父
父親が帰って来たのは20時を過ぎた頃だった。夕食の支度はジンケがした。父親は学者で、町外れの海沿いの施設、臨海研究所の職員だった。
「ねえ、お父さん、すき焼きに卵は必要だと思う?」
父は「いただきます」と手を合わせてから答えた。
「お父さんが子どもの頃はいらないと思ってたな。味が薄くなると思ってたんだ。だけど今は違う。あの組み合わせは、見事だと思うよ」
「そうなのか」
ジンケは相槌を打って、今夜の主菜であるアブラコの煮付けをつつく。アブラコはアイナメ科の魚で父親がたまに釣ってくるものだ。
「僕もそうなるのかな。あまりそうはなりたくはないな。だって卵だよ。鶏の生の卵に味の付いた肉をつけて食べるなんて、なんだか傲慢な気がする。それに……グロテスクだし」
「傲慢か。確かにそうかもしれないな。良いのか悪いのかわからないけど、大人になるってことはそういう事と折り合いをつけて行くことなのかもしれない」
父は手に持った缶ビールを、ふと眺める。
「これもそうなんだよなあ」
そう呟いて、飲み口を覗く。まるで、中に遠い少年時代が隠させれているかのように。
「これだって子どもの頃は好きでも何でもなかった。だけどいろいろなことに折り合いをつけていくうちに美味しいと思うようになった。なんだろうな、大人って。誠に勝手な生き物だよ、大人ってのはさ」
「そうなのか」
ジンケは相槌を打つ。父の話を聞くのは好きだ。父は物静かで、いつも会話が弾むということはないが、不思議と満ち足りた充足感があった。
「なあ、お父さんすごいこと言うぞ」父は言った。
「なあに?」ジンケの口にはちょうど肉が入った。
「すき焼きってな、本当は牛肉なんだぞ」
父の言葉に耳を疑った。すき焼きといえば豚肉だ。それがこの地域の常識なのだ。廉価版として鶏肉を使う場合もあるが、それはそれで市民権を得ていた。牛肉がすき焼きに入る、などということは少年の知る限り、あり得ないことだった。そして、そもそもジンケは牛肉が好きではなかった。これも子どもだからなのだろうか。大人になると嘘のように牛肉が好きになるのだろうか。それでは羊の肉はどうなるのだろう。焼けば一番旨いと認識している肉。近い将来、牛肉というニューフェイスが純真無垢な羊たちを無情にも蹴落とすのだろうか。そもそも折り合いとは一体何のことを言っているのだろう。本当のことを避けて、ごまかし、見て見ぬ振りを決め、面倒なことを「折り合い」という言葉に押しつけているだけではないのだろうか。少年は、これらのことを一瞬のうちに考え、父のとっておきのすごい話に相槌を打つことを忘れた。
「煮付けもうまくなったな。もうお父さんよりも、断然うまいよ」
父は何事もなかったかのように食事を続けた。息子がふとした瞬間に、深い沈思黙考に陥ることは知っていた。それは自身の経験にもあったことで、少年時代特有の生理現象のようなものだと理解していた。何せ、大人よりも処理しなくてはいけない問題が山積みなのだ。日々の物凄い情報量を、この小さな体で折り合いをつけなくてはいけないのだから。それにしても料理が旨い。息子の料理の腕は日々上達する。これは才能だと思う。息子が夕食を担当すると宣言してから、もう半年になる。今では外食を避け、これを楽しみに帰るようになった。
「お母さんもそんなに得意じゃなかったのに、不思議なもんだな」
父が独り言のように言うと、ジンケは「ごちそうさま」と言って自分の食器を片付ける。腹を満たしたら今度は頭を満たす時間だ。自室の屋根裏部屋に閉じこもり、あらゆる知識を詰め込む。それが食後の決まりごと。
「お父さん、後でね」とジンケは言う。
「ああ」
父は答えて食事を続ける。他の家の子とは少々違うような気もする。息子は己の厳格なルールに従って生きているように見えるからだ。毎晩、食事を終えると自室にこもる。就寝する1時間前に再び姿を見せ、一緒にお茶かコーヒーを飲む。少し会話する。主に息子が自分の話を聞いてくれる。なんとなく慰めてもらっているような気がする。そして「おやすみ」と言って就寝するが、本当に眠っているかどうかはわからない。たいてい自分が先に眠ってしまうが、息子の気配はずっと細かに動いているような気がする。
父は考えながら、舐めるようにビールを飲み、ちまちまと料理を味わう。