母として。
もう、自分の気持ちは、凛に向けて真っ直ぐに進んでいた。
「凛を愛してる。」
翔は、あらためて、確信した。もう、未来に向けて歩んでいこう。凛と夫・悦史との間は、破綻している。これから先を考えるキッカケを杏奈がくれた。
「ご飯作って待ってる。」
凛の言葉が嬉しかった。きっと、自分の好きな食事を用意して、待っていてくれるだろう。翔は、運転を急いだ。仕事も、スムーズに終わり、優奈との約束のメロンパンも、プリンも駅ビルで買った。後は、二人の待つマンションに帰るだけだった。
「優奈の奴・・。驚かしてやろう。」
翔は、特大のプリンを用意していた。
「それで・・。あいつとは、どうするつもりなんだ?」
凛は、ずーっと、泣いていた。今更、夫に自分への思いを告げられても、答えられなかった。裏切られて、冷めてしまったこの心。全てを諦め、ようやく、新しくスタートできると思っていたのに、夫が帰ってきた。自分を愛せという。そんな都合のいいように、自分の気持ちは、変えられない。やっと、悦史への気持ちに整理がついたのに。愛人との関係を清算し、帰ってきた。翔となら、生きていける。そう思った矢先なのに。紙切れ1枚が、凛と悦史を結びつけている。
「お願いがあるの。」
思い切ってみた。
「別れて欲しいの。」
涙が止まらない。優奈も、凛が泣いているのを見て、涙ぐんでいた。何て、母親なんだ。自分が、嫌になる。
「何度も、言ったろう?優奈は、渡さない。」
「パパ・・。」
優奈が、泣き出した。
「ママと居たいの。」
「悦史。勝手すぎるよ。今更、どうして?」
悦史は、二人を見ていた。
「凛。一緒にいられないのか?もう、間に合わないのか?」
「ひどい。」
答えられない。心は、翔を求めている。悦史が愛人と一緒にいる事で、翔と優奈との将来を考えていた。でも。今は。
「あなたが、戻ってきたら、私は、どうしたらいいの?」
何よりも、優先しなければいけないのは、何か。凛には、わかっていた。
「ゆう・・・。ママは、どうしたら、いいの?」
「ママ・・。ゆうは・・。」
優奈は、小さいながら、両親の争いを聞いていた。凛が翔に魅かれているのも、わかっていた。自分も、翔を慕っていた。だが、父親は、この世でただ、一人だった。
「ゆうは・・。パパとママと一緒にいるのが好き。」
泣き出していた。声をあげて。小さな我が子が現実を受け入れ、母親の気持ちを考え、それでも、本当の家族を望んでいた。
「ゆう・・。」
悦史も、涙ぐんでいた。自分勝手な行動で、わが子を苦しめていた。自分が思っているより、子供は成長していた。母として、子供の幸せを考えるのが最善ではないか。翔を愛している。でも、かけがいのない我が子より、優先させる存在は、ない。人として、我が子が、最優先ではないか。翔なら、きっと、わかってくれる。
「ゆう。ごめんね。ママが悪かった。ゆうの事、一番に考えなきゃだよね。」
「そうだよ・・。」
聞きなれた声がした。
「翔・・。」
凛も悦史も気付かなかった。マンションの鍵を持つ翔が、リビングに現れていた。
「それがいいんだよ。」
落ち着いていた。翔は、何もなかったように、優奈にお土産の特大プリンを差し出した。
「約束のプリン。ゆうとの約束は、全部守ったよな。」
メロンパンも、渡した。
「これは、返すよ。」
鍵だった。悦史に渡した。
「もう、必要ないから。」
凛とは、目を合わせない。
「翔・・。」
追えなかった。凛は、翔を目で追っていた。翔には、誰も寄せ付けない雰囲気があった。顔もよく、見れなかった。悦史も、翔からの鍵を受け取り、何も言えないでいた。
「お兄ちゃん。」
優奈だけが、玄関に走っていった。
「帰るの?」
「そうだよ。」
翔は優奈の微笑みかけた。哀しそうな微笑だったと、優奈は、思った。
「もう、来ないの?」
翔は、それについては、答えなかった。
「優奈。幸せになるんだぞ。」
「お兄ちゃん・・。」
静かに、ドアは、閉まっていった。再び、優奈は、泣き出すだけだった。それから、しばらく、翔からは、メールも、電話も、何も連絡がなくなっていた。彼は、職場から、姿を消していた。