月夜の晩ばかりと思うなよ part1
20時となればもう外は真っ暗だ。
じんわりと生暖かい闇の中に、ぽつぽつと電灯が燈っている。
繁華街までは遠く、民家はひっそりとしていた。
間の悪いことに新月だった。
こんな何か起こりそうな夜は、かすかな街灯と星明かりだけでは心もとない。
ちびと連れ立って夜道を歩きながら、俺は首の後ろにチリチリと殺気を感じていた。
間違いなく、つけられている。
狙いは俺だろう。帰り道に襲われるなんて数えきれないくらい経験していた。
今までと違うのは、無関係な人間――ちびが居合わせていることだ。
「それでですね、始君。“バターを落としたココア”って響きは暖かくて最高に切ないんですよ」
「うん?」
「愛読している少女漫画の影響なんですけどね。ヒロインの好きな人が、幼少期レストランに置き去りにされたんですが、そこのシェフが淹れてくれたのがこのココアでして……」
「うん」
「大人になったその人が、その思い出を切なくて優しい顔で語るんです。以来このココアを飲むときは、どうしてもそのシーンを思い出しちゃいますね」
「そっか。ちびのココア好きには、そんな理由があったんだな」
ちびは、やけにご機嫌だった。
途中の自販機で買った、ボトル缶のバター入りのココアを時折飲みながら、くるくると回っておしゃべりに夢中になっている。
俺の上の空のあいづちにも、機嫌よく笑っていた。
まさに今、殺気立った一団が後ろから忍び寄りつつあるとは、夢にも思いもしないだろう。
しかし、……どうやってこの難局を凌げばいい。
敵の数は知れている。5人だ。
どう考えても、ちびをかばいながらさばける数じゃない。
おまけに俺が特化しているのは、逃げることだけ。
俺一人なら間違いなく逃げきれる。しかし、ちびを置き去りにするわけにもいかない。人質に取られたら手も足も出なくなる。
さて、どうする。
一番良いのは、ちびを民家なり店に駆け込ませることだ。
狙いが俺なら、奴らもわざわざちびを追って民家にまで踏み込むことはしないはず。
だが、ちびはパニックにならないでそれができるか?
「……なんか怖い顔してますね、始君。大丈夫ですか?」
ちびが、横あいから俺の顔を見上げた。身長差から自然上目づかいになっている。
「ん? 悪い、ちょっと考えごとしていた」
俺の煮え切らない返答をどう思ったのか、ちびは困ったように首を傾げた。
「始君。その返事では何かあると言っているようなものですよ? 本当に大丈夫ですか」
ちびの手に持ったボトルがちゃぷんと水音を立てる。
「よかったら、ちょっと話してみませんか。僕はいわば、君の助手なんですから、何でも相談してください。話すだけで楽になりますから。ね?」
ちびはふわっと笑った。
心配していても、顔に不安を出さない。たぶんそれも心遣いなんだろう。
殺気には鈍いが、他人の気を掴むのはうまい。
しかし、もし俺たちがまさに今、誰かに狙われていると打ち明けたら……この笑顔はどう変わるのだろうか。
恐怖に歪むのか、冷静に澄ましてみせるのか。はたまた、焦りにひきつった顔になるのか。
想像するだけで悪趣味なことだ。実行に移したくはない。
だが、そうも言っていられなかった。
口を開きかけた、その時。
来た道から、低いエンジン音が響いてきた。
瞬間、ゾッとしない想像が頭を巡った。背筋が総毛立つ。
すかさず、ちびを後ろに庇い、近づいてくるエンジン音のする道先を睨みつけた。
馬鹿なことにバイクを使った強襲の可能性を、失念していた。
ちびは、突然の俺の挙動に心底驚いたらしい。
ハッと息を呑んだきり、微かな息遣いさえ聞こえてこなかった。
いつでも動けるように足の筋肉に力を溜める。ヘッドライトの強い光が、網膜に焼き付いた。
――――――様子がおかしい。
「珍しい組み合わせだな、お前ら」
「国津先生……?」
予想すらしていない人物だった。
ヘルメットを煩わしそうに脱いだ、壮年の男。
黒い短髪と野生味のある黒い目が、見る者にやけに強い印象を残す。
名を国津正彦という。
柄守高校、日本史の先生だった。
「……驚かさないでください。知らないバイクが急に止まるから、何かと思いましたよ」
そっと強張った力を抜いて、緊張を解いた。少なくとも、この人は俺達に危害を加えないはずだ。
「悪かったな。こんな遅くにウチの生徒が連れ立って歩いてたら、真面目なセンセイとしては小言の一つも言わなきゃマズイんだよ」
教育委員会にチクられたら面倒だし、と悪びれもなく言ってしまえるあたり、この人もなかなか外れている人だと思う。
親しい先生の登場に、ちびがそっと俺の後ろから顔をのぞかせた。
国津先生はちびと俺を見比べて、面白そうにニヤニヤと笑った。
「それにしても、朝島と椎名か。学校でも大して接点ないだろうに、お前ら付き合ってるのか?」
「ち、違います! もう、なに言い出すんですか。先生」
ちびが、顔を赤くして慌てて否定する。手をぱたぱた振って、大げさなくらい必死に。
一拍遅れて俺も首を振った。
「……ええ。そんなんじゃありませんよ」
ちびのリアクションで、国津先生は俺たちの関係を完全に誤解したらしい。
俺のつれない応え(いら)を聞いても、国津先生はからかう様に笑うだけだった。照れ隠しと思ったのかもしれない。
先生には悪いが答えが遅れたのは、そんなかわいらしい理由ではなかった。
しいな――――椎名紬。
先生の口から聞いたとき、一瞬誰のことかと考えた。そして、それがちびの名前だと思い出した。
普段からクラス中で、ちびと呼んでいるから本名の馴染みが薄くなっていたのだろうか。
いいや、それも言い訳に過ぎない。
あだ名で呼び合うクラスでも、ちびの本名を本気で忘れていた奴なんて、俺くらいだろう。ましてや先生が言うように、もし本当に俺とちびが付き合っていたとしたら、名前を忘れるなんてあるわけがない。
ちびは自分のことを俺の助手とまで言ってくれたのに、つくづく俺はどうしようもない薄情ものだった。
そんなだから、不人情だとわかっても約束破りを自分に許してしまう。
「丁度良かった。国津先生、こいつを家まで送ってくれませんか?」
まだ、目を白黒させているちびの頭に手をおいて、事も無げに頼む。
「は、始君!?」
予想もしない言葉に驚いて、ちびは頭の手を慌てて外して反論しようとする。
聞くまでもなく、教室で俺がちびを家まで送ると約束した、そのことを言い出すのはわかっている。
俺は、それを更に封じ込めるように、今度はちびの肩を掴んで先生の前にそっと押し出した。
「これだけ遅くなると、俺もちびの親御さんに怒られそうで、嫌なんですよ。先生ならちびも言い訳しやすいし、親御さんも安心でしょう。お願いします」
ちびは硬直した。俺を見上げる目が、信じられないと言いたげに見開かれる。
台詞の前半は、教室で俺が送っていくと言い出した時、ちびが遠慮で言い出した言い分だ。
俺はあのとき、ちびに怒られるのは怖くないとうそぶいて見せた。
つまり、30分もたたずに、真逆のことを言っていることになる。混乱して当然だ。
ちびの見上げた俺は、笑みを浮かべているはずだ。
作った笑顔は何かをごまかす時に使われる、空々しい笑顔。
案の定、国津先生はいぶかしげに眉をしかめた。
それくらい、仮に恋人同士ならあり得ない言動だった。
「自分が送っていくって決めたなら、最後まで面倒見ろ。男だろ?」
「俺は草食系ってヤツです。男だからって怒られるのは嫌ですし」
抜け抜けと言う俺の態度に、国津先生は眉尻を吊り上げる。
先生は俺の目を見て本心を確かめようとしていたが、俺はまっすぐ受け止めて視線すら動かさなかった。
本気でフザケタことを抜かしている、先生がそう判断するのに時間はかからない。
先生は口を開いて何かを言いかけたが、結局首を振ってため息を吐いた。
反論するのも馬鹿らしいと考えたらしい。
先生は、かぶっていたヘルメットをポンとちびに渡し、バイク側面のパニアケースから予備のヘルメットを取り出した。
明るい色の割にガッチリとしたデザインのフルフェイスだった。
「ったく、まさかこんなところで役に立つとは……。あいつの忘れ癖に感謝だな」
ため息つきながらぼやくと、先生は予備のヘルメットの顎紐を引っ張りながら、ちびの頭にすっぽりそれを被せる。
何度かをずらすと、ヘルメットはちびの頭に完全にフィットした。
「よし、合った。ちいせぇ頭でよかったな。痛くはないか? ……そうか、なら後ろに乗れ。とっとと帰るぞ」
先生は俺のほうに一瞥もよこさず、ちびを急かす。
自身もヘルメットを装着した。
俺を残して帰ることにためらいはないようだった。
いないもののように扱われるのは、慣れている。
しかし、国津先生相手だと勝手が違った。自分を憎まない人にそういう態度を取られるのは身の置き場がなく、かすかに胸が痛んだ。
自分でそう仕向けたくせに、自分勝手な話だ。
「え、え? 先生、始君は……?」
戸惑った声が、虚しく夜道に響く。
困惑したちびの視線が、俺とバイクに跨る先生の間をせわしなく往復していた。
「ほっとけ。ついでに朝島に関わるのはこれっきりにしろ」
にべもないが、それがちびを思ってのことだと分かる。
俺が先生の立場でも、女の子を責任もって送れない男は切るべきだというだろう。
手厳しい批判を聞いても、反論すらしない俺を先生は苦々しげに睨んだ。
「少しは反発しろ。俺も、さすがにそこまでお前の性根が腐ってるとは思いたくない」
「ご期待に添えなくて、申し訳ない。自分でも情けなくなりますが、俺はこんなヤツです」
打つ手なし。先生は今度こそ侮蔑の視線を隠さなかった。
「始君……」
ちびは途方に暮れて俺を見上げたが、どうしても俺が動こうとしなかったのでついには諦めた。
それでも、何度も振り返って俺の意思を確かめようとする。バイクに乗り込んでもその視線は俺から外れなかった。
いたたまれないほどの健気さだ。最後通牒の挨拶も気が引けて仕方ない。
「ゴメンな、ちび。また明日」
うそ寒くなるほど白々しいサヨウナラ。
約束破った上に、こんな抜け抜けと別れの挨拶なんて……ぶん殴られてもしょうがない。
俺はことさら笑顔を作って、気をつけてと心配してみせた。
先生がバイクにエンジンを掛ける。低く唸るような響きが、耳に染みこんだ。
ちびは、国津先生の腰に腕を回してしがみつく。
こうなるともう、お互い視界に入らない。
先生はごくそっけなく、手を上げて挨拶するとそのままバイクを発進させた。