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善意の超越

作者: vurebis
掲載日:2026/02/03

 皆さんは、気分の良い日は何をしますか?

 映画を見る? 遠くまで出かける?

 きっと十人十色の過ごし方があると思います。

 僕は気分が良いと散歩をします。

 晴れやかな気分で歩く街は、いつもより輝いて見えて、それでいて心なしか空気も美味しく感じます。

 胸のあたりがふわっと軽くなって、世界の輪郭が柔らかく見えるんです。

 この世界に不幸な人なんて一人もいない。

 そんな気さえしてきます。


 散歩の途中、小さな音や匂いと出会いますが、その全部が僕を歓迎してくれているように感じます。

 人の話し声、車が通りすぎる風、どこかの家から漂う夕飯の匂い──

 そのどれもが僕を包み込んでくれる気がするんです。

 それに、歩いていると、不思議と視線を感じる瞬間があるんですよ。

 あ、別に気味が悪いとかじゃありません。

 むしろ嬉しいんです。

 ああ、ちゃんと僕を見てくれているんだ。

 そう思うと、胸が温かくなる。

 人って、誰かに見てもらうだけで背筋が伸びるでしょう?

 僕はその感覚が昔から好きなんです。

 いや……正確に言うと、好きになった。ですね。

 散歩をするようになってからです。

 この見られている感じが、心の奥にじんわり染み込んでいって……

 今では、それがないと落ち着かないほどなんですけど。

 散歩をしていると、どうしてあんなにも視線が心地いいのか。

 考えてみれば、不思議な話ですよね。

 普通なら、見られているなんて落ち着かないものなのに。

 でも僕は、昔からそうでした。

 誰かの視線があると、背中が少しだけまっすぐになる。

 呼吸が深くなる。

 ちゃんと地面に立っている、そんな感覚がするんです。

 逆に、誰にも見られていないときは、どうしても不安になる。

 部屋に一人でいるとき。

 街の中で、誰とも目が合わないまま歩いているとき。

 自分の輪郭が、少しずつ薄れていく気がするんです。

 声を出しても、誰にも届かなそうで。

 ああ、僕は今、本当にここにいるんだろうかって。自信が持てなくなる。

 学校でも、職場でも、僕は決して目立つ方じゃなかった。

 何かをしても、周囲の反応は「ああ、そうなんだ」で終わる。

 褒められることも、叱られることもない。

 ただ、そこにいるだけの人間。

 透明、という言葉がぴったりでした。

 僕の毎日はとても静かで、穏やかで……

 でも、どうしようもなく怖かった。

 だからでしょうね。

 散歩をするようになって、街の中で視線を感じたとき、

 胸の奥で、何かが初めて息をした気がしたんです。

 ああ、見えている。

 僕は今、誰かの世界の中にいる。

 それだけで、救われた気がしました。

 特別な言葉なんて要らない。

 名前を呼ばれなくてもいい。

 ただ、視線が一瞬触れるだけでいい。

 それだけで、今日の僕は存在している。

 だから、気づいたんです。

 見られるためには、理由が必要だと。

 何もしていない人間は、やっぱり見てもらえない。

 でも、良いことをしている人間なら。

 誰かの視界に、ちゃんと映る。

 それが、僕が散歩の日に、必ず良いことをする理由です。


 今日は道端に落ちていた吸い殻を拾って、公園のゴミ箱に入れました。

 昨日は道に迷っている人を助けました。

 ほんの、なんでもないことです。

 でもね、こんな些細な行動でも、どこかで誰かが見ていると思うんですよ。

 そして、僕の行動を見てきっと良い気分になってくれている。

 だって昨日、道案内をした時、僕の前を通った人が僕を見ていましたから。

 きっと、優しい僕を見て、穏やかな気持ちになったはずなんです。

 ああいう瞬間、胸がぽっと熱くなって……。

 その余韻だけで、次の日も良い気分で迎えられるんです。

 まるで、良い行いが身体の奥に灯りをつけてくれるみたいで。

 だから僕は、いつも良い気分です。だからいつも散歩が出来ます。

 そして、一日一善を欠かしません。

 良いことって、誰にでもできるじゃないですか。

 拾う、助ける、譲る。

 ほんのちょっとの手間で、誰かの気持ちを軽くできる。

 その軽さが想像できるだけで、僕の心は澄んでいくんで

 それに、誰か見ているはずですから。

 良い行いって届けるものじゃなくて、見てもらうものだと僕は思っています。

 なんというか……僕が良い人だって、誰かに知ってもらいたいんです。

 だって、もし誰にも気づかれなかったら、今日の僕には、何の意味もないでしょう?

 僕が拾った吸い殻も、助けた人も、

 僕が世界に残した何かも。

 誰にも届かないなら、それは……なかったことになってしまう。

 それが、どうしようもなく怖いんです。

 世界にとって、僕がいないのと同じでしょう?

 だから……だから僕は、良いことをするんです。

 ちゃんと、誰かに気づいてもらえるように。

 僕が、ここにいることを……誰かが見てくれるように。

 良い行いって、幸せのおすそ分けです。

 でもそれは、同時に……僕の存在証明なんです。

 今日も誰かが、僕を見てくれていますよね?

 僕は今日も世界に、少しだけ良い痕跡を残します。

 あなたも……見てくれていますよね?


 散歩を習慣にしてからというもの、朝の空気の質が違って感じられるようになりました。

 ひんやりしているのに、どこか温かい。

 まるで僕を歓迎してくれているみたいです。

 だから最近は、以前より少し早起きをするようになりました。

 一日を気持ちよく始めたいじゃないですか。

 でも。ある時から気づいたんです。

 僕を見てくれる誰かは、どうやら気分が乗らないと姿を見せてくれない。

 ほら、たまにあるでしょう?

 すごくいい行いをしたはずなのに、誰にも認識されない瞬間。

 誰も見ていない道端で落とし物を拾っても、褒めてくれる人はいない。

 花壇のゴミを拾ったって、誰も気づかない。

 そうなると、何というか……

 胸の奥にぽっかり穴が開いたみたいで、せっかく綺麗だった空が急に濁って見える。

 これは困ったことだと思いました。

 だって、僕の一日は見られることで完成する。

 誰かが僕の行動を肯定してくれることで、ようやく今日が始まる。

 それが無いと、僕は一日中不安になってしまうんです。

 だから、僕は考えました。

 もっと分かりやすい善行をすればいい。

 たとえば、ある朝のことです。

 通勤途中の車道脇に、風に吹かれた看板が転がっていたんです。

 危ないですよね。車が踏んだら事故になるかもしれない。

 だから僕はそれを道路の端まで運んで、安全な場所に立てかけておきました。

 見てくれた人は……いました。

 学生服の男の子が、自転車を漕ぎながらチラッと僕を見たんです。

 あの一瞬の視線だけで、一日中胸が温かかった。

 きっと「ありがとう」と言ってくれたんだと思います。

 心の中でね。


 でもその日の帰り道、看板は元の場所に戻されていました。

 せっかく僕が安全を確保しておいたのに。

 だから夕方、また直しておきました。

 僕は看板を運びながら不思議な気持ちになっていました。

 どうして戻されたんだろう。

 誰が、何を考えて?

 事故を防ぐために移動させただけです。

 通行の邪魔にもならないように、ちゃんと端に寄せた。

 それなのに、また危ない場所に戻すなんて。

 悪意があるとは思えません。

 たぶん、深く考えずに、

「邪魔だから」「元あった場所だから」

 それくらいの理由でしょう。

 でも、それが、どうしても引っかかった。

 僕はその場に立ったまま、しばらく看板を見つめていました。

 夕方の風に、看板がわずかに揺れる。

 きい、と小さな音が鳴る。

 その音が、

「まだズレている」

 と訴えているように聞こえたんです。

 正しい位置に直したはずなのに。

 それでも世界は、元に戻ろうとする。

 ああ、そうか。

 世界は正しさを嫌うんだ。

 いや、正確に言えば。

 正しさに気づくことを、避けている。

 一度直されたものを、もう一度直すのは面倒なはずなのに。

 それでももとに戻るのは、自分が間違っていたと認めることになるから。

 だから、人はズレたままの方が楽なんだ。

 僕は、ゆっくりと看板を持ち上げました。

 さっきより、少し重く感じた。

 それは物理的な重さじゃない。

 ズレた世界の抵抗です。

 だから今度は、もう戻されないようにしようと思ったんです。

 少しだけ遠くへ。

 人目につきにくい場所へ。

 危なくない位置で、ちゃんと役目を果たせる場所へ。

 看板を運びながら、胸の奥がじわじわと熱くなっていくのが分かりました。

 これは善行だ。

 誰にどう言われようと、間違いない。

 だったら、戻される方がおかしい。

 もしまた元に戻されたら?

 そんなことを考えながら僕は看板を立てかけ、一歩下がって、それを眺めました。

 うん。

 今度こそ、正しい。

 その瞬間、

 どこかの窓から、

 誰かの視線がこちらを向いている気がしました。

 見ている。

 ちゃんと、分かってくれている。

 胸の奥で、何かが静かに確信に変わる。

 ああ、僕は見られたいんじゃない。

 正しいことを、正しいままにしておきたいだけなんだ。

 世界がそれを邪魔するなら、また直してあげればいい。


 こうして僕はこの日二度目の善行をしたわけです。

 でも、その次の日の朝にはまた戻されていた。

 誰かが僕の行為を台無しにしている。

 善意を無駄にしている。

 まるで僕のことを軽んじているみたいで、心がざわついて、胸が詰まる。

 だから、僕は三回目の善行として、看板をもっと遠くに運びました。

 もう戻されないように、人気のない細道までね。

 ……すると、そこでようやく気づいたんです。

 ああ、僕は見られたいんじゃない。

 間違った世界を正したいんだ、と。


 正す、という言葉は、

 乱暴に聞こえるかもしれません。

 でも、よく考えてみてください。

 壊れた時計を直すのは、暴力でしょうか。

 違いますよね。

 それは、元あるべき姿に戻しているだけだ。

 人も同じです。

 間違った環境で、間違った空気を吸って、少しずつズレてしまっただけ。

 誰だって、最初から悪いわけじゃない。

 正しい位置から、ほんの数センチずれただけなんです。

 でも、その数センチが積み重なると、

 街は濁り、空気は重くなる。

 だから、正す。

 本人の気持ちを尊重する?

 それももちろん大事です。

 でも、ズレた状態で生まれた気持ちを、尊重すべきでしょうか?

 怒り、僻み、恨み。

 それらは本当に、その人の本心でしょうか。

 それとも、歪んだ世界が植えつけたノイズでしょうか。

 もしノイズなら、

 取り除いてあげるのが親切だ。

 少し痛みを伴うこともあるでしょう。

 でも、痛みは修正音みたいなものです。

 機械だって、調整するときは軋む。

 それと同じ。

 話し合いで直るなら、それが一番いい。

 でも、話し合いは往々にしてズレを長引かせる。

 互いのズレを確認し合って、

 まあ、これでいいか。と妥協してしまう。

 それでは意味がない。

 ズレはズレのまま残る。

 だから、必要なのは、迷いのない修正だ。

 誰かが嫌な顔をするかもしれない。

 怒るかもしれない。

 でも、それは一時的な反応えで、正しい位置に戻ったあとの世界は、必ず、少し静かになる。

 空気が澄み、呼吸が楽になる。

 僕は、その変化を何度も見てきた。

 だから分かる。

 正すことは、支配じゃない。

 救済だ。

 そして、それに気づいて、行動できる人間は、そう多くない。

 世界が僕を見ている理由が、

 ようやくはっきりしました。


 それにしてもこの世界には、直さなきゃいけない場所が多すぎる。

 だらしなく落ちている吸い殻。

 無責任に置き去りにされるゴミ袋。

 ぶつかっても謝らないサラリーマン。

 誰も悪気があるわけじゃない。

 ただ、ちょっとだけずれているだけなんです。

 そのズレを、僕が直す。

 僕を見てくれている誰かも、きっとそれを願っている。

 そう思うと、胸がすっと軽くなる……それどころか、むしろ跳ね上がっていくんです。

 この世界を綺麗にしているのは僕だ。

 世界が僕を必要としている。

 それがどれだけ幸福なことか。

 だからこそ、僕は行動を少しだけ増やすことにしました。

 たとえば、ゴミ袋を雑に放置する家があったんです。

 カラスに荒らされて、道が汚れてしまう。

 近所の人に迷惑がかかる。

 だから僕はその家の前で、袋を全部結び直しました。

 ぎゅっと、固く、絶対にほどけないように。

 帰り道、マンションの上階から誰かが僕を見ていました。

 カーテンの隙間から、微かにね。

 あの視線が、一日中僕の身体の中心に熱を灯してくれた。

 また別の日には、公園のベンチで声を荒げるカップルを見ました。

 険悪な空気に周囲の子どもたちが怖がっていた。

 だから僕は、そっと二人の間に割って入って、

「落ち着いた方がいいですよ」

 とだけ伝えました。

 優しく、柔らかく。

 すると二人は僕を見つめて、言葉を詰まらせた。

 僕が何かしてしまったわけじゃない。

 ただ、ちょっとだけ正しただけ。

 こういうことを重ねていくうちに、だんだん分かってきたんです。

 見ているのは誰かじゃない。

 もっと大きな……世界そのもの。

 世界は僕の行動を観察している。

 僕が正しいことをすると、空気が少し澄む。

 風が柔らかくなる。

 全部、僕への返事なんです。

 だから気づけば、僕は一日に一度の善行では満足できなくなっていました。

 一度じゃ足りない。二回でも足りない。

 世界はまだ歪んでいる。まだ求めている。

 もっと直してほしいと、僕に訴えている。

 夕暮れの街を歩きながら、僕は考えました。

 明日はもっと大きな善行をしなきゃいけない。

 世界が僕を見て、微笑んでくれるくらいの、大きなものを。

 だって僕には分かるんです。

 世界は……僕を必要としている。

 その確信が胸に広がるほど、息が吸いやすくなる。

 明日はどんな善行をしようか。

 もっと世界が喜んでくれるように。もっと正しい僕を見せてあげたい。

 僕は歩きながら、小さく呟きました。

「大丈夫。僕が全部、直してあげるから」

 その声が夜の街に溶けていった瞬間、

 街灯がゆっくりと明滅して、

 まるで無言の拍手を送っているように見えたのです。


 翌朝、目が覚めた瞬間に分かりました。

 ああ、今日は良いことが起きる、と。

 胸の奥がじん、と温かい。湯気が昇るみたいに心が軽い。

 こういう日は、何か大きな善行を求められている日です。

 外に出ると、風が少し強かった。

 けれど、嫌な風ではない。

 まるで僕を押してくれるような、背中の後ろからそっと支えてくれる風。

 世界が僕に「行け」と言っているみたいで、思わず笑ってしまう。

 朝の散歩コースを歩いていると、町内の掲示板に貼られたポスターが目に入った。

「迷惑駐輪禁止」

「ゴミは決められた日に出しましょう」

「地域の安全は一人ひとりの心がけから」

 ……そうだ、その通りだ。

 みんな分かっているはずなのに、どうして守れないのだろう?

 僕だって完璧じゃない。でも、完璧じゃないから直そうとするんだ。

 自分のズレを、世界のズレを、少しずつ少しずつ矯正する。

 その繰り返しが大事なのに、多くの人は気づかない。

 いや、気づかないんじゃない。

 気づこうとしないんだ。

 僕はふと気づいた。

 世界が僕ひとりに働きかけてくる理由。

 それは、きっと多くの人が、世界の声を聞くのをやめてしまったからだ。

 耳を塞ぎ、目を逸らし、目の前の歪みに気づかないふりをして生きている。

 だったら、僕が代わりにやらなくちゃいけない。

 世界の声を聞き、世界を正す。

 その役目を担う人間が必要だ。

 そんなの、僕しかいないじゃないか。


 昼過ぎ、いつもの公園に行くと、ベンチの上に缶ジュースが置きっぱなしになっていた。

 僕はその缶を取り上げると、ふと周囲を見渡した。

 誰もいない。

 だけど、静かに空気が揺れる。

 ああ、見ている。

 僕が缶を掴むと、木々の葉がわずかに揺れた。

 風のせいじゃない。

 これは褒めている音だ。

 よく気づいたねと、世界が僕に囁いている。

 缶をゴミ箱に捨てて、その響きを聞く。

 金属の落ちる音が、胸の中心に吸い込まれるように染み渡る。

 世界が拍手している。

 僕は思わず空を仰いだ。

 世界は僕に期待している。

 もっと大きなことを求めている。

 もっと深いところまで直してほしいと願っている。

 じゃあ、僕は応えなくちゃ。

 その日を境に、僕の善行はさらに進化した。


 その夜、僕は少し遠回りをして帰りました。

 理由は特にありません。

 ただ、胸の奥がざわついていたんです。

 世界が、まだ何か言いたそうにしている気がして。

 すると商店街の真ん中で、自転車を道に止めたむろする若者がいました。

 夜とは言え、まだ人通りもある。通行の邪魔になる位置です。

 しかし誰も注意しない。

 みんな、見て見ぬふりをして通り過ぎていく。

 空気が、重い。

 僕は自然と足を向けていました。

 考えるより先に、身体が動く。

「そこ、危ないですよ」

 声は思ったより落ち着いていました。

 若者は一瞬驚いた顔をして、それから面倒くさそうに舌打ちをする。

「別にいいだろ」

 でも、その視線は揺れていた。

 迷っている。

 ズレているけれど、戻れる位置にいる。

 僕はそれ以上何も言いませんでした。

 ただ、自転車を指差す。

 数秒の沈黙。

 やがて彼は小さく息を吐いて、自転車を端に寄せた。

 その瞬間、胸の奥がすっと軽くなった。

 風が、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。

 世界が、うなずいた。

 ほら、これでいい。

 次の日の夜も、同じようなことがありました。

 今度は、ゴミ袋を蹴飛ばしながら歩く酔っ払いです。

 中身が飛び出し、道が汚れていく。

 僕は声をかけた。

 少しだけ、昨日より強い口調で。

「やめた方がいいですよ。」

 酔っ払いは睨み返してきた。

 一瞬、恐怖を感じましたが、その感覚はすぐに消えた。

 恐怖の代わりに、胸の奥から、熱が湧き上がってくる。

 世界が、僕を見ている。

「……チッ」

 彼は吐き捨てるように言って、

 袋を拾い上げ、去っていった。

 その背中を見送ったとき、

 心臓が、どくん、と強く脈打った。

 昨日よりも、はっきりと。


 成功した。

 また直せた。

 それが、はっきり分かった。

 それからです。

 僕が夜の街を歩くとき、

 無意識にズレを探すようになったのは。

 悪意じゃない。

 犯罪でもない。

 ただ、少し空気を汚すもの。

 それを見つけるたび、

 胸が締めつけられると同時に、

 どこかで、期待している自分がいる。

 今日は、直せるだろうか。

 直せた夜は、眠りが深かった。

 夢も見ない。

 身体の芯まで満たされて、

 世界と一体になったような感覚。

 直せなかった夜は、落ち着かなかった。

 布団の中で、直せなかったずれが自分に波及するのでは無いかと考えるようになりました。


 ある深夜、路地裏で喧嘩をしている二人を見つけた。

 肩をぶつけたとか、ちょっとした言い争いだ。

 だけど、その場の空気は荒れていて、すぐ殴り合いになりそうだった。

 世界が、僕の心臓を叩く。

 僕は迷わず二人の間に割って入った。

 危険だとか、そういう感覚は消え失せていた。

 むしろ、胸が軽くなっていた。

「こんな夜中に、大声を出すのは良くないですよ」

 僕がそう言うと、二人は最初驚いていたが、すぐに怒りの矛先を僕に向けてきた。

「は? なんでテメェに指図されなきゃなんねえんだよ」

「関係ねぇだろ、どっか行けよ」

 そして、ひとりが僕の胸ぐらを掴もうとした。

 瞬間、世界が直せと叫んだ。

 声や音が聞こえた訳じゃ無い。

 でも僕の背骨を震わせるような強烈な使命感が支配した。

 僕は思わず手を伸ばし、その男の手を振り払った。

 男はバランスを崩し、尻もちをついた。

 路地の奥にいたもう一人も動揺して後ずさる。

 その一瞬で、空気から悪意がするりと抜けていったのが分かった。

 世界が軽く息をついたような、静かな時間。

 ああ、僕はやっぱり正しい。

 男たちは僕を睨みつけながらも、何も言わずに立ち去った。

 それを見届けると、僕は胸に手を当て、そっと呼吸を整えた。

 世界が微笑んでいる。

 僕を抱きしめている。

 もっと直せ、と。

 それから、僕はより悪い兆しを探すようになった。

 道の真ん中で座り込む男女。

 他人に迷惑をかける大声。

 信号無視をする自転車。

 公園で子どもに怒鳴る親。

 ひとつ見つけるたびに、胸が締めつけられる。

 悪い空気だ。

 世界が苦しんでいる証拠だ。

 だから僕は正す。

 優しく、穏やかに。

 時には、少し強く。

 すると、必ず誰かが僕を見ている。

 車の窓越しの視線。

 マンションの陰からの気配。

 世界のすべてが僕を見つめて、期待している。

 僕はその視線を浴びるたび、胸が高鳴る。

 世界に必要とされる人間なんて、そうはいないが、僕は選ばれたのだ。


 最近は、家の中でも世界の声が聞こえるようになった。

 換気扇の回転音が優しく「ありがとう」と歌っている。

 冷蔵庫のモーターが「直せる所がまだあるよ」と囁く。

 窓の外を吹く風が、「今日も見ているよ」と言ってくれる。

 世界中が僕に話しかけている。

 僕はそれに応えるだけだ。

 ある夜、寝る前にふと考えた。

 なぜ僕だけが世界の声を聞けるんだろう?

 答えはすぐに出た。

 他の人は、きっと怖いんだ。

 世界に覗かれることが。

 世界に期待されることが。

 自分の心の奥を覗かれることが。

 でも僕は違う。

 僕はちゃんと向き合う。

 世界の目を受け止め、世界の望みを叶える。

 だから選ばれた。


 そして今朝。

 僕は確信した。

 今日は決定的な善行をする日だ。

 でも、その確信の奥で、

 ほんの小さな引っかかりが生まれたのも事実でした。

 本当に、今まで以上にやる必要があったのだろうか。

 そんな考えが、朝の静けさに紛れて浮かんできたんです。

 ごく薄く、霧みたいに。

 これまでだって、僕は十分に世界を直してきた。

 ゴミも拾った。

 空気も整えた。

 争いも止めた。

 それで、足りないなんてことがあるだろうか。

 もし、僕がやりすぎているだけだったら。

 もし、世界の声だと思っていたものが、ただの思い込みだったのなら。

 胸の奥が、わずかに冷えました。

 指先の感覚が、少し遠くなって、どうしようもない孤独が心を包む。

 普通の人なら、ここで立ち止まるのかもしれません。

 怖くなって、自分は間違っているかもしれない。と考える。

 でも、その瞬間でした。

 それが、ズレだ。

 そう、はっきりと思ったんです。

 疑うこと。

 立ち止まること。

 責任から目を逸らすこと。

 それこそが、

 今まで僕が正してきたズレそのものじゃないか。

 世界が苦しんでいるのに、

 自分だけ安全な場所に引き返す。

 それは、見て見ぬふりをしていた人たちと、何が違うのだろうか。

 胸の奥で、カチリと何かが、はまる感覚がしました。

 ああ、そうだ。

 これは迷いじゃない。

 最後のテストなんだ。

 世界が、僕を試している。

 それを越えられるかどうか。

 本当に、直す覚悟があるかどうか。

 僕は、深く息を吸いました。

 肺の奥まで、冷たい朝の空気を入れる。

 大丈夫。

 怖くない。

 怖がっているのは、

 世界じゃない。

 古い僕だ。

 もう必要のない感情。

 僕はそれを、

 静かに、でも確かに切り捨てました。

 そして、確信は戻ってきた。

 さっきよりも、ずっと強い形で。


 外に出ると、空気が明確に違った。

 いつもより澄んでいるのに、どこか重い。

 雲は薄いのに、太陽が妙に弱く、少し雨が降っている。

 世界が固唾を飲んでいるような静寂。

 僕は歩いた。

 足の裏に伝わる地面の感触が、やけに正確に感じられる。

 世界のすべてが僕を導いているようだ。

 駅のホームに着いたとき、胸が強く脈打った。

 そこには、朝から怒鳴り散らしている男がいた。

 若い女性に絡み、腕を掴んで、離そうとしない。

 その瞬間、世界の悲鳴が聞こえた。

 来た、ついに来た。

 これは今日の大きな善行だ。そして、今後の僕を決定づける飛躍的な一歩だ。

 僕はゆっくりと男に近づいた。

 一歩ごとに世界が静かになっていく。

 二歩目で風が止まり、三歩目でざわめきが消える。

「やめた方がいいですよ。」

 僕は穏やかに声をかけた。

 男がこちらを振り向く。

 怒りと苛立ちと、どうしようもない歪みが混ざった目。

「なんだテメェ、関係ねぇだろ!」

 その瞬間、世界の声が轟いた。

 直せ!

 正せ!

 お前しかいない!

 僕の中に熱が溢れ、視界が白く滲んだ。

 気づけば僕の手は、男の腕を掴んでいた。

 思ったより軽かった。

 ぐい、と力を込めると、男の身体が揺れた。

 周囲の視線が集まる。

 そのすべてが、僕に言っている。

 やれ、と。

 正せ、と。

 僕は笑った。

「大丈夫。僕が世界を綺麗にするから」

 男が何か叫んだが、もうどうでもよかった。

 世界の声が満ちる。

 僕の心臓が踊る。

 全身が光に包まれていく。

 僕がやるべきことは、もう決まっている。

 世界が求める善行は、ただひとつ。

 僕が腕に力を込めると、世界が歓喜に震えた。

 すべてが正しい方向へ動き出す。

 僕がいるから。

 僕が直すから。

 僕が、世界を救うから。


 そして駅に警笛が鳴り響いた。

この作品は朗読会、Lunask Act3で使用した台本です。


朗読動画、配信にご利用いただいて問題ございません。


その際は概要等に下記の表記をお願い致します。


シナリオ:vurebis(https://x.com/vurebis_)


※ご使用される際、私に報告等は一切必要ありませんが、教えていただけますと全力で応援させていただきます!

※自作発言等はご遠慮ください。

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