例え心臓がぼろぼろになっても、案外誰も気づかない
「『本当は、そうしたくない。なんで俺がそうしなきゃいけない。俺にそう強いた奴らが許せない』……それが君の本音なのだとしたら? 本音を抑圧されて、押し付けられた役目を自分の義務だと思い込まされているのだとすれば?」
――――それでも、それでも君は僕たちを許せますか?
「許せない……って言って欲しいのか」
ちびは、首を横に振る。
ちびがすがりついている俺のシャツが、その手でぎゅっと握り締められた。
「僕がどうこうじゃありません。他人に強要されて、始君がそれを許せるのか、それだけです」
強要されて――――か。
俺は天井を仰いで嘆息した。
俺は、自分の意思も無視され強要されていたのだろうか。答えどころか問題になる可能性すら気づかなかった。
「どうだろう。俺はそんなこと考えもしなかった。……最初は兄貴たちへの対抗心だったんだ。兄貴たちが好き勝手やって学校を壊したから、迷惑していた俺は兄貴たちへの皮肉になるようなことがしたかった」
それが、兄貴達と血の繋がる俺が情けないやつだと知らしめることだった。よくいるだろ? 弟のせいで兄貴の株が下がるってことが。
「でも、途中で兄貴達の影響力は思った以上に強いってことが分かった。なにせ、俺が誰かを傷つける力がないってみんなが気づくのに1~2年もかかったほどだ。」
ちびは、俺に抱きつきながら黙って聞いていた。時折、はなをすする音や涙を拭う衣擦れの音だけが響く。
ちびの背中をぽんぽんと叩いて宥めた。
いや、俺自身の動揺を隠すためと言ったほうが正しい。
深くまで仕舞い込んだ心をさらけ出すのは、怖かった。
「俺は蔑まれるより怯えられる方が堪えた。何もしていないのに化け物のように扱われるのは嫌だったんだ。
そんな生活が暫く続いた頃、いつからか、みんなの怯えの原因がなくなればいいと思うようになった。それこそ皮肉なことに以前からやっていた情けないことをそのまま続けることが必要だった。」
皮肉から始めた行動を、本心からできるようになったのはその時からだ。
「幸いすぐ上の敬次兄も、学校を立て直す方に尽力して意識改革を始も始まっていた。
同じ朝島兄弟でも敬次兄は上二人とは考え方が全く違ってるということが生徒たちにも少しずつ浸透してきたんだ。そしてその流れに乗れば、俺も一人の人間として見てもらえてむやみに怯えられることもなくなると思った」
あの時は、敬次兄の本心は長男、長女に対する対抗心だと思っていた。
しかし、今朝になって、兄貴の目的が学校の浄化だと知った。
つまり俺と敬次兄の目的は、実は一致していたのだ。もしお互いの胸襟をひらいて協力し合えば、もっとうまくいったかもしれない。
それに気づいたところで、兄貴はもう卒業した後だったから後の祭りだったが。
「だからさ、ちび。俺は何もかも自分で選び取ったつもりだ。強制はされていない。
そりゃ『なんで、俺がそうしなきゃいけない』って思うこともある。
……いや、最近はそう思いすぎてほとんど拗ねてたけど。でも、ちびのおかげでそれは間違っているって気づいた。自分で決めたことなら、ふて腐れている場合じゃない」
ちびは、ひときわ強く俺のシャツを握り締めた。
「始君は傷付いていたのに? 無理をして、辛かったから君は拗れたんでしょう。自分で決めたこととはいえ、それは自分を騙して苦痛に耐えながら成す価値があるんですか?」
――――間違ってますよ、そんなの。
ちびが、やるせないように呻く。
こいつの中では正しい答えが出ているのだろうか。
本当は、傍目八目とことわざにあるように、当事者より第三者の方が正しい判断ができるのかもしれない。
でも、今の俺は、他の誰でもなく俺自身が選択し続けた結果だ。
自分が選んで決めること。
その選択が不本意な選択でも、誰かに強要された選択だとしても自分で決めたなら自分で責任を負う。
選択し責任を取ること。それを譲ってしまったら、俺は俺でなくなってしまう。
「いいんだ、間違っていても苦しくても。自分で選んだんなら貫き通す。そうじゃないと、また俺は後悔する」
それだけは、ごめんだった。
ちびは、またまっすぐに俺を見上げた。うっすらと潤んだ瞳が、俺の言に偽りがないか見通そうとしている。静かな瞳だった。
「それが、他に選ぶ道もなく他人に強制された道でも……?」
俺もただ自分の信じることだけを答えた。
「そうだ。例え選ばざるを得なかったとしても、それでも選んだのは俺だ。後悔なんてしたくない。するわけにはいかない」
視線が交差する。ちびのチョコレート色の目に映る俺は、ひどく真剣な表情をしていた。
これはそれほど、自分の深いところに関わる問題だった。嘘をつくわけにはいかない。
俺の眼から必死さを見て取って、ちびは溜息をついた。
そのまま顔を伏せて俺の胸に、頭突きのようにぐりぐり頭を押し付ける。やりきれない感情を落ち着けようとしているようだった。
「なんで始君はこんなに頑固なんですかね。こんなかわいい女の子が泣いているのに自分を曲げないなんて……」
ようやっと、ちびは顔を上げて悲しげに笑った。
しがみついていた俺のシャツから手を離し、ふらつきながらもしっかりと立つ。
ちびの小さな足は、俺から1歩離れた距離で落ち着いた。
これでもまだ近いようだが、誰にでも撫でられるちびにとってこれが妥当な距離なのだろう。
「始君は強いです」
ちびはやり切れないように、沈痛な表情で言葉をつないだ。
「でも、その強さはひどく脆い。張りつめ続けた糸が耐えかねていつか千切れるように。君もいつかは、擦り減って壊れてしまうかもしれない。そうなってからでは、何もかも遅いんですよ」
それは、わかってる。俺は苦痛に耐えきれず追い詰められて、無関係のちびを傷つけた。限界は思っているより、すぐそこまで来ているのかもしれない。
だが、ここで潰れるわけにはいかなかった。そうじゃなければ、俺の削り取られた何かがが報われない。
「苦しいのは確かにそうかもしれない。でも、俺は2年半これを通してきた。あと、半年で卒業だ。それまで必ず耐えきって見せるさ」
かすかに笑ってみせる。自信満々とはいかないが、まだ笑える余裕があった。
ちびは俺の持ち出した理屈に惑わされなかった。首をゆっくり横に振って、俺が目を逸らし続けた現実をはっきりと突きつけた。
「3年間耐えきった後は? 君の人生は高校卒業後もずっと続いていくんですよ。君の身の内に残った傷はずっと君を苛み続ける。この後の何十年の人生、その苦痛にずっと耐えていけるのですか」
――――3年もの間切り刻まれた心は、卒業しても傷を開けたままなんですよ。
言い返そうとして、ただ唇がわなないた。反論が、できない。
ちびは圧倒的に正しかった。
目を逸らし続けていた現実に容赦なく、向き合わせられる。
痛みと苦しさで、心臓が冷えていった。
俺はこの3年間を、しのぎ切ることだけを考えていた。
卒業を目的としていたが、その実、卒業以後の道が全く見えていなかった。
それどころか、卒業後の自分はどこにもいないのだと半ば確信していた気さえする。
「…………だから、お前はあんなに俺のことを気に病んでいたのか? 俺が先のことを考えられないほど追いつめられていると知って?」
ちびは、ゆっくりと頷いた。
「みんな、自分の傷にも他人の傷にも無頓着すぎるんです。
心が血を流さないからって、放置した挙句“生き”詰まる。転がるように死に傾く。
そして、……始君をそこまで追い詰めたのは、僕たちです。それなのに、僕はまた始君を利用しようとした。それは、どう償っても償いきれないほどの罪です」
ほんとうにごめんなさい。
ちびは掠れた声で謝った。
小刻みに震える肩が、ちびの自責の念がどれだけ深いのかを暗示している。
背中を撫でて落ち着かせるべきだろうか。迷って、結局手を降ろした。
小手先の慰めととられるのは嫌だったし、そもそもこれはそんなことで救われる程度の苦しみじゃない。
だから、ちびに伝えられるのは本心から出た言葉だけだった。
「俺は、ちびに感謝している」
ちびはあってはならないことが起きたように、目を見開いた。