五冊目――『希望の一枚』
■五冊目――『希望の一枚』
「俺はどんな手段を使ってでも生き延びてやる。
生きて生きて、何度だって挑戦してみせる。
この世に生まれた証しを残すまで、俺は死ぬわけにはいかない!」
〇
世間が「年末だ」「仕事納めだ!」と騒いでいるころ、九龍はいつもと変わらぬ日常を送っていた。皆が思い思いに図書館を運営して、私は返却業務や本探しのために忙しくしている。
というのも、ここは日本人だけでなく中国やアメリカなど様々な国から来た人たちで構成されているので、年末に対する過ごし方が多様なのだ。
ただし、ここは一応は日本国内なので、なんとなーく忙しさを乗り越えたあとの脱力感というか、年末年始に向けたワクワク感が漂っていた。
そして、かくいう私も今日……つまり、十二月二十九日から一月五日までお休みをもらっていた。
意外なことに、ナナイさんが休みをくれたのだ。まさか前職(ブラック出版社)よりも待遇が良いなんて思ってもいなかったので、心の底から嬉しかった。
というわけで、今日からしばらくは自分の好きなことをしようと思い、私はウキウキで中央広場を歩いていた。目的はただ一つ、図書バーで優雅に読書をすることだ。
出版社時代はそうでもなかったが、九龍に来てから何かとお酒を飲むようになった。いくつも極上の本とお酒を堪能できる環境があるのが悪い。
私は大門通の交差点を東に進み、図書バー『ゲーティア』へと向かった。
〇
「いらっしゃいませ」
私がカウンターに座り、マティーニと大好きな『すすきの探偵シリーズ』の最新刊を読んでいると、重厚な樫の木の扉がギィ……っと開く音がした。
お客さんか、もしくはナナイさんが入ってきたのだろうと思い読書を続けていると、カウンターはがら空きのはずなのに、その人は私の隣に腰かけてきた。
私はナナイさんが隣に座ったのかも? と思ったが……いつまで経っても話しかけてくる気配がない。
私はチラッと本から視線を外し、隣の席を確認してみる。
するとそこには、知らない男が座っていた。
なぜ見知らぬ人が隣へ座って来たのか……考えられる可能性としては、ナンパだ。
たまにいるのだ。バーで一人で呑んでいる女性はナンパしてもいい。と思っている男が。
男はマスターにビールを注文すると、しばらく黙々と飲んでいた。
その間、私は「なんてツイてないんだろう……」と思いつつ、話しかけないでくださいオーラを全開で出して、男に背中を向けながら読書を続けた。
ところが、そんな状態が二十分ぐらい続いた頃だろうか。
「あの……」
と、頼りなさげに男が声をかけてきた。
当然、私は無視をする。
というか今、ちょうど物語が佳境なのだ。構っている場合ではない。
しかし――
「あ、あの!」
と、いきなり大きな声で呼びかられてしまった。
「……なんでしょうか?」
これ以上はバーに迷惑が掛かると思い、私は仕方なく男の方へと向いた。
歳はおそらく五十代。全体的に線が細く、頼りない見た目をしている。
「えっと……いろんな人から聞きました。あなた司書なんですよね? お願いです、どうか助けてください!」
そう言っておじさんは深々と頭を下げる。
彼は、今にも泣きだしそうだった。
「ふむ……自分の書いた原稿か」
「はい。三十年以上前に書いたものです」
ナナイさんもたまたま『ゲーティア』へ入って来たので、二人しておじさんの話を聞くことになった。
おじさんの声は今にも消え入りそうで、切実なのが伝わってきた。
そして、そんな彼の話を要約するとこうだった。
この歳になるまで結婚どころか彼女も出来なかった。おまけに信じていた友人の連帯保証人となってしまい、今では一千万円の借金を背負っているのだとういう。
人によっては自業自得だというかもしれないが、私は素直に「可哀そうだな」と思った。この世には他人からの理不尽に巻き込まれてボロボロにされることだってあるのだ。半年前の私がそうだったので、気持ちは痛いほどわかる。
……話が逸れたが、おじさんは若いころに小説家を目指していて、とある新人賞に応募したのだという。自分にはこれ以上のものは書けない、というほどの自信作だったらしい。
そして、最終選考まで作品が残ったのだが……その途中で出版社が倒産。おじさんの原稿は帰ってこないままとなってしまった。
「当時は手書きだったんですよ……だからデータなんかは残ってないし、本当に魂を削って書きだしたものだったので、そう易々ともう一度書けるものでもないんです……」
おじさんは溜息を吐き、ぬるくなったビールを一口あおった。
それから、おじさんは続きを話し出す。
彼はどうやら、最後の望みをかけて九龍に来たらしい。
借金を返済するために思いついたのが、当時の原稿を見つけ出すことだった。
「原稿が見つかれば春の菊田賞にも応募ができるし、受賞すればお金が入ります。そのまま出版されれば印税だって入ります! 何もない自分には、もうこれしかないんです……‼」
おじさんはほとんど泣きながら訴えかけてきた。
もし今年中にその原稿が見つからなければ、ガラの悪い連中によって無理やり加入させられた生命保険でなんとかするしかないようだった。
『ゲーティア』の外へ出るとチラホラと雪が舞っていた。
「……うーん、どうしよう間に合うかなぁ。今年もあと二日で終わっちゃうんだけど」
おじさんが書いた小説のあらすじなんかは聞くことが出来た。
あとは原稿をこの九龍で見つけるだけ……なのだが、そこが一番に難しい。
それに今回は、あまり時間がない。今までの傾向から、そんなに早く原稿が見つかるとも思えなかった。
だが、それでも何とかするしかないし、してあげたい。
九龍で命を救われた身からすれば、彼を見過ごすというのはありえない話だった。
ちなみにナナイさんは、「あくまでも俺は休暇中だ。暇つぶし程度に助言はするが直接は手伝わんぞ。あと、貴様が勝手にやることなので給料もなしだ」とのことで、そのままお酒を注文し始めてしまった。本当に悪魔だ。
ただ、そんな悪魔みたいなナナイさんだが一応はヒントとして目ぼしい人物の名前をあげてくれた。なので、まずはその人のところへ行ってみることにした。
私は、『ゲーティア』から真っすぐ東へと進み、第六レッドビルの五階へと向かった。
〇
図書スナック『ラピスラズリ』の扉を開くと、どんちゃん騒ぎが聞こえてきた。
普段は静々とお酒を飲みながらお店のママや従業員さんと本について語ったり、読書を楽しむ大人の社交場だ。
しかし、今は絶賛忘年会中。常連客たちが集まって、飲めや歌えの大騒ぎをしている。
そんな中、私がお店へ入ると一人の渋い男性が「やぁ、待ってたよ」と声をかけて来た。
浅田リュウ。先ほどのおじさんが応募した新人賞の審査委員を務めていた小説家で、九龍では自分の気に入った本を貸し出しつつ、自分でも執筆活動をしている変わり者だ。
何回か話したことはあっても連絡先は知らなかったので、ナナイさんにあらかじめ電話で居場所を確認してもらっていたのだ。
私は、彼とお店のママに案内されながら奥のVIPルームへと進む。
重厚そうなドアを開くと、そこには薄暗い空間が広がっていて、扉が閉まると先ほどまでの喧騒が嘘のようにスッと聞こえなくなる。代わりにスロージャズが会話を邪魔しないほどの音量で流されており、なんだかよさげな雰囲気だなと思った。
私は通されたボックス席でジョニーウォーカーのブルーラベルを水割りでごちそうになりつつ、先ほどおじさんから聞いた話を浅田先生に話してみた。
すると――
「ああ、その応募作品ね。よく覚えてるよ。もう、ほとんど受賞が決まりかけというか「これしかない」っていう雰囲気だったからなぁ」
「そ、そんなにすごい小説だったんですか?」
「うん。粗削りではあったけど、とにかく情熱的で……読んでいて気持ちのいい小説だったよ。あのまま出版されてれば、けっこういい売り上げになってたんじゃないかな」
と褒めつつ、浅田先生は「ただ、出版社の方が倒産したのは残念だったねぇ」と付け加えた。
「あの……その原稿ってどうなったか知りませんか?」
「原稿? うーん……少なくとも、僕は知らないなぁ。審査するためコピーが配られたけど、それも回収されちゃったからね。他に審査委員を務めた作家さんたちも、たぶん同じだと思うよ」
「そう、ですか……」
何となくそんな気はしていた。
ついでに、潰れた出版社の元社長の連絡先なんかも聞いてみたが、それも当てが外れた。
「まぁ、僕も作家仲間や知ってる館長たちに聞いておくよ。なんとなくナナイくんから概要は聞いてるけど、急いでるんだって?」
「はい。今年中に見つけないと、おじさんの命の保証がないみたいなんです」
浅田先生は「なるほど」と言いつつ、水割りを真剣な表情で一口飲んだ。
そして。
「あの才能を潰すなんて、あまりにも馬鹿げている。全力を尽くすよ」
と言ってくれた。
私は図書スナック『ラピスラズリ』を出ると、ナナイさんからもう一つ指示されていた図書館へ向かうべく、ルピナス小路に行ってみた。
ここは九龍にいくつもある小路のうちの一つだが、特に見つけずらい。
私も司書見習いとして働き始めて、しばらくしてから存在を知ったほどだ(まぁ、未だに行ったことのない場所の方が多いのだが)。
ルピナス小路の入口付近にある太田ビル。その地下へと伸びる階段を下りていくと、図書館『未完の大作』がある。
ここは九龍の変わった図書館たちの中でも特に変わった場所で、未完成の原稿用紙を集めているのだ。
ただ、結果的に言うとここも当てが外れた。
まがりなりにもおじさんの作品は完成はしてるので「そんなもん、うちにあるわけねぇだろ」と館長の勇作さんに怒られてしまった。
なんとなくそんな気はしていたが、まぁそれはそうだ。
ただ、こちらも必死なので許してほしい。と勇作さんに平謝りすると、彼は少し考え込んだあと「少し待ってろ」と言って、奥の自室へと去っていった。
それからしばらくすると、彼は一枚のメモ用紙を持ってきてくれた。
そこには九龍内の住所が書かれている。
「あの、これは……?」
「俺が知ってる『泥棒書店』の住所だ」
〇
翌日。
私は暇つぶしで付き合ってくれたナナイさんと一緒に、九龍の大動脈『三十六号線』をひたすら東側に向けて歩いていた。
もう一度勇作さんにもらったメモを見返すが、目的地はまだ先になりそうだった。ちなみに、ナナイさんはメモを見るなり「なるほど。たしかにこの住所ならあまり人が寄り付かないな」と納得した様子だった。
どうやらメモに書かれた『泥棒書店』は九龍の外れにあるらしい。
半年間も働いているのでさすがに噂には聞いていたが、『泥棒書店』とは正規のルートでは手に入らない本や資料を「売っている」書店のことだ。
あくまでも九龍は『図書館』なので、「本の売買は行ってはいけない」いう暗黙のルールがある。
そして、その決まりがあるからこそ、こんな違法建築&不法占拠が蔓延している九龍の存続が許されているのだ(公にはされていないが、国側も九龍が図書館として存在していることで、その恩恵を受けているらしい)。
なので、『泥棒書店』なんてものは存在してはいけないのだが……「まぁ、そういうアウトロー的なものが現れるのは世の常だ」とナナイさんは言った。
そして、そこではどんなものを売ってるかというと……高額商品となる本や資料だ。
あの冴えないおじさんの小説は、浅田先生も認めるほどだ。もしかすると「お金になる」と判断されて売買されている可能性は十分ににあり得るかもれしなかった。
ただ心配なのは……もう売れてしまっている場合と、泥棒書店はそれなりの数があるということだ。場合によっては、タイムリミットが迫る中、いくつもの泥棒書店を探し回らなきゃいけなかった。
「けどまぁ、行くしかないですよね?」
私はナナイさんにそう言いつつ、三十六号線をひたすら進んだ。
〇
五キロ四方に広がる九龍。その東の終着点……。
教えられた泥棒書店は『地球屋』という名前だった。
木造平屋の入口である引き戸は開け放たれていて、売り物なのか何なのかわからない雑多なものが店の外まであふれ出していた。
当然、「同じ惨状なんだろうな……」と思いつつ店内を覗いてみる。
すると、意外にも片付ているように見えて――
「おい、なに人の店をジロジロ見てんだ⁉」
突如、店の奥から怒声が響いて来たかと思うと、ドスドスと言う足音と共に大男がヌッと現れた。
伸び放題の髭と髪で表情はまったく見えない。背がやたら高いので、山から下りてきた妖怪か何かにも見える。だが……おそらく、この人が泥棒書店『地球屋』の店主なのだろう。
勇作さんからは「気難しい男だが、話せばわかる」とは言われていたが……今はその言葉を信じるしかない。
なので、私は――
「あ、あの……冷やかしではなく、その……買い物に来たと言いますか……」
しどろもどろになりつつ、私は数十年前に新人賞の最終選考に残ったとある原稿がないかを尋ね、事の経緯を話してみた。
店主は以外にも私の話を静かに聞いていくれたが……表情がまったく見えないので落ち着いて聞いてくれたのか、それとも怒って聞いていたのかはわからない。
それでも、私は一縷の望みをかけて店主に向かって話を続けた。
そして、その結果……。
「帰れ!」
店主からの返答は、鼓膜が痛くなるほどの怒声と拒絶だった。
〇
「くはは、痛烈な一言だったな」
「うぅ……笑い事じゃないですよ」
九龍に来て以来、久々に人から怒鳴られたので私の心臓は悪い意味でドキドキしていた。ブラック出版社に勤めていたころを思い出して気分が沈んでしましそうだ。
現在私たちは、何の成果も得られないまま、三十六号線を戻って図書喫茶『リンゴ』へとやって来ていた。
「…………」
私は自分を落ち着けるために頼んだ、オリジナルココアを一口飲む。
すると、上品な甘さによって少しだけ冷静さを取り戻すことが出来た。
それにしても……タイムリミットが近づいているというのに、無駄足だったのが残念だ。
というか、なぜあんなに怒鳴られなければならなかったのだろう。今思い出しても泣きそうでならない。
「これからどうしましょう、ナナイさん」
久しぶりに大声で怒鳴られたのですっかり意気消沈し、私はお店のテーブルに突っ伏しながらナナイさんに今後のことを尋ねてみた。
今のところ、当ては全部外れ。
浅田先生にもその後の状況を確認してみたが、芳しくない様子だった。
これ以上、どうすればいいのだろう?
もっと時間があれば、九龍中を探し回れたのに……もうすでにタイムリミットまで一日と半分を切っている。
ところが――
「ふむ、そうだな……もう一度行くしかないだろうな。例の泥棒書店に」
私とは対照的に、ナナイさんはあっけらかんと、とんでもないことを口にした。
「ちょ、ちょっと本気で言ってるんですか⁉ 絶対無理ですって! さっきの態度、見ましたよね? また追い返されるのが関の山ですよ……時間の無駄です!」
「いいや、時間の無駄などではない。貴様は、一つ大きなことを見逃しているぞ」
「大きなこと?」
私はナナイさんの言葉に首を傾げつつ、先ほどの店主とのやり取りを振り返ってみた。
すると――
「あれ? そう言えば私たち……ひと言も「無い」なんて言われてない気がします」
「くはは。貴様のレファレンス力もだいぶ上がって来たな」
「だ、だとすると……どうして私たちは「帰れ」なんて言われたんでしょうか? 原稿を買いに来たお客さんなのかもしれないのに」
「その点については、客だからこそを追い返されたのだろうな」
「? どういう意味ですか」
「貴様は見なかったのか? 店の外はだいぶ散らかっていたが、逆に店内は綺麗だったのを」
「え、ええ。たしかに、一瞬のぞき込んだだけですけど……でも、それが何か?」
「もしかするとあの店主は、どうでも良いものは売るが、本当に大事なものは整理して取っておくタイプかもしれんぞ」
「あ……ということは、私たちはその大事なものを奪いに来た『敵』に見えてたってわけですね」
一瞬だけレファレンス力の向上を褒められて嬉しかったが、まだまだナナイさんのレファレンスには叶いそうになかった。わずかな時間でここまで見抜くのは、とてもじゃないが私にはまだ無理だ。
だが私は、急いでココアを喉の奥へと流し込んだ。
そして「あとは自分でどうにかしろ。俺はそろそろ休暇を満喫させてもらう」と言ったナナイさんと別れて、もう一度三十六号線を東へと向かった。『地球屋』の店主と話すために。
再び『地球屋』へ行くと、店主がまた出てきて「帰れ」の一点張りだった。
しかし、「原稿を持ってるのはわかってます」と言うと、少し驚いたようなそぶりを見せた。
そして、ナナイさんが推理した答えを店主にぶつけてみると、彼はとうとう「チッ……ああ、そうだよ。そのとおりだ」と、認めてくれた。
そして「一つだけ条件を飲めば渡してやる」と言い、ついに原稿を持ってきてくれたのだ。
ところが――
「え? これだけ……ですか?」
店の奥から戻ってきた店主が持ってきた原稿。私はそれを見て驚愕した。
なぜならそれは……たった一枚の原稿用紙だったからだ。
しかも、その内容は冒頭だけ。
「あ、あの! お願いします……ふざけてないで、全部の原稿を返してください! 人の命がかかってるんです‼」
私は必死で頭を下げた。
ところが――
「無理だ。本当にその一枚しかねぇよ。たまたま、その一枚だけが闇ルートで流れて来たんだ」
と店主は苦々しそうに告げた。
私は一瞬、なんの悪い冗談かと思った。
しかし、すぐに店主が嘘をついていないことがわかった。
なぜなら、店の中を見ればわかるからだ。
全巻揃えられた絶版の書籍、キッチリと綴じられた日本文学の父と言われる文豪の生原稿。他にもたくさん『コレクション』が並んでいた。そのどれをとっても、欠損は一つもない。
逆に、一巻だけ抜けていたりするようなものは店の外に雑然と積み上げられている。
どうやらこの店主は、「完品は売らない」という信念があるようだ。
それなのに、この一枚だけの原稿は店の奥にしまい込むほど大事に扱っていた……そのことからも、彼が嘘をついていないのは明らかだった。
たが……そうなってくると、一つだけ気になることが出てくる。
「あの、どうしてこれは例外だったんですか?」
私は、この一枚だけの原稿がなぜコレクション入りしたのかを尋ねてみた。
すると彼は、もさもさの頭をポリポリと掻きながらこう言った。
「その原稿が、面白かったからだよ」と。
〇
翌日。タイムリミット最終日。
私とナナイさんが図書バー『ゲーティア』へ行くと、すでにあのおじさんはカウンター席に腰かけていた。
ドアが開くなりおじさんは私たちを見て、今にも泣き出しそうな顔で駆け寄ってくる。
「ああ……お待ちしていました! 連絡がなくて焦っていたんですが、原稿は見つけてくださったんですよね?」
「……ええ、一応」
私は事の経緯をすべて説明し、例の原稿を手渡した。もちろん、その一枚しか手に入らなかったことも正直に付け加えて。
「う、嘘だ!」
おじさんはほとんど悲鳴に近い声で叫んだ。そして、『地球屋』の店主が嘘をついているとまでまくし立てたはじめた。
私は、今回の話を正直に伝えたらおじさんがこういう反応を取るだろうと思っていたし、当然の反応だと思った。
しかし、残念なことにこれは冗談でもなければ嘘でもない。
私は、あの店主が嘘をついていないことに関して絶対的な自信があった。
そして……そのことを告げると、おじさんはガタガタと糸の切れた操り人形のようにその場へ崩れ落ちてしまった。
「たった一枚だなんて……意味がないじゃないですか。終わった……もう終わりなんだ」
おじさんは青ざめ、震えている。こんな様子になってしまうのも無理はない……命が掛かっていれば当然のことだ。
私は、死ぬつもりだったのに九龍によって命を救われた人間だが……おじさんはその逆だ。生きたいのに死ななくちゃいけない。こんな理不尽な話はないと思う。
ただ――
「聞いてください。あなたに、伝えなくちゃいけないことがあります」
実は私は、「原稿が一枚しか残っていない」というこの状況は問題ではないと思っていた。
むしろ、一枚残っているだけでもかなりラッキーだとさえ感じている。
「先ほど話した、『地球屋』の店主からの伝言です。「その原稿は返す。ただ一つだけ条件がある。必ずもう一度原稿を完成させて読ませろ」……と言っていました」
「……む、無理ですよ。もう僕には、あれ以上の作品は書けません」
おじさんは力なくうな垂れ、ゆっくりと首を振った。
本来なら、ここで慰めの言葉を掛けてあげるべきなのだろう。
しかし、私の……いや、私たちの想いは違った。
「……この原稿用紙をよく見てください。すごく、ボロボロだと思いませんか?」
原稿の角はすり減り、何だったらテープで修正された痕まである。これらは、地球屋の店主が何度も何度も読み返してるうちに出来たものだった。
そしてかくいう私も……この原稿を受けとってからは、何度読んだかわからないほど原稿を読み込んでいた。
それほどまでに、このたった一枚の原稿は面白いのだ。
「冒頭からワクワクさせてくれて、続きが読みたくて仕方なくなる……そんな魅力が、この中にはぎっしりと詰まっているんです。今から書けば、年明けの菊田賞には絶対に間に合います。ガラの悪い連中は、私と九龍のみんなでなんとかしますから、もう一度……小説を書いてみませんか?」
おじさんに私の言葉が届いたのかはわからない。
だが、おじさんは渡した原稿用紙をしばらくじっと見つめていた。
そして。
「僕にはなにもないと思ってたけど……こうしてちゃんと覚えてくれてる人がいて……たったこれだけの原稿なのに、楽しんでくれる読者がいたんですね」
おじさんはそう言うと、「少しだけ、考えてみます」と呟いた。
そこには、微かな力強さがあり……私は、またあの小説の続きが読めるのかと思い、ワクワクした。
そして、このあとしばらくして彼が本当に菊田賞を受賞して借金もすべて返済し、ベストセラー作家となるのだが……それはまた別のお話。