トイレ~paper only knows~
描写が苦手なら描写を無くせばいいじゃない(暴論)
「急げっ!漏れるっ!」
俺は慌てて公衆トイレの個室に駆け込んだ。
扉を閉めて鍵をかけ、ズボンを下ろす。
「ふぅ…間一髪だった」
俺は額に浮かんでいた汗を拭い、ゆったりと便座に座り込む。
「ここのトイレ、なかなか清潔だな」
思わず独り言を呟いてしまう。
しかしそれ程、トイレにしては清潔だと思ったのだ。
床のタイルは一枚一枚がピカピカに磨き上げられており、便器の隅にカビは全く存在せず、もしかして新品なのでは?とすら思ってしまう。
空気は爽やかなミントの香りで、アンモニアの臭いは全くしない。
むしろトイレの外の方が汚いと感じてしまうほどの異常な清潔さだ。
「さて、用も足したことだし…」
そう言って俺はトイレットペーパーに手を伸ばし…
伸ばし…
「…無い」
紙巻器には、トイレットペーパーが設置されていなかった。
あえてもう一度言おう
紙巻器には、トイレットペーパーが設置されていなかった。
分かり易く言い換えてみよう
紙が無い
「ペ、紙ァァァァァァ!?」
何とも不運なことに、清潔感に満ちたこの個室には、あろうことかトイレにおいて最も大切な存在である紙が設置されていなかった。
「どこかっ!どこかに紙はっ!?」
慌てて個室の中を見回すが、どこにも紙は置いていなかった。
「嘘…だろ…?」
紙が無ければ、俺はトイレから出ることは出来ないではないか。
必死に紙の代わりになりそうなものを探すが、使えそうなものは一つとして持っていなかった。
俺が絶望に打ちひしがれていたその時、右隣の個室から声がかかる。
「どうしたんだい?」
どうやら先客がいたらしい。
俺は絶望的な状況から、一筋の光明が差したことを喜んだ。
まさしく地獄に下ろされた一本の蜘蛛の糸。
俺は隣の人に声をかけた。
「紙が無いんですっ!お願いします!そちらの紙をくれませんか?」
必死に紙をくれるように懇願すると、隣の人はこう言った。
「なるほど、キミは、このトイレの噂は知らないのか?」
突然そんなことを聞かれる。
「え?はい、知りませんけど…」
「そうか、それは災難だったな。これはかなり有名な話なんだが、このトイレの個室の紙はしばしば誰かによって抜き取られていてね、紙が無いことが多いんだ。以後、気を付けるといいよ」
「そうだったんですか。だから紙が…」
もしそうならば、その犯人を俺は一生恨むことになりそうだ。
「あの…とりあえず、紙をくれませんか…?」
「キミは人の話を聞いていたのかい?」
少しばかり呆れの感情が混じった声音で、彼はそう言った。
そして続けざまにこう呟いた。
「ホント、災難だよ」
「?」
まさか…
「ああ、こちらも無いんだ」
「…」
最悪だ、まさかそう来るとは思わなかった。
俺は再び失意の底に沈み、頭を抱える。
「だが、希望はある」
「え?」
突然そんなことを言われ、俺は驚かずにはいられなかった。
トイレに紙が無い
そんな絶望的な状況に置かれてなお、彼は全く希望を失ってはいなかったからだ。
「希望はあるって、一体どういうことですか?えっと…」
「僕の名前は五十嵐和也だ。五十嵐と呼んでくれ、ついでにキミの名前も教えてくれるかな?」
「田中です。それで、希望というのは?」
俺は期待と疑惑の感情を込めて尋ねる。
この状況を打破する方法があるのならば、ぜひ聞いておきたいところだ。
本当にそんなモノがあるのならば、の話だが。
「僕は、このトイレに入った時に、入り口付近にトイレットペーパーが置かれているのを見てね」
「!」
なるほど、まさかそんなに近くに紙があったとは。
五十嵐さんの観察能力には驚きを隠せない。
しかし…
「つまり、個室から出れば紙は手に入るということだ」
「…それは無理ですね」
「…なんだって?」
五十嵐さんが自信満々に発言したところで、、俺はその提案を即座に否定する。
なぜならば…
「尻を拭かずに個室から出るなんて、出来るわけないじゃないですか」
個室から出れば尻を拭けるが、
個室から出るには、尻を拭く必要がある。
そして俺たちは現状、尻を拭くことができない。
明らかに五十嵐さんの提案は矛盾していた。
「あ…」
五十嵐さんも自分の矛盾に気づいたようだ。
「やはり…無理なのか」
意気消沈
「ちなみに、いつからこのトイレにいるんですか?」
少し興味が湧いたので聞いてみる。
「そんなに気になるかい?」
「ええ、まあ」
まあ、大して長くは無いだろう。
「十時間だ」
「長すぎるわっ!」
「まさか、このまま一生ここで過ごすことになるのかな?死に場所がトイレの個室なんて流石に嫌だな」
「話が極端すぎるでしょう!?大丈夫です、次にこのトイレに用を足しに来た人に、紙をくれるように頼めばいいんですよ」
「なるほど、その手があったか」
そうと決まれば、あとは持久戦あるのみ。
通りすがりの援軍が来るまでここで待ち続ければ…
「それも無理でしょうね」
その時、、五十嵐さんの反対、つまり左側の個室から声が響いた。
「うん?誰だいキミは?」
五十嵐さんがやや不思議そうな口調で話しかける。
左側にも誰かいたのか。
「あら?私としたことがとんだ失礼を。名前も名乗らずに他人の会話に割り込むなんて、私のような礼儀正しい淑女のすることでは無かったわね。謝るわ、ごめんなさい。そして名乗らせてもらうわ、私の名前は安藤恵というの。以後、お見知りおきを」
「ああよろしく。それよりも、どういうことだい?」
「何の事かしら?」
「何の事も何も、誰かが来るまで待つという作戦のことだ。無理とはどういう意味だい?」
「あら?そんなことも知らないの?『無理』というのは、『実現するのがむずかしいさま』を表す言葉の事よ。そんな常識的なことも知らないなんて、あなたは本当に無知な人ね、田中君」
「なんで俺っ!?」
「『ここの公衆トイレは何者かによって紙を抜き取られている』という噂は、有名なのでしょう?そんな噂が広まっているのなら、この公衆トイレに来る人なんて田中君のような間抜けしかいないわ」
「なるほど、田中のような間抜けはそうは居ないだろうな。ならば無理か」
「無理じゃねえよ!?」
なんでそこまで俺をコケにする必要があるんだ!
というか、それよりも…
「恵さん、一つ聞いていいですか?」
「ダメよ、それ以上その臭い口を開かないで頂戴。さっきからあなたの口から排泄物のような臭いが漂ってきているのよ」
「それ絶対俺の口から出てる臭いじゃないっ!」
「冗談よ。真面目に受け取らないでくれるかしら?冗談の通じない人は嫌いよ?」
「…声音が本気だったのは置いといて、一つ質問していいですか?」
「何かしら?」
「安藤さん、女性ですよね?」
「あら、あなたは人の性別をいちいち確認しなければ判別する事すらできないのかしら?私はどう見たって女よ」
どう見たって、と言われても、そもそも壁に阻まれて安藤さんの姿は見えないのだが…
今までパニックに陥っていて見逃していたが、どう考えたっておかしい点がある
「なんで女の人が男子トイレにいるんですか!?」
「あら?もしかして田中君は、『女の子はトイレで〇〇〇をしない』とか勝手に思いこんでいたりするのかしら?甘い幻想は捨てなさい、気持ち悪いわよ」
「そう言う意味では無くてねっ!?」
「女子トイレは全部故障中で、残っていたのは男子トイレの個室だけだったのよ。それとも、私に野外で用を足せとでも言うのかしら?嫁入り前の女の子に、なんてことを強要させるの?本当に田中君は下劣で最低な男ね、死ねばいいのに」
「そこまで言ってねぇ!?」
「田中君、君がそんな奴だとは思わなかったよ。失望した」
「俺を罵倒してそんなに楽しいかアンタらっ!?」
「叫ばないでくれるかしら?耳に響くわ。そんなことだからあだ名がナメクジなのよ」
「そんなあだ名は付けられた覚えが無いんですがっ!?」
「いい加減落ち着きなよ、ナメク…田中君」
「なんで!今!言い直した!?」
「まあまあ、落ち着きなよ。カルシウムと塩分が足りてないんじゃないかい?ナメクジ君」
「…暗に『ナメクジと呼んでください』って言ってるわけじゃねえよ!?」
「悪い悪い、ちょっと間違えただけだよ、田中君」
「ルビが間違ってる!」
「いい加減にしなさい田中…ナメクジ君。話を脱線させないで」
「田中であってるよ!ナメクジって言い直さなくてもいいよ!」
「あれ?ナメクジが本名じゃなかったっけ?」
「違うよっ!?勝手に人の名前を『ナメクジ』に差し替えないで!?」
「ナメクジのくだりはもういいわ、いい加減、本題に入るわよナメクジ君」
「結局ナメクジに落ち着くの!?」
「私はこの個室に閉じ込められて三十時間が経ってるけど」
「三十時間っ!?」
「私の話の途中に割り込んでくるなんて、タナメクジ君は本当に最低な男ね。塩を全身から浴びて死ねばいいのに」
「タナカとナメクジを融合された!?」
「私の知る限り、ここに入ってきたのは五十嵐君と田中君だけ。時刻的にもこれから夜になるから、助けが来るとすれば少なくとも十時間以上は後でしょうね」
「十時間もっ!?…というかやっと田中って呼んでもらえた!」
「あら、田中なんて蔑称で呼ぶのは失礼だったわね。さすがに言い過ぎたわ、ごめんなさい、ナメクジ君」
「田中は蔑称じゃないっ!謝れっ!全国の田中さんに謝れっ!」
「流石にこれ以上トイレにいるわけにもいかないね。僕にも予定があるしね」
「だから、こんな打開策を考え付いたのだけれど」
「うん?何か手があるのかい?」
「手は無いけど、カミならあるわ」
「紙を持ってるんですかっ!?」
それならば、ここからの脱出は容易だ。
もし誰か一人でもトイレの個室から出ることが出来れば、あとは入り口の紙を回収し、残された二人に譲渡、晴れて全員脱出できるというワケだ。
恵さんが紙を持っているのなら、それで尻を拭き脱出。
そして、俺たちを救出してもらうのだ。
「ところで話は変わるのだけど、私の自慢は腰まで届く長さの長い髪なの。自分で言うのもなんだけど、サラサラの美しい髪よ」
「?…それがどうかしたんですか?」
「つまり、紙は無いけど髪はあるのよ」
「ダジャレかいっ!?」
「違うわ、この髪で尻を拭くのよ」
「自慢の髪という設定は!?」
「髪なんかで尻が拭けるとは思えないね」
「確かに、なら無理ね」
「『可能・不可能』ではなく、『汚い・汚くない』で判断してください!」
「自慢なんてクソ食らえ…ってところかしら?」
「文字通りっ!?」
「ならば服を破ってそれで尻を拭くというのはどうだい?」
「無理ね、私は全裸なのよ?」
「全裸!?」
「……冗談よ。真面目に受け取らないでくれるかしら?冗談の通じない人は嫌いよ?」
「今の微妙な間はなにっ!?」
「まさか私の裸体を想像して興奮しているの?妄想の中で私の体を好き放題に凌辱しているのね。なんて気持ち悪い男かしら、便器に頭を突っ込んで溺死すればいいのに」
「田中君、実は僕も全裸だ」
「ツッコミが追いつかねぇ!」
俺はそう叫んで、ハァと深く溜息をついた。さっきからツッコミばかりしていたため、流石に疲れたのだ。
「どうしたんだい田中君?溜息をつくと幸せが逃げるんだよ?」
「なやみくらいは聞いてあげるわよ?
めんどう事でなければの話だけどね
くるしみは他人と分かちあった方がずっと楽だしね
じぶん一人で何でも抱え込まないようにしなさい」
「安藤さん…意外と優しいんですね」
「縦読みして見なさい」
「?」
・
・
・
俺は待ち続けた。ただひたすらに、誰かがこのトイレに来ることを祈り続けた。
もしこの世に神が居るとするならば、俺に紙を与えて欲しい。
しかし、俺の切実な願いも天に届かず、ただ時間が流れ続けるばかりだ。
次第に体感時間が狂い始め、どれだけの時間が経過しているのかすら解らなくなった。
閉鎖空間に閉じ込められているというストレスと、堪えようの無い空腹に、俺は次第にやつれていく。
風邪をひいた時のように、体を凄まじい倦怠感が蝕んでいく。疲労はとうに限界に達していた。
意識が混濁しており、朦朧状態に陥っていた。
そのまま深い眠りに就きそうになるが、頭を振って眠気を払う。
自分が寝ている間に誰かが来るかもしれないのだ。助けを求めるためにも、眠るわけにはいかない。
眠気を吹き飛ばすために、せめて誰かと話をしようと口を開こうとする。
しかし、その小さな動作すらままならない事に歯噛みし、頬の肉を内側から強く噛む。
口内に血の味が広がり、麻痺していた神経が痛みを脳に伝える。
それによって脳は活動を再開し、僅かながらも意識を取り戻した。
ゆっくりと口を開き、声を出そうとするが、しかし今度は掠れた声しか出ない。
喉が乾燥していた事に気づき、唾液と血液をゴクリと飲み込んで、喉を湿らせる。
「い…がら…し…さん?」
右側の壁に向かって話しかけるが、其処に居るはずの男は何も返事をしなかった。自分が来た時には既に十時間もここに居たのだ。疲労は既に限界を超えているのだろう。
まさか死んでいるのでは?
最悪の考えが脳をよぎるが、そんな筈はないと必死に自分に言い聞かせる。
「あん…ど…うさん?」
左側にも声をかけるが、やはり返事は無い。かなり前から安藤さんとも一言も口をきいていない。
いざとなると、彼女のあの辛辣な言葉すら恋しく感じてしまうのだ。それほど迄に、誰とも話していない。
よろよろと立ち上がり、残った体力を振り絞って叫ぶ。
「誰かぁ!誰か助けてください!紙を!紙を恵んでください!」
必死に叫ぶが、誰かが来る様子は無い。
それでも俺は叫び続けた。息の続く限り叫び、息が途切れれば呼吸を整えて再び叫ぶ。
叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ……
・
・
・
田中は気付かない。
ウォシュレット機能の存在に。
五十嵐と安藤はそれに気付き、既にトイレから去っている事に。
自分の叫び声を恐がって、誰もその公衆トイレに入ろうとしない事に。
・
・
・
『トイレから響く叫び声』は、いつの日か都市伝説となった。
何故そのような都市伝説が生まれたのかはネットでも議論が交わされ、様々な仮説が生まれた。
しかし、その真相を知っているのはその場に居た三人だけ。
そして、田中がその後どうなったのかは
紙のみぞ知る