涙はみせたくない
いい加減立ち上がる。これは座りながらしていい話じゃない。
ちびは俯いたままぴくりともうごかなかった。
懺悔をしているようにさらけ出された、ミルク色の白いうなじ。
かすかな儚さが、悔恨に苦しむちびの周りを漂っている。
普段の仔犬めいた騒がしさが嘘のようだった。
――――見ていられない。
俺は恐る恐る手を伸ばして、ちびの柔らかいブラウンの髪に指を絡めた。
ちびは指が届いた瞬間ビクッと細い肩を跳ねさせたが、じきに体の力を抜いた。
そのままそっと形のいい頭をなぞるように、撫でる。
そうやって、ちびが苦しむ必要はないと伝えたかった。
考えてみれば、俺がこいつを撫でたのは初めてだ。
他のクラスメートは仔犬をかわいがるかの如く、事あるごとにちびを撫でる。しかし、今のように懺悔するような痛々しいちびを慰めたことはないに違いない。
こいつは、そういう自分の弱っているところを他人にさらけ出すのを恐れている。
泣きたくなるまで追いつめられて、それでもまだ耐えるような気丈なやつだった。
「大丈夫だ」
沈黙を壊すのを恐れて、囁くような声がのどから滑り落ちた。なだめるのは苦手だ。
「大丈夫だ、全部知っている。俺もお前たちも悪くないってことは、この学校に入ったとき、いや入る前からわかっているよ。本当をいうと兄貴も悪くないっていうのもだ」
ちびは、黙って聞いていた。
ちびの髪にこぼれた教室の明かりだけが、現実のように思えた。
不意に床にぱたぱたと水が落ちる。――――涙。
肩に手をまわしてちびの体ごと引く。
いつでもちびが逃げられるように、柔らかく抱きしめた。身長差から覆いかぶさるようになったが、構いやしない。
がんぜない子供をあやすように背中を軽くたたいた。
ちびの体が、少し熱い。
何度か背中を撫でるとちびは詰めてた息を吐き出した。そのまま頬を擦り付け俺の肩に顔を埋める。涙は見せたくないらしい。
肩口だけが冷たかった。
ほんと、何やってんだろうな。俺は。
こいつは……ちびは悪くない。
兄貴の命令で俺に近づいて、任せられた役割を果たしただけだ。
俺に罪悪感をずっと持っていて、しかしそれを表に出せなかった。
それを俺は遠慮なく暴き立て、ちびを苦しませて挙句に泣かせている。
俺はいまだに拗ねた馬鹿な餓鬼だった。
「――ちびが苦しむ必要はないんだよ。何にも悪くないんだから。
悪いのは、耐えると決めたのに、兄貴のこと腹に据えかねてお前に八つ当たりした俺だ。
本当にごめん。」
肩口でちびは頭を振った。
さりさりと、ちびの頬と俺のシャツが擦れあって柔らかな音を立てた。
さらに、頭を強く押し付けられる。そろそろと俺の背にちびの手が回された。
応えるように、俺はちびの頭の後ろを手で覆って引き寄せた。
こいつはちびだと思ってきたが、頭まで小さかった。軽く広げた俺の手でちょうどいいくらいだ。こんな時なのに、すこし笑ってしまう。
いとしいとすらおもった。
この小さい頭には兄貴への尊敬、学校への奉仕精神、組織の板挟みの苦しさ、――こいつが今まで守ってきたものに対する想いがぎっしり詰まっている。
根が真面目なこいつは、俺に対する罪悪感も切り捨てられなかったんだろう。ずっと自分を苛んで、今日とうとう決壊した。
こいつが秘めていた弱いところを容赦なく暴いてしまったのは、言い訳のしようもなく俺が悪い。だが、それは必要のない罪悪感だった。このままちびが抱え続けて苦しむほどのものじゃない。
割り切れなかった想いがこいつを苦しめているなら、一つでも減らしてやりたい。
そうじゃないとこいつが報われないだろう。
俺は、こいつにがんじがらめに纏わりついたしがらみの一つになるわけにはいかなった。
「そのまま聞いてくれ。俺は、自分が学校から朝島の色を抜くための存在だということを知っている。俺のそういう役割に生徒たちが違和感を抱かないように、どこかが手を回していることも知っている」
それに、ちびが噛んでいるとは思わなかったが。
責められていると思ったのかちびの背中が怯えたように震えた。
そっと背中を叩いて宥める。
「だけど、それは俺も望むところなんだ。兄貴は荒廃した高校を糺すために3年間頑張った。俺も兄貴に倣いたかった。朝島の人間なら身内の恥は身内でそそぐ。俺にできるのは、朝島の人間にも無力なヤツがいるって身をもって示すことだった。6年間こびりついた朝島の恐怖を、朝島が大したことないって事実で消し飛ばしたかったんだよ」
その思惑は、ほとんど成功したと考えている。
入学したての頃は俺に怯えていた生徒たちも、今じゃ軽蔑の視線を隠そうともしない。侮られていると肌で感じた。当然だ、そう立ち回ったんだから。暴力振るわれれば逃げる。脅されれば謝る。そんな情けない姿ばかり強調して見せてきた。
だから、俺の目的はほぼ達成できたといってもよかった。
成し遂げるのに3年もかかった悲願だ。
喜ぶべきなのだ、本当なら。
しかし――――いつの間にか、俺の心は怒りと恨みで塗りつぶされていた。
「俺は自分で決めたことなのに恨みが募っていた。なんで、俺がこんなことをしなければならないんだ……ってさ。誰も俺に強いていなかったのに」
3年間、自分一人だけで耐え切って見せる。
その意思だけは曲げずに貫いてきた、はずだった。
現状はどうだ?
俺は、兄貴を、俺を嘲るやつを、無関心なヤツをいつの間にかいっしょくたにして恨んでいた。誰も俺に犠牲になれと、強要していなかったのに。
俺は自分で選んだ道なのに、それを誰かのせいにする大馬鹿野郎だった。
「俺は本当に馬鹿だ……お前を泣かせてやっとそれが分かった」
壊れ物に触れるように、ちびの髪を梳かす。
俺の話の間、息を止めていたのか、ちびは深く息をついた。合間合間にしゃくりあげるようなか細い吐息が耳をくすぐる。
「だから、ちび。お前が自分を悪く思う必要はないんだよ。俺は自ら恨みの受け皿になることを選択したんだ。でも、俺は自分で決めたことなのに耐えきれなくてお前に八つ当たりをしてしまった。悪いのは俺だ。ちび、ごめんな。」
傷付けたのなら真摯に向き合うのが償いだ。
正直、誰にも吐露したことのない心中を告白するのは抵抗がある。情けなくて女々しい胸中ならなおさらだ。
だが、もう俺は逃げたくない。
「……は、で……すか?」
「え?」
俺のシャツに顔を押し当てたまま、くぐもった声でちびが何かを言う。
間抜けに聞き返すと、ちびは抱き付いたまま俺を見上げた。
頬はほんのり赤く染まり、瞳も潤んで艶やかな光を浮かべていた。
表層には戸惑った俺が鏡のようにはっきり映っている。
顔が、近かった。
「始君は、それでいいんですか」
真摯な声。
その声には、あいまいな嘘やはき違えた優しさをはねのける強さがあった。
「ああ。俺はもう揺らがない」
お互い目を逸らさない。
相手の迷いを探るような。静かな呼吸だけがあった。
数瞬とも数時間とも感じられる時間。
先に視線を逸らしたのはちびだった。
俯いて、また俺にギュッと抱き着く。やるせないような溜息がちびの桜色のくちびるから零れた。
「やっぱり、始君は優しいですね。……そして僕は、いや僕たちはその優しさを利用したんです」
ちびの吐息の合間合間に、隠しきれない震えた声がこぼれていた。
「それは、もういいよ。俺が望んだことなんだから」
「……それは、本当に君の意思ですか。周囲の圧力やお兄さんの刷り込みによるものじゃないと、君は明言できますか」
息が止まった。それはどういう意味だ。
「始君は、周囲に“犠牲になるべきだ”と刷り込まれてその通りに生きているってことです」
ちびは俺の胸に頭を押し当てて、滑らかな首筋をさらしていた。
声色に反して、俺を弾劾するというより自分の罪を懺悔しているようにも見える。
「『本当は、そうしたくない。なんで俺がそうしなきゃいけない。俺にそう強いた奴らが許せない』……それが君の本音なのだとしたら? 本音を抑圧されて、押し付けられた役目を自分の義務だと思い込まされているのだとすれば?」
――――それでも、それでも君は僕たちを許せますか?
俺の背中に回ったちびの手に力がこもる。不安なのだろうか。
背中を滑る手の平は、妙に熱かった。