監視役の矜持
風が強くなってきた。
半袖の夏服では、心もとない。俺はむき出しの腕をさすった。
先ほどの乱闘でついた掌の傷が引っかかって、撫でる腕をまた傷つける。
痛みを和らげていたアドレナリンが切れて、どこもかしこも痛かった。
伊藤はうっとおしそうにパーカーを外すと、吹きさらしの風に髪を任せた。
座り込んだ伊藤の周りには望遠付きカメラ、携帯食糧、双眼鏡などが散らばっている。
随分長い事、ここにいたのだろうか。寒さで伊藤の顔は少し青ざめていた。
しかし、気力は失われていない。
俺を見上げる目はギラギラとして、昼間俺を罵倒した時と同じ殺気が漏れ出していた。
話は通じそうだが、いつ殴り合いになってもおかしくない。
すでにボロボロな俺は、取っ組み合いだけは避けたかった。
「……伊藤、お前が『運営』の監視者か?」
静かに切り出すと、伊藤は口の端を持ち上げて皮肉な笑いをもらした。
「だとしたら? 恨み言でも言うか? 『見てるなら、なんで助けなかった』ってさ」
「……言わない。俺もお前も自分の役目に徹しているだけだろ。そのことで俺が、お前をなじるのはルール違反だ」
そんなこと、今さらだ。
伊藤は俺の答えを聞いて、あからさまに鼻白んだ。
俺の情けない命乞いを期待していたらしい。
「じゃあ、何しに来たんだよ。いつも通りに惨めったらしく巣穴に帰ればいいだろ」
“いつも通り”?。
俺の“いつも通り”を知っているなら、こいつは何度も俺の監視役を務めていることになる。
どうして俺は、伊藤が”監視役”だと今まで気付かなかったんだ?
軽く頭を振って疑問を逃がす。それより、もっと大事なことがあった。
「……仮にも『運営』なら、手落ちはないんだろうな」
「何が言いたい?」
殺気が濃くなる。自分の仕事ぶりを否定されたようで、気に障ったらしい。
「通りがかりの中学生が、乱闘に巻き込まれた。“いつもなら”『運営』は、人払いをして、部外者に被害が及ぶのを防いでいたはずなのに。今日は例外だった。いつから『運営』は、宗旨替えしたんだ?」
今日の襲撃者たちは、そうとう頭に血が上っていた。偶然でも、無防備な通行人に怪我をさせるかもしれない。
そんなことが起こらないように『運営』は、相当気を使っていた。
現に、今まで外で襲われた時には、通行人は一人も通らなかったはずだ。
伊藤は、舌打ちした。期せずして痛いところを突いたらしい。
明らかに虚勢を張って、失点を隠そうとしていた。
「うっせーな。そいつのおかげで、お前は助かったんだ。もういいだろうが」
「……本気で言ってるのか?」
ことさら静かに問うと、伊藤は無言でため息を吐いた。
「責任は取るさ。俺は、『運営』本部から罰を受ける。……ともすりゃそれで、俺は終いだ。」
「罰?」
「さぁな。とりあえず、お前の監視からは外される。後は、『運営』次第だ。煮るなり焼くなり好きにすりゃぁいい」
投げやりな台詞と共に、伊藤は目を伏せた。台詞に反して伊藤の掌はきつく握りしめられ、爪が深く喰い込んでいる。
悔しいのか。
伊藤が俺の監視に付いている理由は、わからない。
しかし、伊藤の憎しみに満ちた目を見て、兄弟に渡る因縁を知った今、なんとなくだが察した。
つまり、伊藤は俺がサンドバックにされる姿をみて、溜飲を下げていたのだろう。
むしろ、”自分の兄貴を壊した奴”が創立した組織に所属して、公認で創立者の弟をいじめるという矛盾が加虐心をそそるのかもしれない。
俺は、好きで苦しむ姿をさらしているわけではない。……本心では、腹立たしい思いもある。
だが、伊藤が必死に探した心のバランスの取り方だと思えば、受け入れられる気がした。
昼にも思ったことだ。
『我慢しているのは俺だけではない。良識ある人たちはみんな何かを耐え続けている』
俺は、――俺たち兄弟は、以前から誰かに我慢を強いる立場に立っていた。伊藤もその犠牲となった一人だ。
加害者の俺が、被害者ぶるわけにはいかなかった。
「頼みたいことがある」
感傷を振り切るように切り出すと、伊藤は胡乱な視線を返した。
「『運営』に切られて、監視役を降ろされる奴に、か?」
「今回の件の後始末もしないで、降りる気じゃないだろう。終わりきっていないのなら、まだお前の仕切りだ」
語気を強める。
伊藤は、片眉を上げて鼻で嗤った。
「“まだ俺の仕切り”、ね。……いいだろう。聞くだけ、聞いてやる」
聞いても、実行する保証はない、ということか?
「簡単なことだ。あの中学生の自転車を警察に届けてくれないか」
変化は急激だった
俺の頼みを聞いて、一拍後、伊藤の口元がひくついた。
酷い侮辱の言葉を投げつけられたように、たちまち眉間にしわが寄り、凶悪な様相になる。
伊藤は、低く押し殺した声を、冷たい怒りを込めて吐き出した。
「ふざけてんのか、てめぇ」
「……まさか」
豹変した伊藤に、気圧されそうになる。虎の尾を踏んだのかもしれない。
伊藤は、押し黙ると、ぐっと何かを飲み下すように深く息を吐いた。
「確かに、俺は落ち度があった。けどな、俺は、腐っても『運営』の一員だ。てめぇに口出しされるまでもなく、そんくらいわきまえてる」
「任せていいんだな?」
伊藤は目を伏せて、肩のこわばりを無理やり解いた。
「てめぇに対して詫びる気はないがな、あの中学生には悪い事をしたと思ってんだ。せめてもの償いだ。フォローは完璧にしてみせる。てめぇに心配されるいわれはない」
こいつがここまで言うなら、信じていいのかもしれない。
自分の失点は、自分の矜持にかけて実績で払拭するつもりなんだろう。
「そうか。わかった、悪いが頼んだ」
仇敵の俺に礼を言われるのは、腹立たしいに違いない。
伊藤は殺意のこもった眼で、俺を見上げる。
だが、表立っては非難の言葉を出さなかった。俺の侮辱ともいえる疑念も、ほかならぬ自分の失策が招いた事態だと考えているのかもしれない。
「俺の用はそれだけだ。邪魔して悪かったな」
これ以上居たところで、伊藤を徒に刺激するだけだ。
俺は、痛む体をなだめつつ、ゆっくりと身をひるがえす。
疲れで、一歩一歩が重い。
……無性にちびに会いたかった。