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第2章 第16話


 館から出てきたレージの周りからは、ピンク色のオーラめいたものがぽわぽわと漂っていた。

 ぼんやりと虚空を眺め――途端ニマニマと頬を緩めるその姿は、正直言って些か気色の悪い光景だ。


 隣で特段艶っぽくなったローズが、満足げな顔でレージを支えていた。足下がおぼつかないのか、千鳥足だ。どうやら一人では立てなくなってしまったらしい。


「大丈夫ですか、レージ様!」

「オーケーオーケー大丈夫。だーいじょうぶだってば、ハッハッハッハ……」


 慌てて駆け寄るアシリアに、レージは上機嫌に笑って返答する。

 夢見心地な表情でひらひらと手を振るレージを慌ててローズから引き剥がし、アリシアは自身の体躯にもたせかけた。


 一見細身に見えるアリシアだが、その実態は紛れもない戦闘用ホムンクルス。アリシアは特にふらつく様子もなく、レージの体躯を軽々と支えていた。


 やろうと思えば片腕で抱えて、そのまま連れ帰ることも可能だったが。華奢な女にいともたやすく抱えられ、荷物の如く運搬されるという、そんな情けない姿を晒してしまえば主の沽券こけんに関わると判断し、やめておいた。


「本当に、大丈夫ですか? 何か危険な薬剤を打たれたとか、毒物のようなものを注射されたとか――」

「全然平気だから、心配しなくて大丈夫。ただその、何ていうか……ちょっと激し過ぎちゃっただけだから」

「そう、ですか……」


 警戒を込めて囁かれたアリシアの疑念に、レージは気恥ずかしそうに小声で答える。

 一瞬だけアリシアの顔が曇ったが、夢のような出来事で頭がいっぱいなレージは、従順なメイドの変化に気が付けない。


 戻って来たローズに、オーナーが何やらハンドサインを見せる。それに対して笑顔で首肯したローズは、せっかく引き剥がしたアリシアの思いを無下にするように、気怠げな吐息を零しつつレージにしなだれかかってきた。


「レージさんったら、見かけによらず逞しいのね。びっくりしちゃった。……もし良かったら、また会いに来て欲しいな」

「ローズさんがお望みでしたら、いつでも馳せ参じる所存でございますよ」

「ふふ、嬉しいわ。次はもっとサービスしてあげるからね」


 娼婦故の商売根性か、はたまたレージによからぬ欲を抱いているのか、過度なスキンシップをとるローズ。

 本来こういった商売の娘が、特定の個人に入れ込んでしまうのは、経営者としてあまり喜ばしいことではないのだろうか。


 さりげなさを装い、レージはオーナーに視線を向ける。オーナーは身体を丸めたまま、接客スマイルで揉み手をしていた。

 黙認されているのだろうか。


「遅くなりましたが、これ――お返しします」


 レージとローズの間に割って入ったのは、オーナーではなくアリシアだった。

 綺麗に畳まれた薄布を突き出し、グレーの双眸を無感動に瞬かせるアリシア。彼女から薄布を受け取ったローズは、お世辞にも丁寧とはいえぬ仕草で手に持った衣装を弄り始めた。


「そう、脱がされてその辺に投げ捨てられちゃったのよ。確か、木の枝に引っかかっちゃったんじゃないかしら」

「少し破けてますな。この程度でしたら、すぐに修復可能だと存じます」

「悪党に毟り取られた服なんて着たくないわ」


 客の前だからか、オーナーは丁寧な言葉遣いでローズと話している。だがローズは平常運転だ。

 腰が低く、へこへこと周囲を窺うように見るシイタケ頭の小男と、スタイル抜群で色香たっぷりな我儘美女。

 これだと、お伽噺に出てくる侏儒しゅじゅの大臣と我儘なお姫様のように見えるなと、レージは思う。


 一応、立場は逆なのではないか。それともナンバーワンまで上り詰めると、多少の我儘は通用するようになるのだろうか。

 この世界は勿論、元の世界でもこういった職場の裏側がどうなっているのか、レージは全く以て存じ上げない。

 余計な詮索はしない方が良いかなと、レージは湧き上がった疑問を思考の渦から引き揚げ、その辺に放り投げておいた。


「――お見苦しいところをお見せしてしまいました。ところで、如何でしたでしょうか?」


 近くにいた護衛らしき鎧姿の男性に薄布を手渡したオーナーは、張りつけたような営業スマイルでレージを見やった。

 過剰装飾な指輪同士が擦れ、金属音に類似した冷たい音が奏でられる。レージは小男からは視線を剥がし、隣で柔らかく笑みを浮かべるピンク髪の美女と目を合わせた。

 視線の交錯に伴い、ローズは薄紅色の瞳を優しく細め、可愛らしくウィンクしてみせる。


「最高でした」

「それはそれは。これからも是非、アルカディア商会をどうぞご贔屓に――」


 揉み手しながら継がれたオーナーの言葉に、未だ夢見心地だったレージは、今になってようやく我に返った。

 なるほど、そういうことかと、心の中で納得するレージ。お礼と称して、商品(この呼び方は失礼だろうか)の宣伝を行っていたのだ。


 格好等から、レージが金を持った人間であることは、おおよそ推測出来るだろう。好色な富豪を常連にしてしまえば、自然と金が集まってくる。

 まあ正直なことを言うなら、たとえお金を払ってでも通いたいと、そう思わせるほどの女ではあった。


「是非、通わせてもらおうかな」

「ありがとうございます」


 無論社交辞令のようなものも多分に含まれている。

 どうせ、こうして声をかけているのは、レージだけではないはずだ。声を掛けられた中の、一人というだけ。

 来なければ来ないで、いずれ忘れ去られるだろう。

 そう軽く考えていたのだが――。


「身分証をお持ちでしたら、是非本館へのご登録をお勧め致します。私が席を外している時でも、お客様がいらした際――すぐプリムを呼ぶよう、手配しておきます故」

「――え」


 ちゃっかりしてやがるなと、レージは歪みそうになった顔をどうにか抑え込む。


 しかしそれと同時に、重大なことを思い出した。

 身分証だ。レージが今欲しているのは、極上の女体でも豪勢な食事でもなく、己の存在を確かなものとする証――この町で使用できる身分証だった。

 ローズとお手合わせ(・・・・・)する機会をみすみす逃すことになってしまうというのは、些か残念な話だが。不明瞭な契約を結ぶよりかはマシだ。


「実は田舎から出てきましたので、身分証を持っていないのです」


 笑顔を崩すことなく、オーナーはレージとアリシアを眺め「御冗談を」と一笑する。

 だがすぐに、冗談やその場しのぎの戯言を投じているわけではないことを察したのだろう。蝋燭の火が吹き消されるように、フッと――一瞬で、オーナーの顔が至極真面目なものとなった。


 和やかだったはずの雰囲気が一変。唐突な空気の変貌に動揺し、反射的に首が竦む。

 シイタケヘアの小男はローズを下がらせ、神妙な顔で目を伏せる元魔王とメイドを一瞥する。仮面の如く膠着していた笑顔が、オーナーの顔面から完全に消失する。


「身分証がないとは、色々と……不便なことも、あるのではありませんか?」


 失言だったか。油断したなと、レージは己の発言を今更ながら悔やむ。

 腰が低く、いつもニタニタしている、キノコヘアの小男。何となく無害そうな見た目も、侮っても許されそうな雰囲気も、今思えば、相手を油断させる偽りの姿だったのではないだろうか。


「プリムを救って戴いた恩もございます。――訳は、聞かないでおきましょう」


 装飾同士が擦れる金属音が、今はとても耳障りだ。

 心なしか、館周辺を囲う護衛らしき人間の数が、少しばかり増えたような気がする。


「お作り致しましょうか? お二人分の――正規の身分証を、秘密裏に」


 悪意に染まったドス黒い影が、オーナーの背後より立ち上ったような錯覚が生じる。

 蛇のような粘ついた舌で金歯を舐め、おぞましき瘴気しょうきの発生源は、レージを見上げたままニタリと薄気味悪い笑みを浮かべた。



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