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彼の細い指が優しく私の顎を持ち上げる。
『リーシャ、僕の頭の中を君で満たしたい』
「セディ……」
ベアナから帰ってきたセドゥリウス殿下は、任務を差し置いて私に一番に会いに来てくれた。二人きりになった我が家の庭の隅で、セディはそう言った。
彼の本当の心の中はやはり計れないが、ただ向かい合った彼の目は真剣だった。そんな彼に心臓が高鳴る。
『今まで、すまなかった』
どうして彼が謝ったのか、分かったような、分からなかったような、複雑な気持ちだった。
空中に舞うキラキラ光る文字が消えていく前に彼は私を抱き寄せた。彼の顔が近づいて来るのが分かった。私はそれを拒まなかった。間近で見つめ合い、そして私は目を閉じた。彼と初めて重ねた唇は優しく、一瞬だった。
心臓の音がセディに聞こえてしまわないかと心配になるほど、ドキドキした。
「胸が……苦しい……」
彼を見つめる瞳を一度閉じると、涙が頬を伝った。セディはわずかに首をかしげた。
「好きすぎて……セディのことが好きすぎて……胸が苦しい」
すると、彼は私の片手をそっと取り手の甲にキスを落とすと、跪いた。
『リーシャ、君を一生大事にする』
夢ではないかと思うほど、嬉しかった。セディが本気でそう言ってくれているような気がしたから、本当に嬉しかった。
「私も……殿下を……一生お支えします」
次々流れ出る涙に耐えながら、私も伝えた。
ベアナで彼にどんな心境の変化があったのかは分からない。
だけど、私の想いが通じたのだと思うと、彼への想いが胸の奥底から次々に溢れ出していく。
ありがとう、セディ。
ありがとう、セディ。
私は何度も心の中で唱えた。
『リーシャ、婚約の儀、楽しみにしてる。もう、そう言う間柄なのだから、僕の執務室にはいつでも顔を出して欲しい』
帰り際にそう言った彼が、僅かに笑ったように見えた。
「ありがとうございます、殿下」
セディが我が家を去って行った後も、先程の幸せなひとときを思い出しては、私は顔を綻ばせた。
そして、自室に戻るとドレッサーの引き出しから、小さな瓶を取り出した。これは、今は亡きセディの母ファーラ様から頂いたもの。「生涯セディをお支えします」と誓い、受け取った。そして、今再び自分に言い聞かす。
———-生涯セドゥリウス殿下を傍でお支えする。
すると、早速セディのために何かしたい、という衝動にかられた。———と言うよりは、私がセディに会いたいだけなのかもしれないが。
さっきの今で、セディの執務室を訪れたら流石に引かれるだろうか。
もし、忙しそうなら、従者の方に渡して貰おう。
一人娘の私のために両親が作ってくれた庭には、私の大好きな花や植物が所狭しと植っている。ハーブや花、草花から実のなる木まで多種多様だ。
その庭に降りて、侍女のルーマーの意見も聞きながら、小さな花束を作っていく。
目で見て、そして香りで癒されるような……それでいてそんなに主張しない存在の花束を。そうだ、それに見合う花瓶も用意しなければ。
セディのためにこうやって考えて動けることが楽しくて幸せで仕方ない。しかも、いつでも会いに来ていいと、彼は言ってくれた。
今までは、彼の気持ちが私にあるとは思えず、近付き過ぎると迷惑になるのではと、傍にいたい気持ちをずっと抑えていたのだから、その反動が大きくなっているのかもしれない。
「王太子殿下、セドゥリウス殿下」
王城に入り、セディの執務室に行く途中で逆方向に歩く二人に出くわし、礼をとる。
「リーシャ、今日はどうしたの? 図書室かい?」
まず話しかけてくれたのは、ギャリーだった。
「い、いいえ。その……」
視線をセディに向けると、彼と目が合った。その途端、先程のキスシーンが回想され、急に恥ずかしさに襲われた。思わず彼から目を逸らしてしまう。
すると、俯いた私の肩を誰かがポンポンと叩いた。誰か———そうやって会話の合図を出すのはセディしかいない。
私は顔を上げた。
『花を持って来てくれたのだろう? 今から陛下にお会いする。執務室で待っていてくれて構わない』
愛想はないが、魔法文字の言葉は優しく、それだけで私はまた彼にときめいてしまう。
「セドゥリウス殿下、ありがとうございます。ご迷惑でなければ、今日は時間がありますので執務室でお待ちしております」
『いい香りの花をありがとう』
セディは頷くと、そう空中に書いた。それにまた胸がキュンとなる。
私は自然と彼に微笑んだ。
そして、「失礼致します」と二人に挨拶をし、お互いにその場を立ち去ろうとした。
「リーシャ」
お互いがすれ違おうと歩みを進めたその時、ギャリーに呼び止められる。
反射的にギャリーの顔を見上げると、彼の顔は少し強張っているように見えた。
「リーシャ、その……もし……。
………いや、……何でもない。ゆっくりして行ってね」
「お気遣いありがとうございます、殿下」
また、いつもの笑顔に戻ったギャリーに言葉を返すと、真っ直ぐセディの執務室へ向かった。
持参した花束を小さな花瓶に挿し、セディの机上の隅に置くと、なかなかなものだと自分を自負した。
「このお花たちでセディが少しでも癒されてくれると良いのだけれど」
「きっと殿下もお喜びになりますよ、リーシャ様。では、私は外に居りますので」
ルーマーに「分かったわ、ありがとう」と告げ、私は執務室の隅にある椅子でセディを待つことにした。
どれ程待っただろうか、かなり待ったと思う。昼過ぎにここを訪れて、今は……既に陽が傾き出している。窓の外を見ると、夕暮れに近付いた景色に思わずため息が出た。
「きっと、セディは忙しいのね。さすがにこれ以上待っていても意味がなさそうだし、ルーマーにも申し訳がないわね」
セディが机の花をどんな風に喜んでくれるのか、反応を見たかったのだけれど、仕方がない。
残念だなと思いながら椅子から腰を上げた———その時、執務室のドアが勢いよく開いた。
「セ……」
「セディ」と声を掛けようとしたが、そんな空気ではなかった。
セディは、入ってくるなり真っ直ぐ机の方へ向かい、椅子に腰を下ろすと頭を抱えた。首を左右に荒く何度も振っては、感情を押し殺せない風に机を拳で叩いている。
誰もいないと勘違いしているんだわ。
彼がこんなに感情を露わにしている所を見たのは子供の頃以来だった。
彼の感情を乱している原因が何かなんて分かるわけもなく、私はセディにどう接するべきか迷った。
でも、こんな時、もし夫婦であったなら、いや夫婦でなくても、彼のために私がすべきことは……。
私はセディにゆっくり近付いた。幸い彼は私が椅子に座った彼を抱き寄せるまで私の存在に気付かなかった。ふと顔を上げたセディは「誰だ?」とばかりに私と目を合わせた。怯えているような彼の目を見つめたまま、彼の後頭部を優しく撫でる。
声を掛ける権利など私にはなかった。ただ彼が落ち着くのを待とうと思った。
何があったかなんて、別に私に話してくれなくてもいい。ただ、こんな時こそ、あなたの支えになりたい。それだけだった。
———のに、彼は私の腕を振り払った。
思わずよろけた私は窓際の壁に寄りかかる。
セディはというと、ギュッと目を閉じて何かに耐えているようだった。
「ごめんなさい……。
でも、こんな時……セディが誰かの助けを求めている時……、私はあなたのそばに居たい。もし気が変わったら私を呼んで下さい。私はセディのためならすぐに飛んで参りますので」
「……」
「私はあなたをお支えすると決めたのです。……でも、……今日はこれで失礼致します……」
「……」
目を閉じて俯いたままのセディは、何の言葉も返さなかった。
私は彼に背を向けると、執務室を出た。
堪えていた涙が溢れ出す。
セディが私で満たしたいと言ってくれた今日の言葉を信じてしまった自分に腹が立った。やっぱり違ったのかと。悔しくて、どうにもできないこの想いを吐き出せずにいることが辛かった。
でも、諦めたくなかった。セディに寄り添いたい。セディの役に立ちたい。
こんな事で挫けてはダメよ、リーシャ。
きっと、セディも私を受け入れようと頑張ってくれているはず。私たちは、夫婦になるのだから。ただ、彼はその気持ちが揺らいでいるだけ。そう信じよう。
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次話もがんはりめす!
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