もう、戻れない。
嫉妬の炎が、ちりちりと、胸を焦がし続けていた。
「もしかしたら・・・」
そう願いつつ、コンサート会場の入り口で、翔の姿を探したが、見当たる訳もなかった。見逃したのかもしれない。そう、思いながら、中を、覗き込んだり、携帯を握り締め、かけるかどうか、何度も悩んでいた。
「終ってるんだよ・・・。」
本当は、判っていた。翔の気持ちが、離れていくのが、もう、自分を、みつめる翔の目に、自分に対する愛情を、見出すことは、出来なくなったいた。それでも、自分が、愛されるより、愛する事を、選びたかった。その為には、どんな手をつかってでも、翔を繫ぎ止めたい。そんな思いね形を、替えていった。まだ、少しでも、翔が、自分との時間を作ってくれるうちに・・・。あわてて、出てきた時には、晴れていた空も、時間が、経つに連れ、雲行きが、怪しくなってきた。陽は、陰り、雲の色は、雨色を、含んでいった。空気が、湿っぽさを帯びてきた。アスファルトの、湿った匂いが、立ち上がり、路面の色が、遠くから、艶めいてきた。足元を、生暖かい風が、抜けていった。
「雨だ・・・。」
虚しい杏奈を、あざけり笑うように、雨が、降り出していた。
・・・・来るわけがない!・・・・
誰かが、笑った。そんな気がした。ポツンと、きた雨足は、杏奈の、肩先を、ぬらして行った。雨を避ける場所が、他にも、あるのに、杏奈は、動かなかった。否・・・。動きたくなかった。
・・・・自分が、動くキッカケがほしい・・・
それは、間違いも無く、杏奈を、迎える翔の笑顔であり、腕であった。でも、それは、最早、望めそうに無い。
・・・翔なんか、いなくなってしまえばいい・・・
恐ろしく、呪いの声を吐いた。自分と一緒に居てくれないなら、不幸に堕ちるがいい・・・。
誰しも、陥る妬み・・・。自分の心は、恐ろしく、醜く、爛れている。こんなのは、望んでいなかった。
雨が、杏奈の顔を、打ちつけた。見上げると、雲は、空一杯に、広がり、額から、しずくとなって、流れ落ちた。そして、自分の中で、何かが、はじけ、熱いものが、流れ始めていた。今まで、こらえてきた心の澱が、春の雨に打たれ、溶け出しているようだった。醜くただれた杏奈の、心にも、雨が、降ってくる。あざけり笑うように、振り出した雨は、今、杏奈の癒しとなって、降り注いでいった。
「翔・・・。」
もう、どんなに、待っても、翔は、来ないであろう。あの時、褒めてくれた靴を、はじかれた泥が、哀しい染みをつけていった。
「もう、行くから」
凛は、目で合図をすると、翔の車から降りた。朝、一緒に、乗り合わせたモールの、駐車場。運転席に、身を沈め、上目遣いに、凛を、見送ると、彼女が、車の、エンジンをかけると、同時に、ウィンカーをあげ、静かに走り出した。
「また。」
翔は、そう行った。「「また」」それは、次の、約束にも、聞えた。フラワーパークでの、時間は、幻想的だった。誰かに見られるかもしれないという不安もあったが、すぐに、それは、忘れてしまった。花々が、自分達の身長よりも、高く、周りを埋め、視界は、赤や、白い花に、囲まれていた。中でも、感動したのは、大藤の棚だった。
「こんなの、初めて!」
興奮した凛は、いつしか、翔の腕を、掴んでいた。
幾重にも重なった幹は、地中から天に向かって伸び、その枝は、空一杯に広がり、青空からの、光を遮断していた。代わりに、そそぐのは、藤の白い花の香り。ひんやりとした甘い微香が、鼻をくすぐり、騒々しい世界を、忘れさせてくれた。
「綺麗」
「それを、言ったのは何回目?」
「覚えられない。でも、綺麗!」
藤の白さは、葉の、緑が、それを、きわただせていた。藤といえば、紫が、一般的かと、思ったが、ここは、白い藤が、多かった。空の光と、反射しあい、凛の目には、忘れられない光景となって、焼きついていった。
「きっと、忘れられないと思う・・。」
「忘れるつもりだったの?」
翔は、意地悪く応えた。
「ねぇ・・・。あの時は、はずみだったの?」
「何が?」
気がつくと、翔の顔が正面にあった。笑ったり、おどけたりしている癖に、真面目な顔で、凛を、見ていた。
・・・これ以上はさ・・・
凛の心が、ブレーキをかけろと、叫んでいた。
・・・戻れなくなる・・・
翔の唇は、少し、厚いと思う。優しく触れながら、凛は、唇で確認した。舌先で、そっと、表面を、触れると、今度は、本当に、恋人達が、普通にするように、重ねあってしまった。花々の垣根に、隠れるように、翔は、凛の後頭部を、抱きかかえ、優しく、長い髪を、かきあげていくのだった。
「もうさ・・・。」
ようやく、唇が、離れると、翔は、言った。
「戻れないな・・・。」
深いため息が、漏れた。