また明日
「この家って、僕たちが来る前は誰が住んでいたの?」
息子が父に聞いた。
父は夕食の皿を洗った後、書斎にこもった。二時間ほど作業をすると、息子が降りてきた。キッチンで湯を沸かすのが音でわかった。「コーヒーでいい?」と息子の声が届いた。父は「いいね」と答えた。
書斎とはいえども、立派なものではない。事実、独立した部屋ですらない。寝室の押入れを下手なDIYで改造した、お粗末な空間だった。
「それはお父さんにもわからないな」
父は息子に答えた。
家は借家だった。しかし、父の父、息子の祖父が所有していた物件であった。すでに祖父は他界していて、その家主は父であった。入居者は募集していたが、今時珍しい三軒長屋に間借りしようという人間は現れなかった。すきま風が絶えない木造家屋で、おまけに風呂もないのだ。
だから父子は住むことにした。立地は良い。学校にも職場にも、銭湯にも近い。そして、好きに改造できる。押入れの中板を凹状にカット。凹んだ部分に一人分、無理をすれば二人分の椅子が入る。前方と左右、270度使えるデスクだ。今、父子は押入れの凹の中にいる。肩を寄せ合い、湯気の出るコーヒーカップを両手で包み込む。押入れの中は本でいっぱいだ。難しい本。分厚い学者の本。照明はランタンだ。押入れまで電源を引くのは面倒だった。だからオイルのランタン。オレンジ色の炎はガラスのフードを隔てると、とても上品に見える。知的な炎。難しい本。ジンケ少年の好きな空間。
この家には僕たちが来る前には誰が住んでいたか。それは父にもわからない。学術的な議論は始まったばかり。
「そう」と少年は言う。目は、所狭しと並ぶ保護動物に関する資料を追う。
「どうしてそんなことを聞くんだい?」父は聞く。
「ううん」少年は夢うつつに否定する。「なんでもない。ちょっと気になっただけだから」
少年は思う。父の書斎に入ると、時々自分が見当はずれな存在なのではないかと感じる。もっと父の子らしく、野生の子馬のように無垢で健全であるべきだ。僕は父の善き心に忠実でいよう。隣で背中を丸める父が、こんなにも愛おしいのだから。
「それより今日はもうおしまい? よかったら手伝うよ」少年は言う。
「じゃ、お願いしようかな。これで最後だ」
父は遂行中の原稿を息子に渡す。少年は黙って読む。主に句読点のチェックだが、あまりにも不自然な言い回しがあれば、それも告げる。父は息子の指摘を素直に受ける。彼が指摘した箇所には、なるほど、自分でも違和感を感じていたのだ。
自分に似ているな、と父は思う。しかし、全てが似ているわけではない。一部分だ。自分はもっと身勝手で奔放だ。この子は根っから優しい気質。誰のためでもない。言うなれば、報われない優しさだ。それは時に激しく、施される相手を不快にさえさせる。やはり妻かな。妻の気質を受け継いでいる。そう意識した途端、息子の横顔に妻が宿る。抱き寄せて、頬を重ねたい。妻がここにいる。突然の衝動に気恥ずかしさを感じ、つい鼻から息が漏れる。苦笑だ。
「どうしたの?」少年が尋ねる。
「なんでもない。ちょっと、思い出し笑いさ」父は答える。
「なにを?」と執拗に聞いてくる息子に、「いや、ちょっとね」と答えているうちに、父は笑いを堪えられなくなる。一緒だ。妻と一緒。
息子は引き下がらない。「なになに?」とからかい半分に身をすり寄せてくる。まるで猫だ。そして、この仕草こそ妻だ。父は笑いながら涙が出そうになる。
「もうおしまい。お父さん寝るぞ」父は言う。
「うん。また明日ね」
また明日、か。これも妻の口癖だった。本当に亡き妻が息子に取り憑いているのではないか、と思う瞬間は多々あった。母子なのだから当たり前のはずだが、時に、知るはずのない妻の特徴を息子は再現する。また明日ね……。同じベッドの中で妻は言った。おやすみとは言わず、毎晩そう言ったのだ。言われるたびに父は切なくなった。眠っている間、妻がどこか遠くへ行ってしまうのではないかと不安になった。また明日ね……。
〈たつろう……〉
小雨のような妻の声が脳裏によみがえる。声変わりを受け入れ始めた息子の声は、風邪をひいたときの妻の声に瓜二つだ。これで息子にラストネームで呼ばれたら、きっと僕は泣くだろう。息子の胸に顔を埋めて、大人気なく泣きじゃくるだろう。そうに決まってる。たつろう……たつろう……。しっかりしろ、達郎!
「また明日ね」
すでに屋根裏に引き上げた息子に向かってつぶやく。同時に達郎は、亡き妻にもそう告げた。




