四冊目――『死して残るもの……』
■四冊目――『死して残るもの……』
「身ぐるみも何もかもを奪われた。
おそらく、私はここで朽ち果てていくのだろう。
そして、いつか私を見つけた学者あたりが「資料番号何番」と名付けて、分析するはずだ。
その学者たちは研究ノートにこう書くのだろう――「この遺体は、1890年代に死亡したホモサピエンスのオスだ」と。
それはまさに、私がこれまでしてきたことと同じだ。
だが、死を迎えようとしている今だからこそ思う。
そんな風に分析したところで、何がわかるというのだろう?
一体、その資料番号何番の何がわかるというのだ?
私が慣れ親しんだあの故郷の景色も、かつて愛した人の名前も……何一つ、わかりはしないのに」
〇
まず、振り返ってみた瞬間の感想は「すごい美人」だった。
「すみません。この図書館で、この人の名前が分ったりしないかしら……?」
と話しかけられたので振り返ってみると、そこには黒髪ロングの知的そうな女性が立っていた。
そして、手には一枚の写真を持っており、私に向けて」差し出している。
「えっと……これって、ミイラですか?」
「ええ、そうね……ミイラ、ではあるわね」
女性の瞳が寂しそうに笑う。
愁いを帯びたその表情は、見る人が見れば思わずドキッとしてしまいそうな表情だった。
だが私はそれよりも「しまった……」という思いを強く感じる。
九龍には興味本位で来る人もかなり多いが、それと同じぐらい「本気で何かを知りたい」と思ってやってくる人も多い。
そう考えると、彼女は間違いなく後者だったし、その写真の中の人が大事な存在であることは明らかだったからだ。
私は、今の非礼を心から謝罪した。
そして――
「あの。その方の名前はわからないんですけど……もしよろしければ、資料のありそうな図書館まで案内しましょうか?」
と、提案してみた。ちょうど今日の悪魔的な量の返却業務は終わったところなので、とことん付き合おうと思ったのだ。
だが、私は提案してみてから「もしかしたら、断られるかな?」なんて思った。こういう時、傷つけられた相手はどんなに厚意を示されたとしても、受け入れられないことの方が多いし、私がそのタイプだからだ。
しかし……幸いなことに、お姉さんは優しく承諾してくれた。こうして、私はお姉さんが解き明かしたい謎を手伝うこととなったのだった。
中央広場を北に通り抜け、二つ目の十字路を右に曲がり狐小路と呼ばれるアーケードへ入る。
ここは、歴史書から骨董品、果ては武将の遺体など……九龍城寨図書館で最も歴史に関する資料が集まる場所だ。そう説明すると、お姉さんは素直に関心を示してくれた。
「ありがとう、教えてもらわなければそんなことさえわからなかったわ。この図書館、本当に迷路のようだし法則性もないから、どこに行けばいいのか迷ってたの」
「その気持ち、わかります! 私、司書見習いではあるんですけど、まだ知らないところがあってよく迷うんです」
すでに九龍で働き始めて半年が経過していたが、未だにすべての図書館には行けていない。
なんだったら奥の方のエリアはまだまだ勝手に増築されているらしいので、一生踏破できる気がしない。
まぁ、そこが九龍の楽しい部分でもあり、仕事としては大変な部分でもあった。
「あ、ここです。ここの四階が目的の図書館です」
私はお姉さんの求める答えを探すべく、狐小路のにある理興ビルという建物に足を踏み入れた。
理興ビルのエレベーターは驚くほど狭く、どこに連れていかれるのかわからない不安があった。だが、それでも私は四階へのボタンを押す。
そして、しばらく上昇してから扉が開いた瞬間……お姉さんが息を呑む音が聞こえた。
「す、すごいわね……ここがビルの中だなんて信じられないわ」
私は、何度かここに来たことはあったものの、、お姉さんの言葉に同意した。
何の変哲もない雑居ビルの中に広がるのは、『九龍オリエント博物館』とも呼ばれる大図書館だった。
『九龍オリエント博物館』は、主に古代エジプトに関する資料を取り扱っている図書館だ。
しかし『博物館』と呼ばれているぐらいなので、それ以外の物も豊富に保管されている。
はるか昔にピラミッドから盗掘された金銀財宝、サファイアで作られた棺、黄金の埋葬壺 など……とにかく世に出ていない歴史的資料が多い。
そして、ミイラなんかは世界中から集めているらしく、バックヤードや他の階にまで保管されているという。
だが……結論から言うとここは空振りに終わった。
館長に例の写真を見せてみると、彼は立派なカイゼルひげを撫でながら「ああ、これは古代のミイラじゃないね。少なくとも、ここ百年前後――少なくとも十九世紀のミイラだね。悪いが、新しすぎて専門外だ」と言われてしまった。
私はいきなり出鼻をくじかれ、さっそく悪魔の力を借りなければならなくなってしまった。
〇
「ふむ、では詳しく聞かせろ」
私は早々に自分のレファレンス能力の限界を感じたので、図書バー『ゲーティア』へと向かった。
そこには例のごとくナナイさんがいて、彼に事情を話すとすぐ興味を持ってくれた。
「あの写真の人はね……私が初めて自分で発掘した人なの」
「発掘? ということは、貴様は考古学者か?」
「元、ね。今は小さな出版社で編集の仕事をしてるわ」
そう言ってお姉さんはシーバスリーガルというウィスキーを一口だけ飲むと「ふぅ……」とため息をつき、意を決したように話し始めてくれた。
お姉さんは数年前までとある大学の准教授を務めており、中東にある遺跡の発掘へ向かったそうだ。
かなり大きなプロジェクトだったらしく、同期の男性学者と二人で指揮しながら、順調に発掘を進めていたらしい。
「この遺跡で世紀の発見をして、自分の説を証明してみせる」
お姉さんはそう希望に燃えていた。
だが、ある日……遺跡内でお姉さんが一体のミイラを見つけたことで、事態は急変する。
珍しい髪色をしていたので、これは別の地域との海を越えた交流があったのではないか? とお姉さんは仮説を立てた。
この仮説を立証できれば、それは世紀の大発見となるはずだった。
ところが……この時期を境に、自分と教授に関するありえないスキャンダルや、身に覚えのない不正の話がチーム内に蔓延し始めた。
お姉さんは事態の収拾を図ろうとした。だが、一度失われてしまった信用は、たとえそれが自分のせいでなくても簡単に戻らなかったという。
「チームリーダーの地位も追われ、プロジェクトからも外されて……気づけば、遺跡でのあらゆる発見は同期の手柄になってたの」
そして……お姉さんはしばらくして大学を去ることとなってしまった。反論したり不正と戦おうという気力よりも悲しみの方が強く、自分ひとりがいなくなることで事態が収まるのなら、という道を選んだのだという。
だがある日のこと。荷物をまとめている途中、ふと倉庫の奥に目が行ったらしい。
「そこには、あの時に発見したミイラが乱雑に放置されてたの」
どうやら一番最初に発見されたミイラはその遺跡とはなんの関係もなく、近代に入ってからの侵入者だと分かったのだという。
「とにかく胸が痛んだわ」
お姉さんはもう一口だけウィスキーを飲むと、そう言った。
さぞや、無念だったろう。誰も来ない遺跡の奥で朽ち果て、さらに自分が彼を発見してしまったせいで、いまこうして適当で雑な扱いを受けている……たとえミイラが盗掘者だったとしても、こんな仕打ちはあんまりだと、お姉さんは思ったそうだ。
「きっと、自分の人生と重ねたのかもしれないわ。最初はもてはやされていたのに、やがてお払い箱扱いされたところなんかがね」
そして、その日からお姉さんは決めたそうだ。どこの誰とも知れない彼の正体を、自分だけでも知っておいてあげよう……それがせめて、誰からも見向きされなくなった自分にできることだ、と。
お姉さんは一通り話し終えると「ごめんなさい。私のこんな個人的な我儘につき合わせちゃって」と謝った。
だが、私は我儘だなんて微塵も思わない。むしろ意味のあることだと思ったし、ナナイさんも「いや、立派な探求行為だ。我儘などではない」と言った。
するとお姉さんは――
「ふふ、ありがとう」
と、始めてちゃんと笑顔を見せてくれた。
私はその素直な笑顔を見て、必ずお姉さんと共にあの写真の人物の名前を解き明かして見せよう、と決意した。
そして、これからどうすべきかをナナイさんに尋ねると、彼は図書バー『ゲーティア』のマスターに「しばらく出てくる」と告げ、九龍南大門の方へと歩き出した。
ナナイさん曰く、これから『髪』について調べに行くらしい。
「どうして髪なんですか?」
私がそう尋ねると、ナナイさんは「唯一、そのミイラの特徴とも呼べる部分が髪だからだ」と告げた。
たしかにミイラは服などを着ていなかったので、少しうねった金髪ぐらいしか人種を表すような特徴はない。
私は「なるほど」と思うのと同時に、ナナイさんのレファレンス力の高さに、素直に関心した。
〇
「へぇー、ミイラなのにフランス人とオーストリア人のハーフなんて珍しいね」
九龍南大門の近くにある『増毛図書館』の館長に写真を見せると、第一声で核心をつくことを言い放った。
「あ、あの。どういうことですか? なぜ彼が、ハーフだと?」
私はいきなりの結論に訳が分からなかったので、とりあえず尋ねてみた。
すると、館長はごく当たり前のように「え? だって、そういう髪の特徴だもん。見てわからない?」と答えた。
「この男は重度の髪マニアだ。古今東西、あらゆる髪を見てきたおかげで、これぐらい感覚でわかるのだ」
ナナイさんが言うには、館長である増毛さんは髪を心の底から愛しているらしく、世界中の髪に関するあらゆる書籍を集めるだけでは飽き足らず、髪に関する書籍も自分で発表しているそうだ。なんだか、九龍に住む人たちの底知れなさを見た気分だった。
それより。そんな館長が言うのだから、おそらく『フランス人とオーストリア人のハーフ』というのは間違いないのだろう。
ナナイさんもその推理に満足したらしく、
「ふむ、世話になったな」
と言って踵を返した。
「とんでもない。こっちこそ、いい髪の毛が見れて興奮したよ。ありがとう」
なんだか若干危ない会話を交わしつつ、次は南七条西一丁目へと向かった。
ここまでに集まってきた情報を推理すると、向かうべき場所はもう読めていると、ナナイさんは言った。
九龍南大門をそのまま北へと進み、北一条西三丁目のタイタニックビルへ入る。
ここには世界中のあらゆる入国記録を集めている図書館があるらしい。
ナナイさんは、お姉さんが発掘していた国の名前を聞くと、十九世紀にフランスかオーストリアからそこへ渡った人をとにかく片っ端から探し始めた。
当然、私とお姉さんもその後に続く。
そこまでメジャーな渡航先ではなかったので、意外となんとかなりそうだった。
そして――
「ふむ、この名前が怪しいな」
「あ、たしかに……名前はフランス系なのに、苗字がオーストリアっぽいわね」
ナナイさんが発見した名前は『ジャン・オーギュスト・シュトラウス』。
私たちはこの人物に的を絞って、九龍中に彼の軌跡がないかを調べてみることにした。
〇
――二か月後。
「お姉さんは、ここに書かれた研究を発表しないんですか? そうすれば、また研究室に戻れるかもしれませんよ?」
図書喫茶『リンゴ』で、私とナナイさん、そしてお姉さんは一冊の日記を読み終えたところだった。
そこには、『ジャン・オーギュスト・シュトラウス』が無名の学者で、いつか自分だけの発見をしようと故郷を旅立ったこと、その末にお姉さんが発掘していた例の遺跡を発見したことが書かれていた。
そして日記の最後の方には、彼がこの遺跡を発見した当時にまだ残っていた埋葬品の数々を詳細に書き綴ったスケッチと……心躍る発掘の日々の詳細、そして案内人である現地の人々に裏切られて口封じのため激しい暴力を受けたことと、徐々に終わっていく自分の人生についてが書かれていた。
この日記がどこから来たのかは不明だが、もう何年も前に八条通りのアパートの一室にある『時の旅人』の館長が、二束三文で古本業者から買ったらしい。
館長曰く、それ以前もきっとこの日記はどこかの古本屋で売られていて、それが流れに流れて九龍へとたどり着いたのだろう。と話してくれた。ここではよくある話だった。
「…………」
お姉さんは、すっかり冷めきったコーヒーをクッと飲み干すと、席を立ちあがった。
「……発表するのはやめておくわ。別に私は、手柄が欲しくて彼の名前が知りたかったんじゃないもの。あの遺跡で朽ち果てていた彼のことを、せめて私だけでも知っておいてあげたかっただけよ」
「それは、そうですけど……」
「私は、彼の名前が知れただけでも良かったし、どんな人生を歩んだかまで知れたからもう十分。もし、あなたたちが彼の発見を公表したいなら、好きにして。私も、世界のどこかでそれを聞いてるから」
そう言ってお姉さんは三人分のコーヒー代をテーブルの上に置くと、図書喫茶『リンゴ』を去っていった。
〇
結局、私もナナイさんも『ジャン・オーギュスト・シュトラウス』の発見をどこかに発表することはなかった。
だが時折、私は『時の旅人』の近くを通った時に、あの日記を読み返しに行っている。
そして読み返すたびに、こんな思いにふけるのだ。
ナナイさんはともかく、私もいつかはこの世からいなくなる。
そしてそうなった時、自分がどんな人生を歩んで、どんな人を愛したのか……そのことを誰に覚えておいてもらえるのだろう、と。