スグル
朝日が昇る前に屋根裏部屋に戻った。これは本能のようなものだろう。体を抜け出すのは、闇夜だと信じ込んでいる。まだ試してはいないが、幽体の状態で太陽に晒されば、ひどく危険な状態に陥るような気がしてならない。
瞑想とは逆だ。瞑想が陽であるなら、幽体離脱は陰。どちらかと言えば消耗する。生産的な行為ではない。だから、朝はへとへとだ。
7時55分、スグルが決まって迎えに来る。
ガラガラと戸が開いて「ジンケー」。
声変わりしたスグルの声。どっしりと野太く、頼りがいがある。
「スグルくん、おはよう」父がスグルを出迎える。ジャケットに色違いのスラックス。防寒着を小脇に抱え、今にも出掛け。
「おはようございます。今日もチャリですか?」スグルは聞く。
「そうだよ。だいぶ寒いけどね」
「どうです? 坂道。一気に行けます?」
「いいや、まだだね。いち……にい……さん……。ああ、やっぱり四つ目だ。四つ目でへばってしまう」
達郎が勤める研究所は海沿いの崖の下にある。標高70メートルの峠道を上り、台形状の山頂に出てから未舗装の道路を更に100メートルほど下る。すると崖の下に出る。研究所は入江にそっと触れるように慎ましく建ち、外部の者はほとんど訪れない。この峠道は少年たちの間でカーブごとに一番から五番まで番号がつけられている。達郎が断念するのはいつも四番目なのだが、町の少年たちは難なく頂上まで走破する。子どもというのはやはり無駄がない。完成された生命体であると、息子の同級生に会う度に思い知らされる。
「がんばってください!」スグルが大きく言う。
「ありがとう。じゃ」達郎は言うと、外に停めてあったママチャリに乗り込み颯爽と走る。
スグルは彼の背中を見送る。毎朝のことだが、不思議な気持ちになる。親友の父親に奇妙な親近感を憶えるのだ。時々、朝に限ってだが、ジンケを迎えに来ているのか、彼の父を見送りに来ているのかわからなくなる。ある意味、息子よりもその父の方が親しみやすいのだ。年の差を飛び越えた友人だと認めると、少々気恥ずかしいが。
「お待たせ」
ようやくジンケが現れる。彼はいつも待たせるのだ。聞くと、早くに起床しているらしいのだが、快くスグルを迎えた試しはない。ほら、もう8時10分。朝のホームルームまで余裕がない。
奇妙なやつなのだ。もう直ぐ真冬だというのに、ジャンパーもコートも着ない。中学に上がってからは年がら年中、白い詰襟の学生服だ。「寒くないのか」と聞くと、「考えないようにしている」と返す。そこまで貧しくもないと思う。彼の父はとても小ざっぱりとした、子ども目線でも、そう悪くはない格好をしているのだから。夏だってそうだ。クラスの男子がこぞって白の開襟シャツを着るのにジンケだけは黒装束のままだ。夏といえば、夏休みの課題が強烈だった。ジンケは勉強ができる方で、主要五科目の宿題は完璧にこなす。実際にいくつかノートを写させてもらったので保証できる。しかし、問題は自由研究だった。いくら、自由とは言え物事には程度がある。過去の事例から推察できる範疇というものがある。だが、ジンケはそれを飛び越える。彼が提出したものは、赤いロボットだったーー。
「どうしたの、ぼおっとして」
ジンケが出て来た。靴を履いて、玄関の鍵を閉めるまでほんの十数秒。その間、スグルは物思いに耽っていた。そう言えば、あれから見ていないな。赤いロボット、捨てたのだろうか……。聞いてみようかとも思ったが、やめた。なんとなく、触れてはいけない領域だと感じた。
「寝癖すごいよ、ジンケ」スグルは言った。
前を歩くジンケの後頭部には斜めに亀裂が入っていた。
「うん、すごいんだ」ジンケは答えた。
「フケも、すごいよ、ジンケ」スグルは言った。
「うん、すごいよね」ジンケは答えた。
肩に、新雪のように積もったフケ。パンクロッカーの腫瘍のようにへばりついた寝癖。奇妙なやつだと思う。歩き方もゾンビみたいにぎこちない。朝の光は不得手に見える。影が寝癖の部分だけとんがっている。奇妙なやつだと思う。影だけ見れば、狼みたいだ。まったくもって、奇妙なやつだと思う。