しいっそ恐怖すら覚えたのだった。
「三日ほどお時間を戴きます。その時にまた、いらして貰えれば」
「ああ」
急激な態度の変化に困惑しつつ、レージはオーナーに背を向ける。
アリシアはレージの背後を護るように、彼の二歩ほど後ろを陣取り追従した。
「先ほどは不躾な対応をしてしまい、失礼致しました」
少し歩を進めたところで、後方よりそんな台詞が届けられた。
さっきまでの口調とは打って変わって、レージを気遣うような声音で継がれた言葉に、反射的に足を止めてしまう。
「ご無礼を承知で申し上げますが、これだけは覚えておいて下さい。身分証を持たないということは、この町――この国では、それだけ不審なことだということです。同情を誘っているのか、体良く断りを入れる際の口上にしているのか、存じ上げませんが。無暗に喧伝するのは、お控えなさった方がよろしいかと」
「――――」
それでは――と、オーナーは踵を返し館の中へ戻っていく。
レージは立ち止まったまま、何も答えなかった。
◇◇◇
「宿主――爺さんの反応で、察しておくべきだったな」
館から大分歩き、ローズと出会った辺りまで戻ったところで、レージはようやく口を開いた。
穏やかで愛想の良い宿主が、急に警戒を露わにした。あの時に、気付いておくべきだった。
身分証不携帯というのは、レージの想像する以上に、不明朗な状態のようだ。やはり早い段階で身分証を手に入れておかなければ、今後の生活に支障が出てしまうだろう。
「実際にこの目で身分証とやらを見るまでは安心できないけど、とりあえず、一先ずこの件に関しては落着ってことで良いのかな」
素直に期日に赴き、傭兵か何かに取り囲まれるようなことになったら、笑い話にもならないが。
今は彼を信じる他ないだろう。
念には念を入れ、他の方面からもアプローチをかけておく――なんて選択肢はない。
身分証の不所持を伝えただけで、あれだけの警戒を抱かれるのだ。オーナーの言う通り、これ以上レージが不明瞭な生誕を果たしたことを悟られるような真似はしない方が賢明だろう。
転生者――という概念が、この世界で広まっているのかも分からないのだ。下手すると、身分を隠して逃亡した凶悪犯なのではないかと、あらぬ疑いをかけられる可能性だって拭いきれない。
「そう考えると、かなり危険な橋を渡ってきたみたいだな……。これからは本当に気を付けないと」
常識を知らぬ現状の不安定さを再認識し、レージはアリシアとともに露店市場へと戻った。
何だか今は、雑踏の中に溶け込みたい気分だ。




