ジンケ
もう真っ暗だった。少年が住む町は夜が長い。特に冬は夜に支配される。端的に言えば緯度が高いせいだが、少年はそれだけではないと感じていた。きっと、町が夜に気に入られているのだ。
もうほとんど暗くて見えないが、少年は見ていた。何か動くものがあれば、目が反射的に捉えた。生身の視覚は闇と共に衰えたが、そもそも町は停止していた。動くものなど何もなかった。
誰かが駆けて来る。薄暗い通りを一心不乱に走る人影。それは、見る見るうちに距離を縮め、窓枠の下に消える。同時に玄関の引き戸が開く。ガラガラと建て付けの悪い音を立てる。
「じんけー」
と声がし、続けて、
「入るよー」
と言う。
引き戸がガラガラを逆再生して閉まり、引き継がれたかのように足音がドタドタ鳴る。
少年が答える間もなく、何者かは家の中へ侵入してくる。遅れて「おじゃまします」と声が聞こえ、はしごがミシミシ悲鳴を上げる。
「じんけー、いるのかー?」何者かは言う。
「いるよー」少年は答える。
どうやら「じんけ」とは少年のことらしい。じんけ、日本人の名としては珍しい。おそらくあだ名であろう。察しの良い読者なら、逆さ文字を連想するのではないか? それは否定しない。だが肯定も止そう。友人が「じんけ」と呼ぶのならば少年は「じんけ」なのだ。しかし、表記上、人名としてわかりやすいように「ジンケ」とカタカナ表記させてもらう。彼の友人たちも同様にカタカナ表記とする。彼らの青春の一ページにはカタカナこそが相応しい。どこか、現実からは浮いた、淡く儚い時代なのだ。
床から、ぬっと顔が出た。屋根裏部屋の出入り口は床の穴なのだ。
「真っ暗じゃん。電気つけないの?」顔は言った。
「つけるよ」ジンケは答えて照明から垂れた紐を引く。カチカチ点滅するがまだ点かない。その隙にカーテンを閉める。
「すぐる、これは秘密の話しだからね」
ジンケは彼をスグルと呼んだ。スグルはジンケの幼馴染。十四歳のクラスメイト。誕生日が三日違い。ジンケが先に生まれている。ジンケが天秤座で、スグルが乙女座。
「ああ、わかってる。ジンケが言うことは、たいがいが秘密だけどな」
ようやく照明が点いた。ジンケはスグルの顔をじっと見る。額に小さなホクロがある。本当に小さな、シャープペンでついたような黒だ。いつからか、ジンケはスグルの目を見て話していないことに気づいた。見ているのはホクロだった。ヒンドゥー教には「第三の目」という概念があるらしい。それを知る以前に、ジンケはスグルを只者ではないと認めていた。もう、スグルのホクロなのか、ホクロがスグルなのかよくわからなくなっていた。それほど、額の小さなホクロはジンケの目を引いた。
「スグルだからこそ、僕は秘密を打ち明けるんだよ」ジンケは言う。
スグルは苦虫を噛み潰したような顔をする。ジンケはこの顔が好きだ。真似しようたって、できるものではない。
「単刀直入に言うよ。幽体離脱わかる?」ジンケは言う。
「幽体離脱?」スグルは答える。「ああ、知ってる。だけど、わかってはいないな。知ってることは知ってる。中身が外に出るやつでしょ。生きたまま」
「そう」
「いつだったか、よりこがやばかったじゃん」
「うん」
「幽体離脱できるって言い張って、学級裁判にまでなったやつ」
「そう」
「もし本当だったらプライバシーの侵害だって。実際にみんなの私生活バシバシ言い当てるから、みんなヒートアップしてさ、先生も何も言えず、あれって魔女裁判みたいだったよね?」
「よく覚えてるね」とジンケ。
ヨリコ。ジンケとスグルの元クラスメイト。今は別のクラス。最近は何をしてるのか、二人ともほとんど知らない。
「幽体離脱って」スグルが言う。「そんなわけないだろうって。だとしても勝手に人ん家入るなって」
「うん」
「いや、それ以前に嘘をつくなって」スグルが続ける。「結局嘘だったんだよね。家に遊びに行った時にメモとったり、勝手に電話して親に聞いたりしてね。もうほとんど犯罪だよ。成人だったら刑の執行だよ」
「まあ、ヨリコもヨリコだけど」ジンケは言う。「僕は周りの反応の方が気になったな。そうだよ、まさに魔女裁判。中には『死刑だ!』って叫ぶやつもいたでしょ。人間の闇を見たというか、その中でもヨリコは勇敢に見えたな。言い過ぎかもしれないけど、ちょっとジャンヌ・ダルクみたいだった」
「なるほど……」スグルは考え込む。「そう考えたら愛すべき存在かもね」
スグルが微笑む。直視できない。額のホクロがまぶし過ぎる。これなのだ。やはりスグルは只者ではないのだ。たとえ先入観を持っていても、良き考えは柔軟に受け入れる。紆余曲折は、スグルが通った後、真っ白な一本道になる。それが、スグルなのだ。
「ヨリコの話は、一旦置いといて……」ジンケは言う。
と、すぐさまスグルがかぶせる。
「実はジンケが、その幽体離脱をできるって話だろ」
どきっとした。第三の目がジンケの心臓を射抜いた。秘密は秘密なんかじゃなかった。スグルは、正しくはスグルのホクロは、すでに知っていたのだ。
「うん」ジンケは答える。「だけど確証はないんだ。僕が勝手に、そう思い込んでるだけなのかもしれない。僕とヨリコの何が違うのか証明できる自信はないんだ。ただ、僕は言いふらしたりはしない。こういったことはスグルにしか言わない」
スグルはじっと聞いている。
「なんていうか……」ジンケは続ける。「なんでこんなこと話すのかっていうと、スグルにもやってみて欲しいんだ。習得して欲しい。そして、幽体の状態で僕と会って欲しい。そうすれば証明になるでしょ。お互いが幽体離脱をして待ち合わせる。その時話したこと、遊んだことを覚えておく。戻ったらすぐに紙に書く。そして、それを交換するんだ。これが一致したら僕らは幽体離脱したことの証明になる。誰も成功していないことだよ。世界があっと言うよ」
「俺には無理だな」スグルが答える。「ジンケも知っての通り、俺は現実主義者ってやつだよ。超常現象は好きだけどさ、ある種のエンターテイメントだと割り切ってるもの。もちろん尊重はしているよ。ないとは言えない。自分が信じないものを完全に否定するのは逆に非科学的な行為だと思ってる。だから、俺みたいな現実主義者が疑いを持ちながらやるのはちょっと違う気がするんだよな。俺は判断する側の人間だから」
ジンケは圧倒される。ここまで、完全に断られるとは……。やはり、僕らは大人になりつつある。残された時間は、とても少ない。
「だいじょうぶさ。僕はスグルを信じているから」ジンケは言う。
「俺だってジンケのことは信じているよ」スグルも言う。
「これは科学の実験なんだ。言うなれば超科学だよ。わかる?」ジンケは押す。
「超科学……」スグルは顎を触る。
「僕の言う通りにやればいいよ。成功してもしなくても、意義は十分にあることさ」
「う〜ん……」スグルは考える。眉間に皺が寄り、額のホクロが少しずれる「わかったよ。やってみるよ」
「じゃあ、早速、今夜からだ」
「ごめん、明日からでいい? うち、今夜すき焼きなんだ」
「ああ。すき焼きならしょうがないね」
「じゃあ、俺はこれにて」
スグルは部屋を下りる。途中、はしごで止まって、言う。
「食いに来る? すき焼き」
まだ家にはジンケ一人だということを察してスグルは言ったのだ。その優しさが屋根裏の下から押し寄せる。これが、優しさの波全体が、スグルの霊体なのではないか? そもそも、この話を持ちかけた自分が愚かだったのではないか? スグルは遥か先にいるのだ。大日如来のごとく、遥か彼方に……。
「だいじょうぶ。また今度、お呼ばれするよ」顔の見えない相手に、ジンケは言った。
「ばいばーい」スグルの声が遠くなった。引き戸のガラガラ運動も定例通りに一往復し、ジンケは再び閉じ込められた。若干の息苦しさに窓を開ける。外は闇。闇のただ中。ジンケはその闇に向けて、「明日ねー」と声をかける。スグルは駆けたまま片手を挙げてそれに応える。
すき焼き。スグルの家族は知っている。何度か食事にも呼ばれている。しかし、すき焼きを邪魔してはいけない。すき焼きは儀式。それぞれの家の秘儀なのだ。