仔犬のワルツと不発弾
「始君……今月の、こ、広報誌持ってないかな」
教室に入った途端ねだられた。ただし、声はだいぶ下から聞こえてくる。
見下ろすときらきらした目を恥ずかしげに潤ませた女子小学生……いや女子高生がこちらを見上げていた。
ちびとあだ名されている仔犬系少女である。これで高3なのだからいろいろ間違っている。
しかし、発育のいい女子ならともかく、こいつに上目づかいをされても小学生にお菓子をねだられている気分にしかならない。
線も細いし、その名の通りちびだ。ぶかぶかの制服の中で白い体が泳いでいる。
半そでからすらりと伸びた腕はか細く、やわらかそうだった。
今は半そでだからまだいいが、長そでだった時は袖口から手が出ずぱたぱたと袖を振り回していた。小さすぎて、一番小さなサイズの制服でもまだ大きかったらしい。
柔らかく光に透けるブラウンの髪はふわふわしていて、いつもみんなが我先にと撫でている。気持ちよさそうに目を細めてくすくす笑って撫でられているところなんかは、まるっきり仔犬だった。
こいつの奇特なところは、天然であざとい容貌をしているのに女子に人気があるところだ。子犬のように潤んだつぶらな瞳と、誰にでも懐くような天真爛漫さが母性本能を直撃するらしい。
なんにせよ、ちびのおかげでうちのクラスの女子と男子の確執は他のクラスより断然少ない。男子も女子もみんなこいつの所作に一喜一憂している。
……ペット扱いに見えるとは、俺も命が惜しくて言えない。
「広報誌って、今朝配達されたやつか? なんでそんなのが欲しいんだ」
こいこいとちっこい手でと手招きされたので屈む。小さい声で耳打ちしてきた。
「ごめんなさい。広報誌の今月号は異世界のトレィアちゃんのインタビューが載ってたんです。でも僕のは弟にとられちゃって。……多分もう返ってこないと思うんですけど、僕トレィアちゃんのファンなのでどうしても諦めきれないんです」
それで、とちびは言葉を継いだ。どうでもいいがこいつの声はぞわぞわ来る。耳元だからか?
「それで、始君の広報誌を貸してほしいんです。大丈夫。コピーしたら絶対に返します。……だめですか?」
懇願するように、小首をかしげられるとグラっとくる。確かに犬が遠慮がちに餌をねだるポーズに似ていた。
「別にいいけど……というか、お前なら他のやつらからもらえたんじゃないのか」
こいつはそれぐらい可愛がられている。人気絶頂の異世界の村娘アイドル、トレィアの独占インタビュー記事をみんな惜しげもなく、ちびにあげてしまうくらいには。
それを指摘すると、ますます困ったようにちびの眉が八の字に下がる。
「そうかもしれません。みんなやさしいから。でも、みんな僕にあげようとするので、その、あの……」
言いづらそうに、もじもじと視線を移ろわせるちび。
嫌でも察してしまった。
こいつのありがとうを聞きたいがために、みんな広報誌をプレゼントしようとする。
――で、確実に喧嘩になる。
その惨劇が容易に想像できて、俺は溜息をついた。
確かにちびに興味がない俺があげれば、余計な勘繰りはされなくて済みそうだ。
「了解。というかよくわかったな、俺が持ってきているって」
立ち上がって、碧の表紙の広報誌を肩掛け鞄から取り出す。
確かに表紙は異世界のフランドーレ村のアイドル、トレィアだった。
俺は成人式の案内のほうが大事だったのでまったく目に入らなかったが。
渡すと、ちびはぱぁっと顔を紅潮させて、嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます、始君。学校のコピー機使うので放課後には絶対に返せると思います。安心してください!」
「いやコピーしなくてもいい。インタビューページはいらないから切り取って持って行ってくれ。その方が写真もきれいでいいだろ」
俺は別にトレィアのファンではなかったのでインタビューはどうでもいい。
それより、あの怪しい成人式の案内のほうが大事だ。なんか命にかかわりそうな気がするし。
ちびは俺の言葉にあからさまにショックを受けたようだった。
心配そうに俺を見上げ、そして眼を伏せた。
「多分そうなんじゃないかなと思ってました。始君は市長のおちゃめな広告の方が気になってて、トレィアちゃんは目に入らないんじゃないかって……。もし、広報誌を持っていたら絶対その広告のことを聞きたくて持ってくるんだろうなって」
図星なので軽く頬が引き攣った。なんでそこまでわかるんだ。
「だから、始君なら絶対断んないと思ってお願いしたんです。ふふ、ずるかったですね」
自嘲気味に笑うちび
なんか、見慣れない顔だった。こういう顔もするのかこいつは。
「いや別に俺は――」
「でも、でもですよ。あんな可愛い子なのに何の興味も持たないなんて、僕とっても心配なんですよ」
また上目使い。今度はなんか決意にあふれた眼だった。
「わかりますか。男子がみんな騒いでいるトレィアちゃんを華麗にスルーした始君に、どんな疑いが掛けられているか!」
俺が、ホモだとあらぬ疑いを掛けられていることを言っているらしい。
いや、そういう疑いを掛けられているのは、トレィアをじゃなくてお前をスルーしているからだよ。
そう言っても、こいつは信じないだろう。
何故かは知らないが、こいつは自分が可愛いとは思っていないらしい。普通、女子ってそういう自意識が高いもんじゃないのか?
まぁそうじゃないから、ちび自身がトレィア信者になって憧れたりするんだろう。
そのおかげで、クラス内ではちび派もそうじゃないやつも気兼ねなくトレィアの話題で盛り上がれる。
ちびを可愛がっていても、市職員になってトレィアとお近づきになりたい。あわよくば付き合いたいって男子が多数なのはそういうわけだ。
ここら辺ますますペット感覚っぽい。
そう、犬と彼女は別である。
「僕はそれが悔しいんです。始君はこんなにいい人なのにいわれのない中傷で評判に傷がつくなんて!」
ちびは大げさにぐっとこぶしを作って、悔しそうな顔をした。
俺、こういう眼は嫌いだ。説教で一人盛り上がっている兄貴みたいで。
「俺の評判なんてもうとっくにガタガタだから、別にどうでもいいよ。というか間違いなくお前もそういう噂の原因の一つだと思うぞ」
めんどくさくなってきそうだったので逃げようと自分の席に足を進める。
が、がくんと体が傾く。振り返ると俺のシャツの端を、柔らかそうな手ががっしりと掴んでいた。
「だからですね。僕がトレィアちゃんの可愛さをたくさん教えてあげます。君が興味を持てないのはきっとよく彼女を知らないからなんです。大丈夫、変な噂なんて消えてなくなりますよ。ね、僕に任せて」
にっこりとちびは小首をかしげて楽しそうに笑った。幼稚園の保母さんが小さい子に言い聞かせるような言い方だった。
体格的に逆だろう、普通。
「わかった。放課後なら……付き合う」
嘘だ。勿論逃げる。
兄貴は、父親が自衛隊に勤めている子と、母親がPTA会長を務める子に話を聞けと言った。だが、話になりそうにない。
休み時間、クラスの後ろのほうで笑いあっているグループに声をかけた。
父親が自衛隊に勤めている子――伊藤は、机に浅く腰掛けてしきりに大声で笑っている。
元々明るい性格で笑い上戸の気もある。だれかれと屈託なく付き合うタイプで、伊藤と一緒にいれば自分も相手も終始笑顔が絶えることはないだろう。
「伊藤。ちょっといいか」
が、俺が話しかけた途端その楽しげな空気は霧散した。代わりに重苦しい憎しみの視線が突き刺さる。伊藤の視線だった。
「なんだよ《カウントダウン》。いや、違ったな《不発弾》」
しょっぱなから喧嘩腰だ。名前を呼ぶのも嫌そうで、俺の不名誉なあだ名で済まそうとしている。これでも1年間一緒のクラスメイトなんだから、俺がいかに嫌われているかがまるわかりだった。
ちなみに《カウントダウン》とは、朝島四兄弟の蔑称だ。そして、《不発弾》は俺個人に対しての蔑称である。
長兄与四郎、長女三弥子、次男敬次、そして末っ子始。
年齢の降順に名前が四・三・二・一と数字を表しており、まるで危険物爆発のカウントダウンをしているように見える。
――ゆえに《カウントダウン》。
実際、危険度は数字が少ないほど過激になると言われていた。
そして《不発弾》は、最大危険人物と思われた「カウントダウン、最後の一人」――つまりこの俺――が到って平凡で暴力性もカリスマ性もない、ただのガキだと判ったからついたあだ名である。
事実なのに最初はだれも信じなかった。俺はこのあだ名を真実にするために、高校3年間を費やした。
暴力に対して無抵抗で、情けなく逃げ回った。
だから誤解が解けても、決して気持ちのいいあだ名ではない。
「その呼び方止めろ。俺はお前に何もしてないだろ? なんでそこまで嫌われなきゃいけないんだ」
伊藤は舌打ちで応えた。
「聞きたいのってそれかよ。ああ、お前は何もしなかったよ。お前の兄貴が滅茶苦茶したのを黙って見てただけだもんな。
俺の兄貴のアキレス腱断裂、お前の兄貴がやったんだ。兄貴はサッカーの特待生候補だったのに、全部ぶち壊しやがって。
――俺はお前らのやったこと絶対に許さないからな」
……これだ。兄貴たちの負の遺産。
俺は唇を噛みしめた。
やったのが、与四郎兄でも敬次兄でも俺は止められなかっただろう。長兄には暴力で、次兄には策略で、俺は負け続けている。そうだ、その場に居ようが居まいが止められなかったのは確実だ。
……だが、誰も傷つけていない俺がなぜ責められなければいけないんだろう。
傷つけた責任を負うのは、傷つけた本人だ。
その時いなかった人間、自分より弱い人間に責任を負わせるのが正しいのか。
傷付けた者が去っても、止められなかった者をずっと責め続けるのが正義なのか。
――そんなわけ、あってたまるか。
俺は怒りを目に込めないように、手に爪を喰いこませて耐えた。そうやって耐え続けた3年間だ。今爆発して無駄にするわけにはいかない。
「そうか。俺が謝って済む問題じゃないが、悪かった」
殊勝に頭を下げた。
俺が謝って何にもならないことはわかっている。それでも罪悪感はいつも体に纏わりついた。
今更の謝罪は誰も幸せにならない、一時的に罪悪感を晴らす代償行為でしかない。
伊藤は無言で睨み続けている。許さないというのは本当のようだ。
周りの人間は息を殺して成り行きを見つめている。俺を責める視線は方々から飛んできた。
「たったひとつだけでいい。教えてほし……教えてください。今年の成人式で自衛隊はどう関わっているんだ。お前の父さん、なにか言っていなかったか?」
「はっ、なに成人式? あの市長の手紙信じてんのかよ。だっせーなお前。親父もこんなバレバレの嘘、馬鹿だって引っかかんないってさ」
鼻で嗤われた。ただの挑発だ。乗るなよ、朝島始。
「つまり、自衛隊は関係ない?」
「しっつけーな。そう言ってんだろ」
伊藤の視線が殺気を帯びる。
この1年伊藤が、俺に暴力を振るったことはなかった。
だが、それは伊藤が強靭な精神力で耐えていただけかもしれない。
我慢しているのは俺だけではない。良識ある人たちはみんな何かを耐え続けている。
それもこの3年で嫌というほど学んだ。
そろそろ潮時だった。
「そうか、邪魔して悪かったな。ありがとう、助かった」
なけなしのプライドで頭を下げた。振り向かずに自分の席に向かう。
「あいつ、同級生に敬語使って頭下げたぜ。プライドもないのかよ。だっせ」
「だよなぁ。情けねぇの」
背後から伊藤とその仲間達の声がする。
何かを馬鹿にしないと居心地の悪さを隠せない。それは別に悪いことではない。
そんなことで俺は傷付かない。