その願いは戯れに
獣も入らぬ深い森
ぽっかりあいた場所には教会
願いをかなえる鐘が鳴る
願う者だけ聞ける音
願う者だけ行ける場所
***
とある村の東の森の奥深く、唯一日の射す場所に一つの教会。礼拝する人など見受けられないこの場所でも朽ちることなく佇んでいる。
その教会の中に少女が一人。
少女の手は己が願いを願うように組まれ、少女の口からはその願いが紡がれる。
「神様、お願いです。私の願いを叶えてください。おかあさんの病気を治してください」
少女の声は空気に溶け込み、誰に届かず、消えていく。
ここには少女の他には誰もおらず、少女が口を噤んだ今、ただ静寂が流れるのみ。
……ゴーン……
不意に響き渡る鐘の音。少女は突然の出来事に耳を疑う。そして、誰もいないはずの空間からその耳にありえない声が入ってくる。
「どうしたんだい、お嬢さん」
見渡しても辺りは無人。周りに響く声は軽薄だが、なぜか引き込まれる。声にこまれる存在感がこの世ならざるものの感じを漂わせる。これが神様だろうか、と少女はなんとなくそう思った。
「まぁ、話はさっきから聞いていたから知っているのだが……」
声の主は微笑を漂わせ、
「君の願いを聞き入れよう。しかし、君の大切な物と引き換えだ。それでもいいかい?」
突然の願いの成就。数秒の沈黙は途惑いか、それとも驚きによるものなのか。この問いに対して少女は、こくんと一度だけ頷いた。
「心得た。」
それだけを告げて、沈黙が流れること数十秒。何も起こらないことにか、それとも沈黙に耐えかねてか、少女は姿の見えぬ声の主に話しかけようとしたとき……
「さて、これで君のおかあさんとやらが病気に苦しむことはもうないだろう」
見計らったように応える声。その言葉を聞いた少女は、ぺこりとお辞儀をして教会を後にした。「大丈夫」と言われたからにはもうここにいる意味はない。少女が立ち去り、教会の扉が閉まる瞬間、
――――――さようなら――――――
という声が聞こえたような気がした。
***
少女は逸る気持ちを抑え、いそぎ自分の家に戻ってきた。手には森で採ってきた果物。母に渡すために持ってきたのだろう。少し早歩きのまま周りには目もくれず、少女は自分の家のドアを開けた。
開いたドアの入り口から居間までは無人。寝込んでいた期間が長かったからさすがに治ってすぐには動けないよね、と大きく膨らませすぎた期待を抑え、少女は母の寝室へと向かう。
その前に果物はテーブルの上に置いておかなければ……
抑え込んでいた期待感と少しの不安を抱えつつ、寝室の扉を開ける。
「おかあさん、ただい―――」
しかし、この部屋に母の姿は何処にも見当たらなかった。布団には一切の乱れがなく、まるで整えられた後のよう。少女は元気になって外に出かけたのか、入れ違いになってしまったのだろうと思い、椅子に座ってしばらく待ってみることにした。
しかし“待つ”という行為は人を不安にさせるものなのだろうか。数分と経たず、少女は外に出た。村はいつも通り。辺りを見渡してもやはり見つけることはできなかった。いつも通うパン屋のおばさん、まだまだ元気な羊飼いのおじいさん、村の色々な人に聞いてみても誰も見ていないようで、皆口をそろえて
「お母さんはもう動いても大丈夫なのかい?」
と聞いてくるだけだった。
***
少女は一人、家に戻ってきた。住み慣れた我が家は先ほどとは全く変わらず、見慣れた景色を少女にうつし続けている。そのまま真っ直ぐに母がいたベットへと向かった。ベットに座り、母が眠っていたであろう場所に指を這わせた――――――
気がつけば、外は真っ暗。月の明かりと星々の輝きが辺りを照らすのみ。少しウトウトとしてしまっていたようだ。虚ろな頭でそれまでの記憶を辿る。思い出すまで数秒、思い出して一瞬。少女は部屋を飛び出した。居間のテーブルには少女が採ってきた果物が変わらず置いてあった。少女はまた村へと続くドアを開けた。
外は無人。全ての生き物が眠りについている最中、少女はひとり歩き続ける。どれだけ歩いたのだろうか。気づけば村を抜け、あの教会のある森へと続く道の上に立っていた。森は深く、一寸先は何も見えない暗闇であった。入り口で立ち止まること数秒。願いの真意を問いただしに行くのか、それとももう一度願おうと思ったのか……少女は森の中へと入っていった。
***
ここはとある地方のとある村。遥か西方には深い森。
どこにでもありそうなその景色の中で戯れている子どもたちの歌が聞こえる。
獣も入らぬ迷い森
ぽっかりあいた場所には台座
甘言誘う声が響く
惑う者にだけ語る声
惑う者だけ連れる場所
了