2 母と鳥
寝所を別にする母恋しさに、高いびきで眠る乳母の腕を抜け出て、部屋を飛び出した夜のことだ。
暗闇も静けさも怖かったが、誰にも見つからないように渡り廊下の下を屈んで駆け、母の寝所を囲う庭園まで辿り着いた。乱れた息を整え、ようやく会えると胸を高鳴らせた時、寝所の傍近くに人影があることに気が付いた。ぎょっとして身を隠し、恐る恐る覗くと、それは母だった。
嬉しさよりも驚きが勝り、自分の目が信じられなかった。
母は先日病に倒れ、目通りも叶わぬほど具合が悪いと聞かされていたのだ。だからこうして会いに来たわけで、元来病気がちで部屋に籠もりがちな母が立って、まして外にいる姿など、もう長い間見たことがなかった。
母は夜空を見上げていた。
つられて見上げると、驚いたことに闇夜にもかかわらず一羽の鳥が飛んでいた。
更に不思議なことに、鳥の姿は白く光って見えた。
鳥は、まるで母を宿り木にするか迷っているように、旋回を続けた。
しかし結局、鳥は飛び去ってしまった。
「母上」
母の傍に十分近寄ってから、なるべく小さな声をかけた。
自分の幼子がいるとは思わなかった母は、青ざめてその場にへたり込んだ。
「申し訳ありません。驚かすつもりはなかったのです。お立ちになれますか?お加減はもうよろしいのですね。外におられるのですから。あの、母上。お聞きしたいのですが、あの白い鳥は一体なんだったのでしょう?私はてっきり、母上の元に降りてくるのかと思ってしまいました。とても綺麗な鳥でした。父上も御覧になれたらよかったのに」
「アオイ、今見たことは内緒。誰にも話してはいけません」
「何故です?」
「いいから」
舌っ足らずで話す我が子に、母は念を押した。
「お願い、どうか内緒にして。そうだ。二人だけの秘密にしましょう。いいでしょう?」
「ひみつ?」
「そう、秘密」
「分かりました。母上と私だけの秘密ですね」
嬉しかったのを覚えている。
「母上、もうあの鳥は見られないのですか?」
「ええ」
「戻ってきませんか?」
「ええ、二度と」
「どこへ飛んでいったのでしょう」
「…」
「母上?」
母は、声を立てずに泣いていた。
驚いて何も言えなかった。
泣き顔など見たことがなかった。
病弱だが、心の強い人だった。
どれほど苦しくても、愚痴や泣き言ひとつない、気丈な人だったのだ。
立ち尽くしていると、母は突然激しい咳とともに倒れ込んだ。
すくに人を呼び、布団に寝かされたが、その顔色は土気色で、ああ、もう駄目なんだと思った。
翌日、母はあっけなく息を引き取った。
戻ってきたのか?
朦朧とした意識の中、アオイは鳥に問いかけた。
母上に会いに来たのか?すまないが、私は母ではない。お前の宿り木ではないのだ。
死にかけているというのに、アオイの心は穏やかだった。
最期に母を思い出した為かもしれない。
死ねば、母に会えるかもしれない。
ならば死も悪くない。
そう思った。
頭上を舞いつづける白い鳥を見つめながら、アオイは意識を失った。