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少年

 少年は屋根裏部屋にいた。お世辞にも上等な部屋ではなかった。所詮、住居には適さないネズミの巣食う無用の空間、デッドスペースなのだ。

 空間のほとんどは、ベッドだった。どうやって運んだのか理解に苦しむ巨大な木製ベッド。配置だけ見れば、まるでビジネスホテルだ。将来、少年が社会に巣立ち初めてビジネスホテルに泊まる時、きっと屋根裏部屋は生ぬるいビールの味と共に再生されることだろう。

 テレビはある。小型のブラウン管。タンスもある。アメリカンなオレンジ色。机は無骨。スチール製。およそ、子ども向けではない。椅子も、役場の食堂にありそうな角材仕様。家具はちぐはぐだが、一通り揃っている。同世代の少年にしては、十分すぎるほどだ。天井はもちろん低い。低くて三角だ。スペースシャトルのコックピット並みの傾斜がある。ここが少年の自室だ。

 少年は寝ていた。ベッドに、ではない。その下で、その脇で、ビジネスホテルならば無数のスリッパで踏みつけられたであろう空間に、少年は横たわっていた。大の字、のつもりだった。だが、その隙間はあまりにも狭いので、「大」はそもそもの象形文字のように左右非対称に波打っていた。

 眠ってはいなかった。まぶたは閉じているのだが、眼球はせわしなく動いていた。レム睡眠中にも眼球は高速で運動すると聞くが、少年はそうではなかった。実際に見えていたのだ。この状態の時の少年にはまぶたなど意味がない。肉眼で見るのとは感覚が違うが、少年流の言葉を借りれば、思考の糸が張り巡られていたのだ。

 この糸は少年の中心(それが脳なのか心臓なのか、少年にはまだ特定できていない)から放射状に飛ぶ。糸は何本あるのかはわからない。望めば望むだけ放出されるが、無限ではないと感じている。どうやら、日によって変わるようだ。糸は物質に触れる。その瞬間に視覚と連動する。そして、糸は突き抜ける。遮蔽物は意味をなさない。どんどん突き抜けて、やがて屋根裏の外に出る。空へ、隣家へ、地中へ、糸はまさしくイトミミズのように愛らしい頭を振りながら突き進む。少年には町が見える。地中の遺物が見える。そして空が見える。大空に散りばめられた氷の微粒子まで、目を覆うほどの大画面で見ることができる。

 少年は全てとつながっていたのだ。いわば、深い瞑想状態だった。

 一連の行為は少年の日課であった。無論、瞑想などという概念を知る以前からである。もしくはマスターベーションに芽生える前に、それ以上のものを知ってしまったのかもしれない。

 意識は明瞭だ。かつ細胞の一つ一つまでが歓喜した。気泡にも似た活力が細胞の隅々まで行き渡る。その心地良さ。温かさと涼しさ。嬉しさと悲しさ。怒りと喜び。全てを同時に味わうのだ。これは生命の愉悦。森羅万象との共鳴。宇宙との和合ーー。羅列すればきりがないが、どんな言葉を並べても、少年は言い表す自信がなかった。ゆえに、一人だけの秘密だった。

 少年は回復した。日頃の睡眠不足もこれで解消。およそ十分程度の瞑想であったが、何十時間の睡眠にも匹敵する癒し効果だった。例えると、再構築。地中からも空からも、あらゆる形状の建造物からも、正しい記憶を取り戻す。日々の迷いで汚染された少年の肉体は新たに生まれ変わったのだ。

 やがて少年は戻った。みぞおちの部分を冷たい風が通り過ぎると完了の合図だった。まぶたを開くと、自身の黒目が大きく感じられた。瞳が濃いのだ。そして、手足の末端がしびれている。はっきりと帯電している。

「おかえり」少年は口にした。

 自分自身にそう告げた。肉体的でもなく、精神的でもないが、何か決定的な自己内乖離を自覚した。それは、友人の孤独に深入りしてしまったかのような、親密さと寂しさが混ざったような感情だった。一度体を丸め、胎児の姿勢を保ちながら、ゆっくりと時間をかけて少年は起きた。

 こうして少年は生まれ直す。窓から見える空は素っ気なく感じた。さっきまで大空はこの手に触れていたのだ。しかし遠くから眺める空もまた美しかった。日が暮れかけている。空が朱色で汚れる刻。青い空が泣いた。ぎゅっと歪んで、朱色の涙を滲ませた。町の天蓋は瞬く間に塗り替えられた。

 少年は太陽の熱い涙を取りこぼさぬよう、暗くなるまで見続けた。


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