第2章 第10話
階段を半分程度登ったところで、レージはおもむろに振り返った。
宿主の姿は、壁の陰に隠れて視認することは出来ない。
足元に気を付ける振りをしながら、聞き耳を立てる。
宿主の老人は、温和な雰囲気を醸し出す優しげな声音で、宿泊客の男性と他愛もない世間話に花を咲かせていた。
先ほどの剣呑な空気は、些かも感じられない。
「どうにかして、この町の身分証を手に入れなきゃいけないな……」
小さな宿屋だ。金をチラつかせれば訳も聞かずに匿って貰えるかもなと思ったが、そうはいかなかったか。少し、楽観視し過ぎていたようだ。
これなら多少は待遇が悪くても、さっきのヨボヨボ爺さんの宿にすれば良かったかと、レージは己の浅慮さを悔やむ。
「今から別の宿にするのも、不可能なことではないが――」
部屋が気に入らないとか難癖を付けて、宿を変えることも考えたが。
身分証もなく、それをカネの力で解決しようとまでしている胡散臭い余所者が、宿を点々としている――。
どう考えても怪しすぎる。あらぬ疑いをかけられるくらいなら、余計なことはせず、何食わぬ顔をしていた方が無難だろう。
「久々に色々考えたら、疲れちゃったな……」
指定された部屋へと赴いたレージは、窓も開けず、そのままベッドに寝転がった。
良く掃除された部屋だ。ダンジョンの寝室と比べて、格段に狭いのは仕方がない。分かりきっていることだ。
頭の後ろで腕を組み、レージは仰向けに寝転がったまま部屋をぐるりと見渡す。部屋にあるのは、現在レージが占領しているベッドと、クローゼットと書き物机と椅子――後は細々とした日用品が幾つか用意されているだけだ。
書き物机の上には、水差しやインク壺などが置かれていたが、多分使わないだろう。
窓に映る夜空を眺めていると、じんわりと目尻に熱いものが滲むのを感じた。
胸の奥深くに巣食う寂寥感が、ぶわりと湧き上がる。心が、ざわめく感じ。快とも不快ともとれぬ、疼くような温もり。心臓を中心に広がったそれは全身を蝕み、まるで血管を介して行き届くように四肢を駆け抜け、末端までをも痺れさせる。
この世界に転生させられた最初の夜も、このような感覚を味わったなと、レージは思い出す。
大切な人たちと永遠に会えない――覆すことの出来ぬ現実が、確かな実感となって徐々に心を焦がしていく。
ダンジョンでの――魔王としての暮らしが、頭の中に浮かんでは消えていく。大した年月を費やしたわけでは無かったが、密度の高い時間だった。
あの暮らしが永遠に続くのだと、思っていたのに。
「レージ様」
涙越しの視界に、ぼんやりと人影が映る。こめかみに沁みるツンとした痛みをごまかすように、レージは目元に指を押し当て、瞳に張った雫の膜を拭い取る。
緊張が解けたせいか、決心に綻びが出てしまったようだ。見苦しいところを見せたなと、プラチナブロンドの長髪を掻き上げ、レージは力無く口端から歯を覗かせた。
「アリシアも、疲れただろう。俺のことは気にしなくて良いから、先に休め」
「はい、そのように致します」
銀髪メイドは無感動な双眸を瞬かせ、静かに腰を折ってベッドに腰を下ろした。
一般常識のないホムンクルス故か。アリシアは何の疑問も抱かず、メイド服のままドサリとベッドの上に寝そべった。
「いや、流石に靴は脱いでくれ」
靴のまま室内を歩くのはまだギリギリ許容できるが、流石に寝具の上では、履き物を脱いでいて欲しい。
泥が落ちぬよう気を付けながら、メイドの靴を脱がせる元魔王。踵の高いパンプスは、男のレージからはとてつもなく歩き難そうに思えてしまう。
靴だけでも、歩きやすいものを買ってあげるべきだろうか。
過去の栄光を記憶に滲ませながら、何の疑問も抱かずメイドの靴を脱がしてやる。ニーソックスに包まれた脚が、スポンと抜けて顔を出す。
形の良い、綺麗な足だ。
セブンスに抱いた怒りも、悔しさも――今はもう、どうでも良かった。ただひたすらに、寂しかった。
奪われた過去より、何も無くなってしまった現在が、レージに重くのしかかってくる。
「アリシア……」
本来ここにいるのは、レージだけであるはずだった。
この銀髪のメイドが、あの時気紛れを起こさなければ。今宵のレージはたった一人で、話し相手すらいない状態で、一夜を明かすことになっていただろう。
胸の奥底から浸蝕を続ける、この生温い痺れに苛まれながら。
「付いてきてくれて、ありがとうな……」
孤独というものは、悪い考えやネガティブ思考を生む最大の要因となりうる。
精神的な孤立感に飲み込まれると、人は身勝手な妄想で世界を測ろうとし始める。思い込みによる独りよがりな決めつけは、エスカレートすると見当違いな警戒や他者への不信感へと成長していく。
0と1の境界には、計り知れないほどの溝がある。絶対に裏切らない――ホムンクルスの少女が、たった一人付いてきてくれただけでも、レージにとってはとても心強いことだった。
アリシアのすぐ横に寝そべり、光沢あるシルバーのツインテールを優しく撫でる。
髪色こそ異界的でファンタジックなそれだが、触り心地――指を撫でる繊細さや、触れた後に残るしっとりとした潤いは、普通の人間のそれと相違ない。
眠れないのか、それとも眠らないのか。クールなホムンクルスは閉じていた瞼をゆっくり開くと、こてんと首だけを傾けてレージの方を見やった。
「迷惑ではありませんか?」
「うん?」
「わたしがいることで、レージ様のご迷惑になってしまうことがあるのではないかと、思ったものですから……」
表情はほとんど変えず、目線を斜め下に逸らすだけで、申し訳なさを示すアリシア。そんな彼女を、レージは穏やかな笑みで迎え入れる。
「迷惑だなんて、そんなことは考えなくて良い。アリシアが、俺と離れたくないと言ってくれたとき――本当に嬉しかった」
髪を撫でていた手で、頬を包む。保湿たっぷりでハリ艶のあるアリシアの頬は、血が通っているような温もりと優しさを感じさせる。
「これから先、アリシアの理想を裏切るような――魔王としての貫禄ある格好良い姿とは違う、引きこもりの学生ニート時代の東雲麗二としての本性が、出てしまうこともあると思う。こんな男のために、付いて来なければ良かったと、そう思わせてしまうかもしれない」
「レージ様」
「それでも、最後には絶対――俺に付いてきて良かった、幸せだったと思わせてやるから。だから――――こんな俺だけど、これからもよろしく頼む」
零れかけた涙を、強く閉じた瞼で食い止める。
情けないことを言っているのは重々承知の上だ。目の前にいる彼女が、女の子である前に、従順なメイドであり――人造人間であるが故に、吐露できたことだっただろう。
頬に触れているだけでは満足出来ず、レージはおもむろにアリシアの体躯を抱き締めた。
触れているだけで、胸の奥が熱い。不快な痺れが、熱を帯びた鼓動にかき消され霧散する。
「わたしを休ませている間に、何か――やるべきことがあったのではないのですか?」
密着した胸に吐息を重ねながら、アリシアはくぐもった声でそんなことを言う。
レージはそれには答えず、メイドを包む腕に力を込めた。
アリシアを休ませ、レージがしようとしていたこと。
それは現在置かれている状況を俯瞰的に再確認し、改めて――これから必要なこと、頑張らなければいけないことを列挙し、順々にこなしていくための下準備をしようとしていたのだ。
身分証のことは勿論、様々な面で常識外れそして余所者であるレージには、色々とやらなければならないことがいっぱいある。
どうせ今晩は、眠れそうにない。考えてもどうにもならない後悔に懺悔する時間があるなら、夜の内に、明日からの予定を立てておこうと、自堕落なレージらしからぬ割と建設的な考えを巡らせていた。
ともあれ、付け焼刃の前向き思考など、長くは続かない。
やる気を出すためのきっかけにしようと、アリシアの髪や頬を撫でたのが最後。ダンジョンで退廃的な毎日を過ごし、そんな日常が当たり前になってしまったレージが、据え膳を前にして朝まで放置しておくことなど出来なかった。
人間、そう簡単に変わるものではないのだ。
スタートを飛び出し、身分証で尻を叩かれた競走馬レージ・クラウディアは、開始早々足を止め、レース場に生えた花卉をモシャモシャと食べ始めたのだった。
「明日のことは明日考えれば良いか。猶予はまだ一週間もあるんだからな……」
もはや自堕落人間のテンプレ文句と言っても過言ではないだろう、努力放棄の言葉を呪詛の如く紡ぎ、レージはアリシアのメイド服に手をかけた。




