第1章 第1話
――絶叫が、仄暗い静寂を切り裂いた。
この世の物とは思えぬほどに醜く無様な悲鳴に、薄ぼんやりと霞がかかっていた意識が覚醒する。
死神の到来を想起させる、凄まじい叫び声だ。
猟奇的な発想だが、一瞬本気で地獄から迎えが来たのではないかと錯覚した。
「あぁ……。何だ、ただの命乞いか」
脂汗の滲んだ額を拭い、虚空に視線を彷徨わせる。
悪行に手を染め慣れていない人間がほんの少しでも道に反したことをすると、夜風が窓を叩く音や稲光が窓を照らす輝きすら、天からの叱責なのではないかと疑ってしまう。
幼少の子供は、寝室を襲う自然現象に怯え、母親という名の唯一神を求め涙を流し己の罪を懺悔するのだ。
「本当に俺は、負け組思考が抜けないな。もう恐れるものなど何もないはずだと言うのに……」
プラチナブロンドの長髪をかき上げ、彼――レージ・クラウディアはその端正な顔をくしゃりと歪め、小さく欠伸を零す。
調きょ――拷問中にうたた寝をしていた自分の胆力も誇らしいものだが、悲鳴混じりの哀訴を聞いて飛び起きるようでは、まだまだ悪役になりきれてないなと、レージは面倒くさそうに首を回した。
叫び声の発生源へ視線を向けると、四肢を縛られた褐色肌の女が白目を剥いて泡を吹いている光景が目に入った。
服を剥ぎ取られ人間としての尊厳を盛大に踏みにじられた彼女は抵抗する術もなく、苦鳴を漏らしながらビクビクと総身を痙攣させている。
そんな彼女を取り囲み、鞭や器具で容赦なく肉体を傷つけているのは、二名の人狼と三名の女給仕だ。
一見集団暴行のようにも見えるこれは、制裁や尋問などではない。ただのパフォーマンスだ。
この空間の主であるレージを楽しませるための、血生臭い余興である。
「如何でしょう、レージ様。今回の獲物はとても良く鍛えられていて、肉体的な価値はかなり高いと思われますわ。乱暴に扱っても壊れる気配はありませんし、容姿もかなりの上玉かと」
見世物であるその証拠に、メイドの手によって、ディナーの準備が始められる。レージの前に純銀の台車に乗せられた、ステーキめいた肉焼きが運ばれてきた。
彼が居眠りに興じる前に、メイド(暴行に加担しているメイドとは別のメイドだ)に頼んで作らせていたものだ。牛や豚などありきたりな動物肉とは異なる独特な異臭を放つそれは、メイドの手によって手早く切り分けられていく。
「今日は何の肉だ」
「大黒蜥蜴の胸肉でございます。煮るか焼くか迷いましたが、レージ様は焼いたお肉の方がお好きかと存じまして」
「食わせろ」
「畏まりました、レージ様」
レージの腰かける特大ベッドのすぐ傍まで歩み寄る、黒髪ポニーテールのメイド。彼女の顔を見ていると、何となく――ここに来る前のことを思い出しそうになってしまう。
一口サイズに切り分けた蜥蜴の肉を、そのままレージの口に運ぼうとする黒髪メイド。真っ白な湯気が立ち上る肉塊の接近に、レージはくっと手を伸ばしメイドの腕――――では無く、純白のエプロンドレスを押し上げる大きなお尻を鷲掴みにした。
「ひゃん!」
「熱いまま喰わせようとするな。フゥフゥしろ」
「……っ、も、申し訳ございません、んっ、レージ様ぁ……」
艶っぽい声で許しを乞うメイドの尻を撫でながら、レージは強張っていた顔を徐々に普段のそれへと変容させていく。
「それと、あいつらにも伝えとけ。俺は、女が乱暴されて悲鳴を上げるようなパフォーマンスは好まない。俺が命じたのは調教であって、拷問じゃない。あんなものを見せられたら、飯が不味くなるだけだ」
「畏まりました」
恭しく腰を折ったメイドは、傍に控えていた茶髪のメイドにレージの命令を告げる。茶髪メイドは「分かった」とぶっきらぼうに応え、褐色の女を虐める集団へと命令を伝えに行った。
ややギクシャクした動きで歩を進める茶髪メイド。そういえば彼女は失敗作だったかと、レージは不満げに鼻を鳴らした。
「レージ様。お口を開けてくださいますか?」
言われた通り吐息を吹きかけ冷ました肉を、レージの口へと運ぶ黒髪メイド。押し込まれた肉塊をモニョモニョと味わいながら、レージ・クラウディアは、この退廃的かつ自堕落な生活を手にするに至った経緯を思い返していた――。
◇◇◇
レージ・クラウディアの前世を一言で表し示すなら、所謂学生ニートという言葉が的確に当てはまるだろう。
彼は元々、何かをすれば人並み以上に出来る人間だった。
小学校の頃は授業さえ聞いていれば偶のテストはほぼ満点だったし、中学に上がってからもさして勉学に努めることなくクラス内上位をキープしていた。
ともあれ、何か特筆した特技があるわけではない。何をやらせても平均かやや上位を取る――逆に言えば、目立つような活躍が出来たことはない、極々平凡な優良学生といえるだろう。
そんな優等生タイプなレージが、どうして人生を転落していったのか。端的に言えば、環境が変わったからというのが主な要因だった。
最下層から上層の人間まで雑多な人間が一斉に集められた小中学校はともかく、自身と同レベルの試験を受け合格を勝ち取った者だけが集まる高校では、“平均”の位置が格段に異なる。
今まで集団の平均ちょっと上にいた彼は、高校入学と同時に初めて平均以下という烙印を押されることとなったのだ。
今まで軽々と飛び越えていた“人並み”の壁が、目の前に立ちはだかる。どんなに頑張っても、這い上がることの出来ぬ無情。
自分はこんなに頑張っているのに、結果が付いて来ないだけだと責任逃れ。気が付けば努力を放棄し、人並みを目指すことからすら目を背けていた。
結果どうなったかと言えば、簡単なことで。
今はタイミングが悪いだけ。今までの人生を頑張り過ぎて、充電切れを起こしてしまったのだ。そうに違いない。――と勝手な論法を掲げ、自分がつまずいたのは努力し過ぎが原因のエネルギー不足のせいだと、開き直ってしまったのだ。
大学二年目の春にその暴論に気が付いたレージは、それからの大学生活を勝手に休息時間として浪費し始めた。
最低な呼び方をするなら、頑張った自分へのご褒美というやつである。
人生に本気で挑むための充電期間と言えば聞こえは良いが、親の貯蓄を喰い潰し、コンビニと安アパートの往復だけで、人生で最も輝かしい二十歳という期間を使い尽くした人間に、同情の余地も無ければ賛同する筋合もない。
こうして単位不足のため無事落第が決定したレージだったが、彼の前世の記憶は、残念なことにここで一旦途切れている。
ビデオのスキップボタンを連打した時のように、瞬きと同時――世界が変貌する。
男子大学生の一人暮らしを絵に描いたような不潔な部屋から、レージは真っ白な空間へと瞬間転移させられていた。
結局ここは所謂死後の世界と呼ばれるもので、レージは何らかの原因で生命を落としたことを後に知らされるのだが。
説明も無しに、そのような奇想天外なことを理解出来るはずもなく。
取り乱し、年甲斐も無く喚き号泣した挙句、目の前に鎮座していた、とてつもなく怖い顔をした神様――あまりに恐ろしい造形をしていたので、レージは密かに邪神と呼んでいる――を、悪魔か何かかと勘違いして支離滅裂な暴言を放ち、そのことについて呆れ顔で笑われたりと、冷静に対話を開始するまで様々なことが起きていたのだが、長くなりそうなのでその辺りは割愛する。
ある意味、直近の黒歴史だ。出来ることなら、あまり思い出したくない。
『……東雲麗二。貴様は、二十一歳の夏――その生命を散らした。あまりに酷い有り様だった故、落命前後の記憶は消させてもらった』
そのおかげで、幸運なことに、レージは自身の死の瞬間を記憶していない。
ちなみに東雲麗二とは、レージ・クラウディアの前世の名前だ。我ながら安直な命名だったと少し後悔しているが、今はその件に触れないでおく。
『ここは死後の世界――現世と冥界の狭間とでも呼べば分かりやすいかな』
話を進める内、この傲岸な喋り方をする者が、真っ白な空間の主であることをレージは理解した。
レージは死に、そのまま死後の世界へ魂を投棄されるはずだった。だがこの空間の主――神は、レージの魂に存在意義を見出し、彼が暮らしていた世界とは別の世界で、新しく人生をやり直さないかと、所謂転生と呼ばれるものを勧めてきたのだ。
『ワタシが管理している世界に、立派なダンジョンをこしらえようと思っていてな。ぜひレージの知識や才能を駆使して、最高のダンジョンを作って貰いたいのだ』
「何故、俺なんですか?」
『因果律――と言えば良いのかな。レージの魂をワタシが選び、この場所に呼び寄せた――これは、定められた運命だったのだよ』
冴えない暮らしをしていた自堕落な人間が、神様の気まぐれで異世界に転生させられる――そんな近年ありふれた創作物に触れていたレージは、もしかして自分には他の人間にはない特殊な才能があったのではと、期待してしまったのだが。
『別に、嫌なら無理にとは言わぬ。これ以上人生をやり直すのは御免被りたい――とそう願うのなら、レージ以外の死者から適正な者を探す故、このまま地獄へと続く坂を下って貰って構わぬ』
真っ白な空間の隅にポッカリと開いた暗黒の穴を指さし、無慈悲な言葉を紡ぐ神。代わりは幾らでもいるという発言に、無駄にプライドの高い学生ニートの反骨心が刺激されたのか、レージの中で長い間なりを潜めていた『やる気』が、業火の如くぶわりと湧き上がった。
人生をやり直す機会を与えられ、その誘いを無下にする者がどこにいるというのか。
明日の見えない日々に怯え、何度『目が覚めたら異世界に転生してないかな』と夢想したことか。
「堕落した生活は、もう終わりだ。俺はやれば出来る人間なんだ。今度こそ――つまずかない。見てろよ、絶対に最高のダンジョンを作り上げてやるさ!」
ビシィと指を突き出し、決意を湛えた眼差しを神に向ける。
その頼もしい言葉に、神は――邪悪な笑顔を張りつけ、ニタリと口端を吊り上げた。
これが、自堕落な学生ニート東雲麗二が、魔王レージ・クラウディアとして第二の人生を歩むことになった、大まかな事の顛末である。