イキテイタクナイ
ビルの上から、見下ろす下界は、全く別の世界にも、見てとれた。水面の下を、覗き込むように、杏奈は、下を、見下ろしていた。生暖かい風が、吹き上げ、杏奈の髪を掻き揚げていった。足元で、行きかう車も人も、この世のものとは、思えない。何も、現実のものとは、思えない。杏奈は、翔に、携帯をかけていた。
「翔?」
何度、呼び出しをしても、彼が、出る事は、なかった。出て欲しい。何度も、そう思い履歴から、翔への、番号を検索し、掛け直すのだが、昔のように、
「どうしたの?」
優しい声で、翔が、出てくれる事はなかった。最早、絶望に近い感情だった。想像が、妄想を、うんだ。
「何処にいるの?」
それは、判っていた。
「あの人。」
そう、凛の元に違いない。はっきりと、言った。
「諦めた人。」
諦めたのであれば、行く筈がない。
「嘘だよ・・。」
杏奈の、胸は、認めたくない嫉妬の炎で、荒れ狂っていた。
「今頃・・。」
もしかしたら、翔と凛は、一緒にいる。一緒にいる二人が、何をしているか、杏奈には、想像できた。手が、届かない。自分には、どうしようもない。想像は、次第に大きくなり、杏奈は、気が、くるいそうだった。
「フタリヲヤメサセタイ」
どうすれば?・・。杏奈は、ビルの、屋上にいた。12階の上。ビル風が、巻き込み、海上からの、風を、運んできた。
「杏奈。」
二人で、海に行ったのは、何年前だろう。翔は、前日、ボードを買っていた。
「挑戦する」
そう言って、前日買いこんだ格安の、ボード。少し、傷が、ついていたが、多分すぐ、傷がつくからと、翔は、それを選んでいた。風の強い日に、海に行った。パラソルが、何度も、あおられ、飛ばされそうになるのを、杏奈は、必死で、手で押さえていた。ボードに、乗りながら、翔は、杏奈の様子を見ていた。
「結局、パラソルと格闘していただけじゃん。」
翔は、笑った。砂浜に、ボードを置いて、寝そべる翔の、背中に、砂で、字を書いた。その時も、こんな日が、クルなんて、考えてなかった。自分は、限りなく、翔に、思われていると、思っていた。それが、今、電話するにも、相手を疑う間になろうとは・・・。
「翔・・。」
何回めかには、留守録に切り替わっていた。
「翔?」
杏奈は、話しかけた。
「もう、終ったの?それなら・・あたしは。」
ぐらっと、体が、傾いた。午後の、日差しが、眩しかった。携帯は、杏奈の手から、すべり、眼下へと、落ちていった。
「それなら・・。あたしは。」
杏奈は、天を仰いだ。
「イキテイタクナイ」
小さな音を立てて、携帯は、車の下に、消えていった。