第1話
そいつは、輝くような銀髪だった。
そいつは、世界が息を呑むほどの美しい少女だった。
そいつは、一息で私の妻を殺した。
そいつは、瞬きの間に私の子を潰した。
そいつは、そいつは、そいつは…………。
そいつは、私の全てを奪っていったのだ。
私はとある国の近衛騎士だった。地方貴族の次男として生まれた私には特筆すべき才能も地位も名誉も無かった。
私にしか無い何かを探すため身内に相談をしようとしたが、十二歳の成人を迎えた時に祖父が病に倒れた。
家を貴族として興し、領地を発展させた偉大な祖父だった。
私は、世話になった祖父の遺言で国へ尽くすことこそが私の名誉を会得するものであると信じて疑わなかった。
国へ尽くす最も名誉なことと言えば近衛騎士だった。短絡的にそう考えたが、努力は得意だったみたいだ。
私なりに、近衛騎士になるための血の滲む努力をしたのだ。人の何倍もの苦渋を嫌という程飲まされ、古傷の上に新たな傷が何度もできるような、気が狂うほどの鍛錬の果てにようやく近衛騎士になることを認められた。二十四歳と最年少で近衛騎士に抜擢されたことは、私の国への忠誠心が認められ、私にしか無い唯一の何かができたようで誇らしい。
私は、充実していたのだ。
そんな日々だった。
世界中の誰もが平和を享受していたある日、魔王と呼ばれる強力な存在が魔人の軍勢を伴ってこの世界に君臨した。魔王の目的も分からず、尖兵を送り出す魔王に対して、人間側は誰もが情報に踊らされ、誰もが正解を知らぬまま魔王の尖兵に対峙していった。
魔王の尖兵であるところの魔人は強く、数々の国が苦戦を強いられ、または滅んでいった。
大陸の中でも強国として知られる我が帝国も、灰色の空に覆われ、中枢まで魔人に乗っ取られようとしていた。時間が無い。とうとう崩壊の危機が迫っている。
私は陛下の勅令により唯一の皇女、クローディア様と共に帝国を脱出。帝国の崩壊と共に皇族の血族を失うわけにはいかない。これが私の忠誠なのだ。
今年で十八歳となられたクローディア様は、その美しい見た目に反して己が偉大な存在であることを自覚し、才ある若き王のような口調の姫君だ。その目は力強く自信に溢れ、巨大な帝国の主である皇帝陛下へ何度も帝国の政策の愚かさを語った逸話がある。
なんとも聡明な方だ。
既に魔術の素質を認められ、十六歳の頃から軍団単位の魔術の研究を担い、今年から宰相の片割れを担うようになられたクローディア様には何度も叩かれ、罵倒された。
「近衛騎士が城を背に向けて逃げ回るなどなんたることか!お前の今の姿は騎士の風上にも置けぬただの破落戸である!早く父上をお助けせよ!」
言い訳は全て卑劣である。
……私は、魔王が恐ろしくて逃げたのだ。
仕方がなかった。今現在も何万もの魔人の軍勢がこの国に押し寄せている。とても私一人で勝てる相手ではない。
お許しを、お許しを……。
陛下からの勅令を受けた時、悔しさで顔が歪むのと同時に、口だけは喜びで曲がっていた。私には姫様を守るという使命がある。
そして、これでようやくこの地獄から逃げられる。そう思った。
しかし、姫様の言葉に逆らって逃げ回る最中にも魔人の手が襲ってきた。近衛騎士は伊達ではない。戦う術はある。今は姫様を守ることもできる。
だが、いつまでこうしていればいいのだ。
いつまで、守り切れるのだ。
いつまで、生きられるのだ……。
国を見捨て逃げ出した私の忠誠は、どこにあるのだ…………。
神経をすり減らしながらも、隣国を目指して歩き続けた。死体の横を、崩れた村落を、噎せ返る程の血の海を、抉れた我が国の土地を横目に。
それを見た姫様はなにを思っただろうか。
今日もまた、雨が降るようだ。
数週間の姫様との旅の末、ようやく隣国に到着した直後に、私の守るべき城が失われたと知った。
小国である隣国の宿屋で、姫様は静かな夜に仰った。
「私の帰るべき城も、故郷も、家族も、もういない。私には、もうお前しかいない。お前は、ただの女になってしまった私をまだ守り続けるのか?」
ただの女。たしかにそうだった。
気づけば我が国の中枢にまで入り込んでしまっていた魔人に対して、私は為す術が無かった。魔人とは、魔王とはそれほどまでに強力だったのだ。だが、そんな魔人に対し、滅んだ国の姫がそこらを歩いているなど喧伝するわけにはいかない。
このお方を守り続けた先には何があるのか、考えなかった訳ではない。本当は何も無いのだと思っていた。死ぬのが遅いか早いか、その違いでしかない。
私は、心が折れるのが怖かったのだ。
「私を守っているのはお前だ。しかし、お前を守っているのは私なのだろう。なんとも数奇な運命だ。まるで劇のようだな。アーサー、お前は戯作を現実に起こす能力でもあるのではないか?」
むむ、戯作とはまたなんとも小難しい言い方をするものだ、我が君は。そんな娯楽小説をいつ読んでいたのやら。こっそり本を持ち出していた専属のメイドを叱るべきだったな。
もう、いないが。
しかして、確かに私の心を守っているのは姫様なのであろう。それは間違いない。私たちは、何をしているのだろうか。
「姫様、小難しいことばかり考えてはなりません。頭を固くしてしまいます」
「阿呆が。そのような問答をしている場合ではない。ほれ、魔王の手がすぐそこまで来ているぞ」
下手な洒落を言い出したのは姫様だろう。このお転婆め。
「全く……。少しゴミ掃除をしてきます。決して部屋を出ないでください。いくら私といえど、離れた姫様を守る術はありませんよ」
底無しの気遣いを口にし、扉に手をかけた私を追い払うように手をひらひら振る我が君。
おぉ、今は亡き我が皇帝陛下よ。このお転婆娘に怒りの拳骨をお見舞いくだされ。アーサーめをこのお転婆と二人にさせた陛下を恨みたくはありませぬ。
神に祈る宗教家の如く一心不乱に祈りを捧げた私は、両の手を握ったまま立ち尽くしていた。
「馬鹿者が。祈るならば私のために祈るがよい」
全く!
そんな事を思いつつも、姫様の索敵能力に驚かされる。このようなお転婆だが、魔術の腕はかなりのもので数キロ離れた敵の位置を魔力の性質から逆算して自動探知する術式を組み上げている。もちろん姫様オリジナルの魔術で、まさに天賦の才だ。
そして最年少で近衛騎士にまで選ばれ、第一騎士団長との模擬戦で勝率五割まで上げたこの私にも、努力という名の才能があったようだ。
偵察に来た少数の魔人を相手取ることなど容易い。逃げるだけなら、私たちはどこまででも逃げられるのだろう。
だが、それはいつまでだ?
姫様は賢い。偉大なる賢王の素質をお持ちだ。こんなことがいつまでも続くわけが無いと分かっている。慣れない下手な洒落を口にしたのは、自分の中に潜む大きな不安や、後悔、不甲斐なさのような負の感情を盲目にするためだろう。
そして、それは私も同じこと。
姫様と二人で過ごす中で気兼ねない態度で接することをお許しいただいた。この空気は、なんとも言い難く、甘美だ。
束の間だとお互い分かっているからこそ、なのだろう。
難なく魔人数人を返り討ちにした私を宿屋で待っていたのは、仁王立ちをしながら腕組みをした、見慣れた姫様だった。
「遅い! アーサーよ、腕が落ちたか?腹が減った。飯を寄越せ」
なんとも暴戻な賢王様である。
「姫様の厠よりは早いと思いましたが、私もまだまだのようですね」
言葉を言い終わった瞬間、姫様の魔術による水球で頭を覆われ危うく窒息させられそうになった。このお転婆具合は誰に似たのやら。いや、今のは私が悪い。姫様に謝らなくては。
「さすがに言い過ぎてしまい……」
「アーサー」
深呼吸を繰り返した私を、姫様は真剣な眼差しで見ていた。
「はい。なんなりと」
「いつまで逃げるつもりだ」
……あまり触れられたくない話題だ。しかし姫様から言われてしまえば返答せざるを得ない。
「姫様を守るためなら、どこまでも。それが皇帝陛下が私に遺された最期の言葉ですので」
「そういうことを言っているのではない!」
突然大きな声を出された姫様はお怒りのご様子だ。
「アーサー、お前の力は性懲りも無く襲ってくる少数の魔人をちまちまと潰すためのものではない。大いなる魔を撃滅せんとする、我が帝国きっての最強の矛よ」
あぁ、姫様にはバレていたのか。そりゃあそうだ。あそこまで魔術に精通している人と数週間もずっと隣で生活していれば全て見えてしまうものなのだろう。
もしくは知っていたのか。あの混沌渦巻く王宮で私個人の力を正確に把握しているなど思いもしなかったが。
「なにを隠すことがあるというのだ。お前の力の大きさは理解しているつもりだ。私と組めば怖いものなど一つもない。」
「姫様……」
「私はもう、お前に守られる"姫様"などではない!ましてや私は姫でもない!私の国は滅んだのだ。死ぬ前に魔王に一矢報いることこそが今の私の使命であり、運命だ!」
姫様はお強い。その心根が、その意志が、私をも強くする。そこまで言われては男が廃るというものだ。若く美しい姫様の最後の願いを叶えることくらい、やってみせねばなるまい。
それに、私の中の"アレ"が解放しろと悪魔のように囁いてくる。底無しの欲望を、無限の穢れた魔力を感じる。
姫様に、私のアレの欲望を解放せねばなるまいと、かつてないほど男前にキメたようにそう言ったのだが。
「ん……? まぁ、最後にお前と交わることくらいしてやらんでもないぞ。死に行く故、身篭る心配も要らぬ。王族として清廉に生きたからな。盛大に羽目を外してみるのも悪くない」
いや、男が廃るとか、欲望の解放ってそういう意味で言ったのではなくだな。そして姫様が清廉?意味を分かって仰っているのか?羽目なら十分に外しておいでだ。ついでに頭のどこかも外れているに違いない。
「いやあの姫様、そういうことではなく……」
「普段のお前のいやらしい目付きを見ていれば、この私の体に興味があることくらいは未熟な私にも分かる。気付かぬとでも思っていたのか?この助平めが」
な、なんだと!?バレないように日々鍛えた目で瞬時にチラ見していたのが、よりによって姫様にバレていただと!なんたる不覚!なんたる羞恥!不細工この上ない醜態だ!
あぁ!今は亡き我が陛下よ、我が陛下よ!
「ええい、父上に祈るのを辞めよ!はよう服を脱げ朴念仁!」
何たる屈辱だ。我が忠誠を皇帝陛下ではなく、姫様に捧げてしまうとは。
いや、あの時からここだったのだ。姫様と二人で城から逃げ出したあの時から、私の忠誠はここにあったのだ。
我が名はアーサー・アルバス。我が姫クローディア・カストルムに忠誠を誓います。あと、至福の時でした……。
そして、私は魔王と対峙したのだ。