第1話は、あるお爺さんの一生。
宜しくお願いします。
「爺さん、危ない!」
そんな声が頭上から聞こえた。上を見ると、迫り来る拳大の金属が……。
自分の身から聞こえたらいけないだろう何か嫌な音が聞こえた。私の意識があったのはそこまでだった。
■ ■ ■ ■ ■
私が目を覚ますと、真っ白な空間にいた。
私は、あの時に死んだのではないか?という疑問と。
今、私のいるこの白い空間は一体なんだ?
という疑問が私の中で湧いた。
ただ、この空間に居ると何故か落ち着いた気分になる。
本当ならパニックに陥ってもおかしくない状況なのに、そのような昂揚感は一切湧かない。
夢にいるような感じと同じなのかな?と冷静に自己分析をしたりしている。
・
・
・
・
・
それから、しばらく時間が経った気がした。
正直、この白い空間にいると、時間の流れがわからない。
特に何もやる事がなかったら、自分の半生を振り返っていた。
振り返ったというより、走馬灯のように頭に浮かんできた。
■ ■ ■ ■ ■
私が生まれたのは戦争の終わる三年前だった。
物心がついた時には、戦争が終わり、皆貧しさの中にいた。
父は、戦争で私の生まれる少し前に亡くなったと母から聞いた。
そのような訳で、私もまた貧しい生活を送っていた。
小さい頃は、常にお腹を空かせていた。
将来は、お腹いっぱいにご飯を食べれる生活を送りたいと願っていた。
十五歳くらいになると、段々と街が復興してきた。
私も当時、街が早く復興するように必死に働いた。
父が戦争で亡くなっていたので、私も母も必死で働いた。
私の働き場所は、家から少し離れた小さな町工場で、ネジなどの部品を朝から晩まで作っていた。
休みなど半月に一回取れたら良い方だった。
日々仕事に追われていた。
母が亡くなったのもその時だ。
この人は、というのも他人行儀だが、あえて言わせて貰うと、常に前を向いて生きていた人だった。
戦争で全てを無くした筈だが『私には息子がいる』と言って常に笑顔でいてくれた。
お陰で私は、寂しい思いもせずに生きてこれた。
でも、あまりにも早く亡くなってしまったせいで、私は親孝行が出来なかった。
それだけが悔いが残る。
そして、私は子どもが出来たら、母が私にしたように振る舞いたいと心から思った。
二十代半ばになると、お見合いの話が出てきた。
お相手は、取引先の会社で事務をしていた女性だった。
地味な感じの女性だったが、優しい雰囲気に惹かれ結婚した。
結婚生活は、とても順調で幸せだった。
子宝にも恵まれ、一男一女を持つことが出来た。
裕福ではなかったが、いつも笑い声のある家庭だった。
四十代になると、街は戦争の爪跡すら感じさせないくらいに復興した。
街は活気に満ち溢れ、仕事も普通に考えたら前以上に忙しくなる筈だったが、私は家庭を優先した為、大して忙しくならなかった。
お陰で、子ども達も伸び伸びと素直に成長した。
まあ、そのせいであまり裕福ではなかったが。
五十代に差し掛かると、めざましく成長していた経済にも翳りが見えてきた。
所謂、不況の波が押し寄せてきたという訳だ。
幸いにして、町工場は潰れなかったが、給料は一番稼いでいたときの2/3くらいになってしまった。
息子や娘は、幸いにして国立大に特別入学したのでお金がかからなくて助かった。
息子と娘はその後、医者になった。
『鳶が鷹を生んだ』と周りからは、羨ましがられたものだ。
幸い、仕事は減ったが無事に定年まで働く事が出来た。
家内や子ども達も健康で言う事がない。
子ども達も少し前に結婚して、三人の孫までいる。
仕事で忙しい子ども達の為に孫をよく預かっている。
その孫達も自分や家内にとても懐いて目に入れてもいたくない程だ。
七十代になっても、私や家内も大きな病気をせずに健康で暮らしていた。
孫達もすくすくと成長して、来年は国立の大学を受験すると話していた。
孫達は、休日の度に遊びに来て、色々手伝ってくれる。
庭の草むしりや買い物など、とても有り難いことだ。
一度、気を遣わなくてもいいぞと言ったが、自分達は両親にも感謝しているが、小さい頃からずっと一緒に居てくれた祖父や祖母にとても感謝しているので、少しでも恩返しがしたいと泣けるような事を言ってくれた。
■ ■ ■ ■ ■
そう私は、幸せだった。
家内も私も大きな病気もせずに元気に、この歳まで過ごせてこれた。
医者になった子ども達には、会う度に一緒に暮らさないかと言われ、生活の足しにしてくれと少なからずのお金を毎月入れてくれている。
こちらの入れてくれたお金は、孫の為に貯金をしている。
孫達も、いつもお手伝いに来てくれて寂しい思いなどした事がない。
最後は、看取って貰う事が出来なかったが、悔いのない人生だった。
お読み頂きありがとうございます。
次話は、4/29 12時予定です。