杏奈の恋。
力なく振り落とされた左手をすり抜け、携帯は落ちていった。次第に吸い込まれていく携帯に、何ら未練がなかった。あの携帯には、翔との思い出が詰まりすぎている。
「だーい好き。」
仕事中に来た翔からのメール。幸せも悲しみも全て翔からだった。何度も携帯を開け、メールの確認をするのが日常になっていた。翔が、杏奈の生活の全てになっていた。
「いないとダメだよぅ・・。」
力が、抜けていった。体が、杏奈の魂が、生きていく事を拒否し始めていた。
もし・・・。自分が、死んだら、翔は哀しんでくれるのだろうか・・。
愚かな考えだと思う。翔は優しい。こんな別れてしまった自分でも、翔は、悲しみ苦しんでくれるだろう。そして、きっと、自分の事は胸に刻んでくれるだろう。そして・・。そして・・。
「翔・・。」
杏奈は、泣き出した。胸に棲むことは出来ても、一緒に年をかさねる事はできない。きっと、翔は、その時、狂ったように哀しむだろう。でも、その後、彼の隣には、別の人がいる事になるだろう。
「そんなの・・。」
翔無しで、生きて居たくは無い。だけど、自分のいなくなった後で、翔が、幸せに生きていくのも、嫌である。
「翔・・。」
嗚咽をあげて、杏奈は泣き出した。どんなに、どんなに、望んでも、相手の気持ちを変える事はできない。追いかければ、追いかけるほど、翔は遠い存在になっていく。このまま、下界に吸い込まれて行ったら、どんなに、楽な事か・・。
「大丈夫?」
後ろかた、声がかかった。
「杏奈さん。泣いているの?」
振向くと、翔と同期の蓮が立っていた。
「なかなか、帰ってこないからさ。」
そっと、手を差し出すのだった。
「危ないよ。」
「ほっといて!」
杏奈は、蓮の方へは、行こうとしなかった。
「何があったかは、わからないけど・・。」
蓮は、杏奈の傍に、座り込んだ。胸ポケットから、タバコを取り出した。
「最近さ・・。肩身が狭いんだよね。俺ら、タバコ好きな奴は、いく場所がなくてさ。」
1本取り出し、火をつけた。
「そこさ・・。落ちると大変だよ。」
杏奈は、改めて足元を見下ろした。豆粒サイズの人々が行きかっていった。
「せっかくキレイな顔なのに・・。ぐちゃぐちゃになるよ。落ちるとさ・・。」
「!」
杏奈は、あわてて、後退した。
「でしょ。そんなに、本気で悩む事なんて、ないんだよ。」
眩しそうに、タバコをふかしながら、蓮は、見上げた。
「時間が、たてば、忘れる。そんなもんだよ。」
蓮の吐き出す煙が、風に散っていくだけだった。