手にした未来
商店での仕事にも、ようやく余裕が出てきた頃だった。
「次の仕入れ、ついて来るか?」
店主にそう言われたとき、和也は少しだけ間を置いてから頷いた。
値札を写すだけだった頃とは違い、今は品の流れや相場を見る立場になりつつある。
仕入れ先の市場は、どうにも落ち着かない。
人の声と匂いが入り混じり、通路の両脇には見慣れない品が並んでいる。
言われた範囲を外れないよう気をつけながら、和也は視線だけで商品を追っていた。
その途中で、足が止まった。
露店の隅に積まれた、古い本。
紙の質、綴じ方、表紙の色。
一度通り過ぎてから、和也は引き返した。
――見覚えがある。
手に取らずとも分かった。
それは、自分がこの世界へ来たときに使った魔法書と、酷似していた。
値段を聞く。
高価ではあるが、手が届かない額ではない。
和也は本を棚に戻した。
今すぐ買うこともできた。
商店での給金のうち、すべてを教会へ渡そうとしたとき、
シスターは首を振り、必要な分だけを受け取った。
「全部預かる必要はないわ」
「自分で使うお金も、持っていなさい」
そうして手元に残された分が、少しずつ積み重なっていた。
それでも、その日は買わなかった。
店へ戻る道すがら、和也は何度も考えた。
帰りたい気持ちは、はっきりしている。
だが同時に、浮かんでくるのは教会の光景だった。
何も持たず、行き場もなかった自分を、理由も条件もなく受け入れてくれた場所。
急げば、帰れる。
だが、急ぐ理由もなかった。
それから、さらに幾月かが過ぎた。
仕事は増え、責任も増えた。
失敗は相変わらずあったが、店主は叱責せず、改善点を具体的に教えてくれた。
給金を受け取るたび、和也はその一部を教会へ渡し、残りを静かに積み重ねていった。
十分だと思える額が揃った日、和也は再び市場を訪れた。
あの露店は、変わらず同じ場所にあった。
魔法書も、まだ残っている。
値段を聞き、今度は頷く。
包まれた本を受け取り、商店へ戻った。
和也は店主の前に立つと、軽く頭を下げた。
「……改めて、ありがとうございました」
店主は穏やかに目を細める。
「うん、分かっているよ。今日でこの店を離れるんだろ?」
「はい。ここで働けなかったら、今の自分はなかったと思います」
店主は小さく頷き、言葉を続けた。
「君がここで学んだことは、これからも必ず役に立つ。胸を張って行きなさい」
和也は深く礼をし、店を後にした。
教会では、魔法書とは別に用意していた袋を差し出した。
中には、これまでの感謝を形にした金が入っている。
シスターは中身を確かめることなく、静かに受け取った。
「向こうへ、帰るのね?」
「はい」
「あなたが決めたなら、それでいいわ」
そう言いながら、シスターは小さく微笑んだ。
引き止めるでも、声高に祝うでもない。
だが、その微笑みには、変わらぬ受容と、静かな祝福が込められていた。
外へ出ると、教会の鐘が静かに鳴っていた。
魔法書を開き、文字をなぞる。
今度は焦りも、迷いもない。
光が、視界を覆った。




