六冊目――『世界の終わりに』
■六冊目――『世界の終わりに』
「許してほしいとは言わない。
ただ、この気持ちだけは本当だ。
愛してる。
たとえここで命が尽きようとも、二人を心の底からずっと、ずっと」
〇
九龍の取り壊しが決まった。
信じられないことだが、日本政府が正式にそう発表したのだ。
寝耳に水とはまさにこのことで、発表が行われた直後から九龍は大混乱となった。
図書バー『ゲーティア』では珍しくお客さんたちが白熱しており、本日の新聞を取り囲んで大議論中だ。
「今さらここ以外で生きてけるかよ」
「せっかく集めた本、どうしようかしら」
「なぁ、いっそのことこっちが持ってる政府のヤバい文章、バラまくってのはどうだ?」
など、あちこちから聞こえてくる。
たしかに、この図書館群は世間的に認められたものではないし、褒められたものでもない。
でも、ここに集まった本とそれを求めてやってくる人、あるいはここの存在に救われた人は少なくないはずだ。
なので個人的には、私も九龍を守りたいので政府のヤバい文章とやらを盾にするのは大賛成だった。
カウンターの上に広げられた新聞には九龍の空撮写真と、取り壊しを発表したこの国の首相にして『鉄の女』――桜庭綾子が紙面のトップを飾っていた。
日本にはびこる違法建築群と不法占拠者たち……その暗部に切り込んだ女性首相。この構図は、話題性しかなかった。
『九龍城寨図書館の取り壊し』は発表があった翌日から、連日のようにワイドショーやニュース番組を賑わせた。
そして、野次馬や新聞記者、ゴシップ雑誌のライターたちがたくさん九龍へと押し寄せてきた。
「なんだか、騒がしいことになったねぇ」
六畳一間のアパートでこたつに入りながら、『フェイロン図書館』のおばあちゃん館長はそう呟いた。
彼女の声音はいつもの調子で、「お湯が沸いたねぇ」ぐらいの感じだ。
私は「本当に、困っちゃいますよね」と笑いながら答えたが、内心では九龍が取り壊しになればおばあちゃんにも、彼女が集めた本たちにも会えなくなってしまうんだと思い、悲しくなった。
ここ数日間、私はずっとぐるぐると考えていた。どうにかして、九龍を守れないか、と。
だが、その答えは一向に出ず、ただいつもの業務をこなしていつものように好きな図書館を巡るぐらいしかできなかった。
「あなたが、噂の探偵たちね?」
そう声を掛けられたのは、業務を終えて図書バー『ゲーティア』でナナイさんと呑んでいる時だった。
マスター、そしてナナイさんと九龍の未来について話していると、いつの間にか店に入ってきていたらしい女性が私たちの背後に立っていた。
マスクにサングラス……明らかに怪しいし、高圧的な口調が私の苦手な感じだ。
「えっと……私たちは、別に探偵とかじゃなくてただの司書と言いますか……」
「あっそう。まぁ、どっちでもいいわ。けどあなたたちは、本を見つけてくれる人なんでしょう? そう聞いてるわよ」
……たしかに『探偵』というのはあながち間違いではない。だけど、彼女の望む本だけは見つけてあげたくなかった。なぜなら、威圧的な態度が、かつてのブラック出版社の上司を思い起こさせるからだ。
しかし、私のそんな心の中での抵抗は、彼女の次のひと言で粉々に砕かれることとなる。
「ちなみに、これはお願いじゃないわ。命令よ」
そう言って、彼女はマスクとサングラスを外した。その容姿には……見覚えしかなかった。
パッと見、美人だ。おそらく私の十歳ほど年上だろうか。下手したら、もっと若く見える。
ただその顔を見た瞬間、私は心底驚いた。彼女は、鉄の女にしてこの国の首相――桜庭綾子だったからだ。
まず最初に、桜庭綾子からこう命令された。
「去年死んだ、花村省吾という男の本や資料を見つけなさい。そして……そのすべてを処分するのよ」
と。
私は、「わざわざ首相が私たちに依頼してくるなんてありえない」と想い、何かの悪い冗談かと考えたが、どうやらこれは現実らしい。
だが……たとえ首相の命令とはいえ、この図書館の見習い司書として本を処分することなど出来るわけがないし、したくなかった。
ところが……彼女はこうも付け加えた。
「ここはもう取り壊しが決まってるけど、まだ白紙撤回できる余地はあるわ。さぁ、どうする?」
なるほど……さすが『鉄の女』だ。
外務大臣時代からその一歩も引かない交渉姿勢と、有無を言わせない高圧的な駆け引きはカリスマ性があるとしてもてはやされてきた。
「くはは、貴様が三か月前に言っていたことが懐かしいな」
「うぅ……あのときの自分を殴ってやりたいです」
ナナイさんが意地わるそうに笑ったのは、私の発言だ。
ある日私はテレビに映る桜庭綾子を見てこう言ったのだ。「この人が総理大臣になったら、日本のいいリーダーになりそうですよね」と。
〇
翌日。
私はまだ寝起きでボーっとする頭で、中央通りを北に向かって歩いていた。
桜庭綾子はあのあとすぐ帰ってしまったので、ろくに詳しい話は聞けなかった。というか、話してくれるような雰囲気ではなかった。
そして私たちはというと……話の流れ上、依頼を引き受けることとなってしまった。
まぁ、九龍を救えるのならやってみる価値はあるが……「本を処分しろ」というのは気が進まない。
一応、この図書館の危機と言うこともあって色んな人に本を探してもらえないか頼んでおいたが、昨日の今日なので結果はまだ出ていない。
そもそも『花村省吾』とは何者で、どんな著書を残した人なのだろう?
桜庭綾子に聞けば一番早いのだろうが、相手の立場が立場だけにそう簡単に連絡できるわけがない。
なのでまずは、ナナイさんと私は二手に分かれて『花村省吾』の正体を探ることから始めることにした。
そして、寝起きの頭で推理した結果……彼は桜庭綾子の黒い部分、もしくは後ろめたい何かを知っている人物はないかと考えた。
で、『花村省吾』の著書には、カリスマ性のある彼女を失脚させるだけの秘密が書かれているに違いない。だからこそ、慌ててそれを消そうとしているのだ!
……と、ここまで考えてやや陰謀論ぽいなと感じたが、状況的に思い浮かぶ可能性や動機がこれぐらいしかないので仕方ない。
「あ、ここだ」
私が向かったのは狐小路商店街に立つとあるビルのさらにその裏口……そこからのみ入れる図書館『ディープステート』だった。
ここには陰謀論に関する書籍ばかりが収められており、館長自身もかなりそういったことに詳しい人物だ。
私はほんのわずかに「自分の説が当たっていたらどうしよう」とワクワクしつつ、裏口の専用エレベーターで三階へと向かった。
しかし、結論から言うと私の目論は外れた。
『ディープステート』の棚と言う棚を見て見て『花村省吾』の書籍は見つからなかったし、年中半そでで汗を掻いてる大きめサイズの館長に相談してみても「いや、そういう話は聞いたことないなぁ」と言われてしまった。
彼が言うのであれば、私が考えた説は万に一つの可能性もありえないと言える。
私は若干のショックを覚えつつ、館長に『花村省吾』と桜庭綾子がどういった関係だと思うか尋ねてみた。
すると、陰謀論好きの館長らしく「逆に、桜庭綾子が裏で葬った人物なんじゃない? あの強権主義の鉄の女だから、それぐらいはしてるはず。で、その痕跡をこの世から消そうとしているんだと僕は思うね」と語った。
「いくら何でもそれはないですよ」と言いかけて、昨日の彼女の態度を思い出す。それぐらいならやりかねないという、妙な説得力を感じた。
とはいえ、結局は『花村省吾』の正体にはまったく迫れていなかったので当てが外れたことに変わりはなかった。
私は『ディープステート』の館長にお礼を告げて別れると、再び狐小路に戻った。
数日後。
「うーん、どうしよう……何にも思いつかない」
私は、図書喫茶『リンゴ』でかれこれ一時間は悩んでいた。
あのあとしばらく、何となく関係ありそうだと思った図書館が目に入ると、迷わず入ってみたりした。そのうえ、桜庭綾子に関する書籍なんかも手当たり次第に探して読んでみた。
だが、それでも『花村省吾』に関する情報は得られなかった。
ナナイさんに頼りたかったが、この一大事にも関わらず彼は飲み歩いていてなかなか捕まえることが出来なかった。
なので、これからどうすべきかのヒントがまったくつかめない。
このままでは九龍が取り壊されてしまう……それだけは、なんとしてでも避けたかった。
と、そこへ――
「あ、やっぱりここにいたのね。久しぶり」
頭を抱えていると、なんだか聞き覚えのある声がした。
「あれ? お久しぶりです! でも、なんでここに……?」
「九龍に関するニュースを見てね。ちょうど休みだったから来てみたの」
そこにいたのは、一緒に『ジャン・オーギュスト・シュトラウス』について調べまわったお姉さんだった。
「けっこう、人通りが少なくなってるのね」
お姉さんは「ここ、いいかしら?」と言って向かい側に座ると、寂しそうにそう呟いた。
「はい……みんながみんな、ってわけじゃないんですけど九龍から出て行った人もいて……」
九龍の取り壊しが決まってからと言うもの、大抵の人は残ってくれていて、なんだったら取り壊し回避のための住民運動も盛んにおこなわれていた。
しかし、それでもここを去る人もそれなりにいた。
このまま九龍を守れないまま終わってしまうのだろうか? そんな不安が胸をよぎる。
特にここ数日間は己の非力さを痛感させられていたので、かなり落ち込んでいた。
「……ごめんね。綾子のせいで、こんなことになっちゃって」
お姉さんが、申し訳なさそうに言った。
「いえ、別にお姉さんが謝る必要なんか――」
私は、そう言いかけて止まる。
「え? お姉さん今……綾子って言いました?」
芸能人なんかを冗談や親しみを込めて名前で呼ぶのは、何となくわかる。
ただ……今のお姉さんの言い方なんとなく違った。
「うん。実は、あの子……小学校からの友達なの」
私は彼女の言葉を聞くのと同時に、ほとんど飛び上がる勢いで椅子から立ち上がっていた。
こんな偶然があっていいのだろうか?
私は興奮し、お姉さんにただただ一方的にこれまでの経緯を事細かに話した。
桜庭綾子が九龍にやって来たこと。『花村省吾』に関する本や日記を抹消するよう命令してきたこと……それらを全て詳細に語った。
するとお姉さんは、小さくため息をつく。そして、独り言のようにこうつぶやいた。
「そっか……綾子、まだ許してなかったんだ」
私が詳しいことを知りたいと言うと、お姉さんは少し迷って「ごめんね。さすがに、これは個人的なことだし、私が勝手に話すわけにはいかないと思うの」と言って頭を下げた。
私は慌ててお姉さんに頭を上げて欲しいと伝える。むしろそのあたりを配慮せずに質問したこっちが悪いのだから気にしないでほしかった。
ただ、お姉さんは「その代わり」と言って、スマートフォンを取り出した。
そして指先でスッスッと操作すると、普通に桜庭綾子へ電話をし始めた。
本当に仲がいいんだ……と驚いていると、相手が電話に出たようだ。
「やっほー、綾子。いま、電話大丈夫?」
「ええ。ちょうと休憩に入ったところよ。それにしても、電話なんてめずらしいわね。どうしたの?」
スピーカーホン越しに聞こえた声は、この前九龍に来た時と違って穏やかだった。これが『鉄の女』の本当の姿なのかな? なんて思った。
私は、お姉さんが電話を掛ける前「みんなの前じゃあんな感じだけど、本当はカワイイところあるのよ?」なんて言っていたのを思い出した。
ところが――
「実はね、あなたと話したいっていう子がいるのよ。九龍城寨図書館の司書さんなんだけど」
と、お姉さんが言った瞬間、電話の向こうで少しピリッとしたのが分かった。
「……今さら何の用かしら。私、すごく忙しいのだけど」
休憩に入ったんじゃなかったんかい。というツッコみをグッと堪え、私はすぐ本題を切り出した。
「あの……花村省吾さんに関する情報をもっとください。彼は何者で、何をした人なんですか?」
「……あなた、司書でしょ? それも含めて探すのが、あなたの仕事なんじゃないかしら」
うぐっ……たしかに、その通りかもしれない。
だが、ここは九龍だ。そんな常識は通用しない。情報が少なければ少ないだけ本が見つかる確率は低くなるし、それが逆であれば結果もまた変わってくる。
私がそう説明すると、桜庭綾子は少しだけ考えるような間をおいて、忌々しそうにこう言った。
「あいつは、学説のためなら周りを顧みない……嘘つきで最低の研究者よ。本当、死んでくれてせいせいしているわ」
と。
〇
翌日。私はナナイさんと合流して『九龍大学』へ来ていた。
大学、と言ってもここは本物の大学ではない。それはただの通称で、主に論文から学術書を扱う図書館だからそう呼ばれているだけだった。
しかし、この九龍の中でも指折りの広さと巨大さを誇る建物はそこら辺の大学と遜色ないほど立派だった。
そして私たちは、九龍大学の三号館……つまり、世に認められなかった論文が大量に保管された書庫に来ていた。
ここには、異端、邪説……下手すればオカルト認定されそうな眉唾の論文までもが丁寧に保管されている。
「あったぞ、これだ」
ナナイさんはどういうわけか『花村省吾』が何者なのかを自力で推理し、学者だと言うことに行き着いていた。
そして、八十二番と書かれた書架の一角から論文を取り出してくれた。
それは驚くほど真新しく、今まで誰にも見向きされていなかったことが伺える論文だった。
桜庭綾子が言ったことが本当なら、彼はすでに亡くなっている……。
せっかく研究を重ね、世に自分の理論を証明しようと一生懸命書いたものが、誰からも読まれることなく、ゆっくりとゆっくりと朽ちていく……。彼の人生を想像すると、少しだけ寂しい気持ちになった。
しかし、今は感傷に浸っている時間はない。
私はナナイさんから渡された論文をパラパラとめくって中身を確認してみる。
するとそこには、「この世界は実は一度滅んでいるのだ」という、なかなかアレな学説が大真面目に記載されていた。
桜庭綾子、そしてナナイさんの言ったとおり、花村省吾は学者だった。
しかし、そうなってくると一つ疑問が残る。
彼女はなぜこれらを消せと言うのだろう? このとんでもない学説が桜庭綾子に何か不利に働くとは思えない。
昨日の電話ではそこまで詳しいことは聞けなかったので、結局肝心なところは謎のままだった。
しかし、意外な事実がいくつか分かってきた。
まずナナイさんの話では、「『人類滅亡後説』を唱えている人はそれなりの数がいる」ということだった。
人類は、過去数万年間も発展せず、狩猟生活と動物的本能による繁殖でただ目的もなく生き延びていた。しかし、急激な気候変動によって大量死を迎えた結果、偶然生き伸びた人たちが強くなるために集団化し、そこから農耕や王権政が発展し、だんだんと今の人間のような思考や感情を手に入れていった――これがこの学派の共通認識らしい。
だが、花村省吾氏の説はその中でも異端なようで、彼が亡くなったあとも未だにつまはじきにされているとのことだった。
学会からはのけ者にされている上に、「嘘つきで最低の研究者」とまで言われている……なんだか、その気持ちを考えるといたたまれない気分になった。
私は、そんな彼がいったいどんな論文を最後に残したのだろうと思い、『九龍大学』からの帰り道、中央広場のベンチに腰かけていくつかのページを読み進めてみた。
すると。
「あれ? なんか思ってたのと違う」
と、思わず声に出てしまった。
論文をちゃんと読んでみると、花村省吾への印象が変わった。少なくとも、桜庭綾子が言っていたような人物象は何かの間違いでは? という想いが膨らんできたほどだ。
たしかに一ページ目から数ページにかけての学説自体はトンデモだった。
だが彼の研究の芯の部分を読んでいると、とても『周りを顧みない、嘘つきで最低の研究者』という風には思えなかった。
むしろ私が論文を読んだ感想は逆で、真面目に自分の説と向き合い、真摯にそれを証明しようとしているとさえ感じた。
別に彼の説を支持するわけではない。
でも、本当にこの人の功績を消し去ってしまってもいいのだろうか?
すでに亡くなっているとはいえ、それはとても悲しいことのように私は思えた。
〇
九龍大学へ出向いた翌日。
ナナイさんの推理に従う形で、いくつかの『オカルト系』の本が集まる図書館を訪ねてみることとなった。
「世界は一度滅んでいる」なんて理論を唱えるぐらいなので、そういった界隈でなら何か得られるのではないか、という見立てだ。
北七西四丁目の『ムー大陸』、狐小路一丁目のビルとビルの隙間に居を構えた『緒方幽玄堂』など……いろんな場所で、たくさんのその手の本を探したり、各図書館の館長に「花村省吾さんの本はありますか?」と朝から晩まで尋ねて回った。
しかし――
「ふむ、意外なことに誰も花村省吾氏については知らないようだな」
「もしかして、オカルト界隈では有名じゃないんでしょうか?」
そんな不安が私の胸に広がった。
だとしたら、次はどういった情報を手掛かりに探せばよいのだろう……。そんなことを考えながら歩いていると、今日最後の目的地へと到着した。
「ここがラスト……ですね」
たどり着いたのは、九龍の北の果て――北五条西三丁目。
佐藤ビルという大きなビルのエレベーターに乗り、八階のボタンを押す。
しばらく機械的な音と共に私は浮上していき、「八階です」というアナウンスと共に扉が開いた。
やって来たのは『ノストラダムス』という図書館。
ここで何も見つけられなかったら、もはや打つ手はなかった。
「花村省吾さん? たしか……世界が一度滅んでるって唱えてる学者さんよね?」
妙齢の女性館長がそう答える。
結局、『ノストラダムス』で花村省吾氏に関する本は見つけられなかったが、初めて『花村省吾』のことを知ってる人に出会えた。
「し、知ってるんですか⁉」
「ええ。昔、一度だけインタビューされてる記事を雑誌で読んだことがあるわ」
「そ、その本は今どこにっ……!」
ほとんど詰め寄る勢いだったが、このチャンスは逃せなかった。
しかし――
「それがね、私は読んだことあるだけなのよ」
と言われてしまった。
「ほら、そこの棚に『月刊モスマン』っていう雑誌があるでしょ? その中で一冊だけ抜けてると思うんだけど……どうしても貴重で手に入らないのよ。その一冊こそが、インタビューの載ってるやつなんだけどねぇ」
館長はとても残念そうに言った。
たしかに『月刊モスマン』は書架に創刊号から三百三十三号まで並んでいる。しかし、そのうちの百六十八号だけが抜けていた。
「結局、また行き詰っちゃいましたね」
『ノストラダムス』を後にした私はナナイさんにそう話しかけた。
しかし――
「いや、そうでもないと俺は思うぞ」
「え?」
「館長の話によれば、『月刊モスマン』の百六十八号は貴重な本だと言っていたな」
「はい。一度読んだことがあるだけだとも言ってました」
「では、考えてみろ。ここはどこだ? どんな本でも揃う図書館だぞ」
「でも、今まで巡ってきたオカルト系の図書館の館長たちは花村省吾さんについて知らないと言っていましたし、それだけ貴重な本ならさすがにどの図書館にも置いていないのでは……」
もう一度巡ってきた図書館の館長たちに聞いて回る、というのも有りかもしれないが、それでも可能性は低い気がした。
しかし――
「図書館だけにこだわるな。この違法建築群の特性を活かせ」
そう言われて、私はハッとした。
そして、ナナイさんへお礼を言うと私はすぐに走り出した。
目指すは三十六号線。その東の果てに位置する『地球屋』だった。
〇
ナナイさんの推理が正しいなら、次に行くべき場所はあそこしかなかった。
貴重な雑誌ということはそれだけ高値で売れるということ……つまり、泥棒書店である『地球屋』の店主が何か知ってる可能性が高い。もし仮にそうでなかったとしても、他の泥棒書店を探してみるまでだった。
そして――『地球屋』へたどり着いたころ、私はもうヘトヘトとなっていた。さすがに途中で少し歩いてしまったが、それでもここまでほとんど走って来たので右わき腹がズキズキと痛い。
時間はすでに二十四時になろうとしていた。しかし、『地球屋』には煌々と明かりが灯っている。
もしかすると、泥棒書店なんて場所は夜の方が儲かるのかもしれないなと思いつつ、私は店主を訪ねてこれまでの事情を話した。
「……『月刊モスマン』の百六十八号か。ちょっと待ってろ」
店主はそう言って店の中の本棚に向かい始めた。
そして――どうやらナナイさんは、以前ここを訪れた一瞬でどんな本があるのかを記憶していたようだ。
店主が「ほらよ」と渡してくれたのは、まぎれもない『月刊モスマン 百六十八号』だった。
表紙には「独占スクープ! アメリカ国防省と宇宙人の暗号通信記録!!」だの「人々を襲う南米の謎のUMA! その謎に迫る‼」といった赤や黄の文字がベタベタと書かれている。
そんな表紙の左隅をふと見ると、やや他の文字よりも小さなフォントで「驚愕! 世界は一度滅んでいた!? 世界滅亡後説を徹底検証&関係者インタビュー!!」と書かれているのを見つけた。
この文字を見た瞬間、私はとうとう『花村省吾』について本格的に迫れそうな気がしてドキドキした。
ただ、ふと私は一つの問題があることに気づく。それは――
「あの……この雑誌、いくらですか?」
そう、ここは『泥棒書店』だ。
しかも、この『月刊モスマン 百六十八号』は相当なプレミア商品だということが今までの話からも分かっている。
私は、店主がいくらを提示するのか不安と祈りが混ざり合った気持ちで待った。
すると彼は――
「金はいい。……ちゃんと、あとで返せよ」
と言ってくれた。
私は、驚きで一瞬言葉を失ったがすぐに「ふふ」と笑いが漏れた。
「なんだか、司書みたいですね」
「……うるせぇ!」
店主はそう言って振り返りもせず店の中へと戻っていった。
私はその背中へと頭を下げる。
必ず戻って来よう。九龍を守ってここに返却に来ようと、心の中で誓った。
〇
『地球屋』からそのままの足で図書バー『ゲーティア』へ向かった。
そして、先に来ていたナナイさんの隣に腰かけ『月刊モスマン 百六十八号』をめくっていく。
すると、雑誌の後半の白黒ページで花村省吾氏へのインタビュー記事を見つけた。
記事は以外にも四ページあるらしく、前半の一~二ページには彼が唱えている説について書かれている。
それと記事には花村省吾氏の写真も掲載されており、丸眼鏡にモジャモジャの髭でふくよかな体系……と、なんだか優しそうなおじさんだった。独特の学説を唱えているので、もっと骨ばっていて尖った感じの人物を想像していたので、これは意外だ。
そして、私は次のページを開いてみた。
そこには彼への質問と共に研究室の様子など、いくつかの写真が掲載されていたのだが――
「え? この写真って……」
その中の一枚を見て、私は目を疑った。
いったいどういうことなのだろうか? そう思い、急いでそのページの内容を詳しく読んでみる。
すると、おぼろげながら花村省吾氏が何者で、どういう人物なのかがわかってきた。
私は改めて、彼の論文へと目を通すことにした。『人類滅亡後説』に花村省吾氏が何を見出していたのか、どんな思いで研究に当たっていたのか……きっと今なら、違った視点で彼の残したものを理解することができるだろう、と。
〇
それから月日が流れるなか、私は出来る限り花村省吾に関する資料を集めた。
『時の旅人』『ジャイロ考古学堂』『ハットゥシャ』など、様々な図書館を巡った。
そして……とうとう九龍最後の日がやって来た。
すでに住民の約四割がここを出て行っていたが、それ以外の住民は行く当てもないのでまだ残っていた。
まだ朝は始まったばかりで、普段ならまだ静かな時間帯だった。
しかし、中央広場をはじめ、九龍のいたる所に人が集まっていた。
周囲に所狭しと建ったビルや木造二階建ての小さな図書館、それらの窓からも住民たちが今か今かとここへやってくる人物を待ち望んでいた。
あと数時間後には行政代執行……つまり九龍の土地の強制収容が始まる。
「ほ、本当に私にやらせるつもりですか?」
「貴様の推理力ならばもう問題はないはずだ。それに、自分で辿りついた答えだろう? 胸を張れ」
ナナイさんはそう言うが、私は不安しかなかった。
私一人であの鉄の女と渡り合うなんてとても――
「おい、来たぞ!」
広場にいたうちの誰かがそう言った。
見ると、西門からまっすぐ数十人……いや、百人近い警官の集団がこちらに向かって歩いてくる。
そして、その先頭にいたのはこの国の首相――桜庭綾子だった。私の心臓は嫌でもビクッと跳ね上がる。
「それで? 約束は果たしたんでしょうね?」
開口一番。中央広場へやって来るなり、『鉄の女』はいつも以上に冷たい声を浴びせてきた。
私はもちろん「はい」と、頷く……わけがなかった。
「私は、この図書館の司書見習いです。本を貸すことは出来ても消すことはできません」
「……そう。だったら、交渉は決裂ね。この図書館ごと消えてもらうわ」
桜庭綾子はそう言うと、踵を返して「あとはお願い」とスーツ姿の官僚らしき人物に声を掛けた。
しかし――
「待ってください」
そう言っても『鉄の女』は動じない。
彼女はそのまま九龍から去っていこうと歩いていく。
このままでは、この図書館の終わりが来てしまう。
誰もがそう思っていたはずだ。
だが――
「あなたは、本当にこのままでいいんですか? ……花村綾子さん」
『鉄の女』の足が瞬間、ピタッと足が止まった。そして、彼女は再びこちらを向く。
「あら。それなりに調べているようね。でも、だったら何? 私があのインチキ学者の娘なのを盾に脅すつもりかしら」
「そんなのじゃありません。ただ、知りたいんです……あなたが、大好きだったはずのお父さんを、なぜそこまで嫌うのか」
私は、勇気を振り絞って用意していた例の雑誌を桜庭綾子に見せた。
「……なるほど。これであなたは私とアイツの関係に気づいたのね。こんなくだらない写真が載ってるなんて、さすがに予想外だわ」
彼女に見せた例のインタビューページには……花村省吾さんが幼い娘――桜庭綾子を抱きかかえ、ニコニコと笑っている写真が載っていた。
そして、そこには記者による注釈で「※娘さんは省吾さんの学説が大好きで、よく研究室へ遊びに来る」と書かれている。
「あなたは、お父さんとその研究が好きだったんじゃないんですか? なのに、なぜそこまでして彼の研究を消そうとするんです」
「……あなたには関係ないことよ、司書見習いさん」
たしかにそうかもしれない。これは明らかに彼女のプライベートにかかわることだ。
だが――
「たとえ見習いだとしても……司書として、彼がこの世に残した証しが失われていくのを黙って見ているわけにはいきません」
花村省吾の研究と、『その想い』を知った者として、この状況はどうしても私は許せなかった。
しかし、桜庭綾子は「何も知らないくせに……」と呟く。
そして――
「あの男はね、私と母さんを捨てたのよ。家庭よりも、そのくだらない学説を証明することを優先するために!」
と私に言った。
「あなたたちは下がってて」
そう言って、桜庭綾子はスーツ姿のSPたちを下がらせる。
図書バー『ゲーティア』には私と彼女の二人だけになった。
ここにはボックス席はないので、一国の首脳と肩を並べて座っている状態だ。
「たしかに……さっきの記事が書かれたころの私は、あの男の研究が大好きだった。まるで、おとぎ話でも語ってくれるみたいで、すごく夢中になったのを覚えてるわ」
そう語る桜庭綾子は、いつもより若干優しい印象を受けた。
しかし、「でもね」と続ける声音は一瞬で『鉄の女』のものへと変わる。
「あいつは私が大学に入るころ……自分の研究を証明するために、海外に移住して発掘をすると言い出したのよ。体の弱い母さんと私を残してね」
「…………」
「あの男は、母さんがもう長くないと知らせても帰ってこなかった。それどころか、お葬式さえも……」
そこまで語って、桜庭綾子はマスターが用意してくれたラスティネイルを一息で呑み干す。氷の音が、二人きりの空間にカランと響いた。
彼女の言葉からは激しさはなかったものの、強い怒りと寂しさを感じる。
たしかに、私が彼女の立場だったら同じことを思うだろう。
以前、「あいつは、学説のためなら周りを顧みない……嘘つきで最低の研究者よ。本当、死んでくれてせいせいしているわ」と語ったのも本心からだったのだと今ならわかる。
だが……彼女は憎しみのあまり、本質をわかっていない。花村省吾氏の想いと、なぜ彼の研究が『異端』とされるのかを。
私は、例の論文をカウンターの上に出した。
「これは、あなたのお父さんが最後に書き残した論文です」
九龍大学の館長によれば、花村省吾氏は発掘地域の武装勢力によって銃殺されたらしく、亡くなる数日前に完成させて日本に送ったこの論文こそ、彼の遺作だった。
そんな論文を桜庭綾子は左手で受け取り、パラパラとめくりはじめた。
そして。
「……何が愛よ、くだらいない。私と母さんを捨てたくせに、よくこんなこと語れたものね」
呪詛にも近い口ぶりで、彼女は論文を私に付き返した。
きっと、何十年も前に聞いた父の学説を大人になった今でも覚えているのだろう。
花村省吾氏の説はこうだった。
人類は、一度滅んでから発展したのではなく……実は発展する必要がないぐらい平和で争いのない世界だった、と言うものだ。
論文の最期のページ。ちょうど桜庭綾子が開いてるところに、男女と思しき、白骨化した2人の遺体の写真が掲載されていた。
普通に見れば、ただの骨かもしれない。
だが、注目すべきなのは彼らの手であった。
花村省吾氏は論文と例の雑誌のインタビューでもでこう語っていた。
「こういった遺体は、人類が滅亡するその瞬間まで互いを愛しあっていた証しです。滅んだ人たちも今と変わらず高度な思考をする生き物だったのです。人類がその後発展したのは、愛する人を守りたい、支えたいという思いからでしょう」
と。
そして、彼は最後の論文を完成させる数か月前に見つけたのだ。
同じような遺体をいくつも。
これはつまり、誰かを愛する……死の直前まで好きな相手を思うという感情が古代の人々にとっては普遍的であったことを示していた。
「……桜庭さん。次は、これを読んでみてください」
私は、とある本を差し出す。
「何よ、次から次に。もうさっさとそんなもの処分して――」
そう言いかけた彼女はハッとする。
「え? これって……もしかして……」
桜庭綾子の目が驚きに満ちる。
「はい。その『もしかして』です」
私が差し出したのは、単行本サイズの――日記だった。
「これは……あなたのお父さんが死の間際まで綴っていたものです。九龍には『時の旅人』という図書館が存在していて、そこは、この世に強い想いを残して消えていった人たちの『日記』が収集されているんです」
桜庭綾子は恐る恐る日記を受け取ると、一枚一枚めくっていき……最後のページへとたどり着いた。
「すまない、二人とも。
本当は何度も会いに行こうとした。
しかし、情勢が危うく向かうことが出来なかった。
心から後悔している。
許してほしいとは言わない。
ただ、この気持ちだけは本当だ。
愛してる。
たとえここで命が尽きようとも、二人を心の底からずっと、ずっと」
「私、思うんです。あなたのお父さんの説は、愛を知っている人……愛する人がいるからこそ、人類を別の視点から見ることが出来たんじゃないかって。そして、どんなに周りの学者から異端扱いされても頑張れてたのは……愛する人たちの応援があったからじゃないんでしょうか」
桜庭綾子が私の言葉を聞いていたかは定かではなかった。
ただ――
「なによそれ……今さら、遅いのよ」
大粒の雫が、ぽたぽたと日記の文字を濡らした。