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第八章 猛火の残夢




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八章 猛火の残夢








‡・†・‡・†・‡・†・‡






 あれは遠い国の話。海の向こうの世界。

 もしもふたりの出逢いがちがったならば、あたしたちはどんな関係を築いたのだろう。


 赤く燃える建物をながめながら、あたしはぼんやりとそんなことを思っていた。

 人々の悲鳴が聞こえる。その空間のなかで、銃声も。空襲にあったかのような有り様が目の前に広がっていた。

 廃墟だったその建物は跡形もなく燃えて、影だけを異様に濃くしている。組織の人々は散々に逃げていく――壊滅。



「こんなとこでやってられっか」

 文句を吐いて、さっそく男が逃げていく。組織の金を奪い逃亡する人間も、組織から抜け出せて自由を手にする人間もいた。

 あたしはすこし離れた木陰で、それらをじっと見すえていた。




「あんたのせいね」

 唐突に声がした。けれど驚きも動揺もない。

「ちがうわよ」

 落ち着き払った声で告げ、あたしはデジルに向き直った。

 恐ろしいくらい荒んだ目をした彼女がいた。髪は煤だらけで、頬や腕に擦り傷を負っている。脱出するときにでもできたのだろう。

「どういうつもり」

 その目があたしをにらみつけ、今にもつかみかかろうとしているのがわかった。

「別に。みんなを幸せにしてあげただけよ」

 口の端に小さな笑みをのせてやる。それは相手を苛々させるには充分な態度だった。

「このガキ――」

「あたしは組織を抜ける」

 振りおろされた腕をつかみ、にらみかえす。怖さなんてちっともなかった。

「こんな狭い世界に縛られたくはない。あたしはあたしで生きる」

「なら勝手にあんたひとりで抜ければいいでしょ。組織をこんなことにして――」

「だって、フィリップ王子を狙うじゃない」

 太股に巻いていた布から、すっとナイフを取り出す。

「あの人は、殺させない――あたしが守る」

 デジルはいっぱいに目を見開き、すぐに手を振り払って距離をとる。あたしは追わずに、じっと立っていた。

 廃墟の燃え火がごうごうと唸り、その熱が伝わって頬を熱くする。それすらあいまいな感覚に思えるなかで、あたしはただ手にしたナイフに目を落とした。




 これで、デジルを殺す――そうすれば、フィリップ王子は救われる。

 でもきっと、あたしはもう彼の前に姿を見せることはできないだろう。手を血に染めた汚いあたしは、きらびやかな王子さまの目に触れるべきじゃない。

 それでもいい。

 あの王さまにむかない、慈悲深い彼が国王として過ごしていくのを、風の便りで聞いて生きていけたらそれが本望。

 それ以上は望まない。


 よかった。彼のセイレーンにならなくて。人魚姫になりたい。

 王子さまを殺さず、自らが泡となることを選んだ、人魚姫になれればいい。


「さよなら、王子」

 口のなかでそっとつぶやく。そのまま走り出した。

 デジルもナイフをどこからともなく取り出し、構えるのが見えた。

 ――ちらつくのは、あの緑の瞳。深くたたえた、あのエメラルドに見える瞳。それが頭にちらつき、離れない。

 ナイフを顔の前に構え、低い姿勢でぐっと飛び出した。

「ばかね、あんたは」

 弾き飛ばされる。デジルは余裕の笑みでこちらを見下ろす。それでももう一度切りつける。

「わたしに勝てるはずないでしょ。それにね……」

 腕をナイフの刃がかすめ、一瞬じっと熱い痛みが襲った。

「こんなことをしたって、あの王子さまは救えない!」

 ――え?

 一瞬、その言葉に動きが鈍った。そしてそれをデジルが見逃すはずもなく、あたしのナイフは手を離れて宙を舞う。

 息が荒い。肩で息をしながら、じりじりと彼女と距離をとった。

 デジルはくるくると手のなかでナイフをもてあそびながら、ニタニタと顔を歪め、近づいてくる。それは妖艶にさえ見えた。

「あの王子さまの命を狙っているのは組織じゃない。依頼者だよ。わかってる?」

 きらめく銀の、人の息の根をとめるためだけにつくられた道具が――それがあたしに狙いを定めた。

「どうせこんなことをしたあんたも殺されるんだよ、リア。あんたは知りすぎた」

 苦しい。

 あえぐように息を吸う。

「王子さまが死ねば、アンタは用なしになって、生きれるかもしれないけどね」

 悪魔のように笑って、デジルはそう言った。

 苦しい。苦しい。苦しい。

 あたしは彼を助けられない。組織を潰すだけではいけないって、わかってたけれど。

 どうすればいいの。こんなところで、死にたくないよ――。

「最期だから教えてあげるよ。王子さまの暗殺を依頼したのは――城のなかの人間だよ」


 心臓が、軋む。

 たしかに、あたしは知りすぎた。フィリップ王子の暗殺を依頼した人間から、あたしも命を狙われるかもしれないということは、百も承知だ。根本を断たなくちゃいけないことくらい、知ってる。

 けれど、まさか依頼主が城の人間だったなんて。

「あんなにおやさしいと名高いフィリップ王子さまにも、恨みをもつ人間はいるんだねぇ。もしくは権力のために消されるんだよ……皮肉なことにね」

 だれか、助けて。彼を裏切らないで。


 あたしは知ってる。彼は他者のためにやさしい人間になろうとしていること。

 だれよりも大きな愛で、人々に接していること。

 この王国を、将来やさしい国にできるのは彼しかいない。彼ほど王さまにむいていない、心やさしい人間はいないもの――だから。

 彼の道を邪魔しないで。


「バイバイ、リア」

 涙が、空に散った。







‡・†・‡・†・‡・†・‡





「そこまでだ」

 突如轟いたのは、はっきりと響く彼の声。それはときに柔く甘美なやさしさをたたえた声音になるけれど、またあるときには鋭さと凍てつくような冷たさを持って響き渡る。

 赤と黒を基調とした制服に身を包んだ兵隊を連れてやってきたのは――まぎれもないフィリップ王子。

 ざっと三十人の城の衛兵たちがずらりと並び、その前には毛穴みのよい馬にのった青年――フィリップがいた。

 兵士の隊長らしき人物の手には縄が握られ、その縄は組織のボスであった人間を吊しあげている。しょぼくれ、その男は観念したかのようにうなだれていた。



「散々に逃げた人間たちはみんな捕まえさせてもらったよ」

 フィリップの言葉に、デジルがうめくのが聞こえた。悔しそうに、憎々しげに声をつまらせる。

 やがてカランとナイフを地へ落とし、両手をあげて降伏した。

「取り抑えろ!他に逃げている奴はいないか捜せ。あとの者は鎮火にあたれ」

 隊長らしき人物の命令に、兵士たちがさっと行動を開始する。

 そのなかで、ひとりの青年だけは静かに馬をおり、あたしの目の前までやってきた。そのままあたしにそっと手をさしのべる。



 どうしてここにいるの?

 涙で視界がかすむまま、そっと彼を映す。今どんな表情でいるのかわからなかったけれど、気持ちが高ぶって思わず抱きついてしまった。

「リア、おつかれさま」

 やさしくあたたかい声音。大きな手があたしの頭をなでていく。

「お願いだから、もう勝手なことはしないで。僕の心臓がもたない……」

 くすっと笑い声がした。崩れた顔のまま、かまわずに彼を見上げる。

「やっと暗殺組織を見つけてさ。今夜奇襲をかけようと計画していた折り、その組織の隠れ家が火事だという情報が入って……やっぱり君だったか」

 やっぱり、フィリップ王子は一筋縄ではいかない。ただにこにこ笑う王子さまじゃなかった。

「ごめんなさい……」

 そっとその胸に顔をうずめる。ぬくもりをひしひしと感じながら。









‡・†・‡・†・‡・†・‡




 紫がかったあたしの瞳が好きだと、彼はそう言ってくれた。それからなにかささやいたけれど、睡魔に勝てなくてなんて言ったのかわからなかった。

 ふんわりとしたベットに寝かされたのはわかった。けれど身体はこれまでにないほどぐったりと疲れていて、なにをする気にもなれない。目もあけられず、ただそばにいる彼の気配に酔っていた。

 そのあたたかい手が、あたしの頭をさらさらとなでていく。それが心地よくて、されるがまま眠った――ずっと。

 できれば、目覚めたくなくて。次に目をあけたとき、あたしは彼のもとを去ろうと思っていたから。



 ああ、けれどそのまえに。暗殺を依頼した人間が城のなかにいることを告げなくちゃ。それから、ずっと幸せになってと、言わなくちゃ。

 あなたに逢えて幸せだったと、歌にのせて伝えたい……。




「僕はやっぱり、国王にはなれないな」

 目の前に、悲しい顔をしたフィリップ王子がいた。ぼんやりとする意識のなかで、これは夢だと感じる。

 そんな悲しい顔、しないで。笑ってほしいのに、どうしてそんな泣きそうな顔をするの。

「僕はね、この国よりも――君のほうが大切になってしまったんだ」

 彼の瞳はやさしい。相変わらず、やさしい。

 フィリップ王子のその言葉はすごくうれしいのに、どうしても手放しでよろこべない。

 だって彼は、やっぱり泣きそうに見えるから。どうしてそんなに悲しいのか、まったくわからなかった。

 この顔は、そうだ。

 あたしが彼に向かって「あなたの暗殺者をやめる」と言ったときに見せた、あの物悲しいほほえみ。

 どうして?なぜ、そんな顔をするの?



「君が大事なんだ、リア」

 涙がこぼれて、やまない。こんなにうれしいことって、ない。

 ああ、だけれど、あたしはあなたの前から姿を消さなくちゃ。仮にもあたしは、あなたの暗殺者だったんだもの。あなたのそばにいる資格はない。

 いっそあなたが殺してくれる?

 きっと無理ね。あなたはやさしい。だからあたしを殺しはしないだろう。

 ならあたしは、あなたのためにこの命を使いたい。あなたの前から姿を消して、そうして影からあなたを護る……そう決めたの。

「ずっと、リアは僕の支えだった……はじめて君の歌を聴いた、その日から」

 そんなもったいない言葉を、あたしはもらう資格なんてないのに。うれしくて涙が出る。

 フィリップ王子はにっこりと柔く柔くほほえんだ。

 うれしいよ、とても。けれど……。

 どうしてだろう。やっぱり素直によろこべないのは。

 うれしい反面、心のなかに取り消せない切ない塊が巣食っている。

「君の歌を聴くのが好きだった。あたたかくて、切なくて、心地よかった……ずっと」

 ずっと?

 今までも、これからも、ずっと?

 嘘ね。なんてやさしく、残酷な嘘をつくの。胸の苦しみはさらに増すのに。

 どうして、あたしはこんなに悲しいの?



 ああ、そうか。別れてしまうからだ。

 このよろこびも、一時的なものだと知っているから。どうせあたしには、彼を独り占めにできる力も資格もない。大好きな彼の前から姿をくらませなくてはならない――。

 だから、うれしいけれど悲しいんだ。




「リア」

 生温い唇が、そっと触れる。

「好きだよ、リア」



 ――嘘。




 バッチリと目をあける。身体はガタガタと震えた。

 わかったよ、王子さま。

 あなたが悲しそうにほほえむのは、もう逢えないと思っていたから。別れを悲しんでくれたから。

 きょろきょろと辺りを見回す。そこはあの人魚の絵画のある部屋だった。大きな窓は開け放たれ、朝日がまぶしく部屋に入り込んできた。

 あたしはベットに寝かされていた。そばにはだれもいない。

「フィリップ王子!」

 夢じゃなかった。現実だった。

 さっきの言葉も、彼のほほえみも――キスも。



 涙がとまらなかった。震える指先に、真珠のように涙の粒が落ちる。

 たまらない、恐怖だった。










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