第七章 赤焼けの絵画
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七章 赤焼けの絵画
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静かな夜は、必ずしも平穏なわけじゃない。嵐の前の静けさのごとく、その沈黙のあとには想像もしない怒濤の出来事が待っているかもしれない。
今宵もそんな夜な気がした。
山々から送られてくる風を頬に受け、そっと髪をはらう。亜麻色の髪が糸のように風に舞った。
たしかに、事実だ。あたしが捨てゴマであることは、事実だ。そして、暗殺者が王子のもとに現れるというたれこみがあったということも。
ならば、だれが?
そんなの、組織の奴らに決まってる。そして、あたしの代わりに依頼を全うするよう命じられた人間はただひとり。
軽く息を吐く。気持ち悪くて目眩がした。
信じてた、というのはおかしい。けれどあたしは、彼女を疑わなかった。
「そうだよ。なにか問題でもあった?」
言及すると、彼女はあっさりと答えた。しれっとした態度で、平気に薄笑う。
「なによ、それ。あたしのことを心配するフリして、最初から騙してたのね。最低だよ!」
怒りが込みあげてきた。城から帰る間にしんしんと雪のように積もった怒りは、やがて熱を持ちはじめる。
「わざとなんでしょう。あたしを仕向けて、アンタが王子を殺す役だったんでしょう……最初から」
「わざとだとか、騙すだとか、ちょっと違うわよ、ソレ」
口の端をきゅっと引き上げ、デジルはにやりと笑みを浮かべる。猫が鼠を狙っているような、そんな表情だ。
あたしは城から帰ると、さっそく組織のデジルの部屋にやってきた。今は廃墟となった館を陣取って組織の連中で好きに使っている。そこが今の組織の基地だった。
そこに与えられた部屋に、あたしたちは住む。入ると、デジルはほころびたベットの上で待っていたように足を組んで座っていた。
そのなんの悪びれもない態度に頭がきて、あたしはさっそく問いつめたというわけだ。
「なにをムキにやっているのかわからないけどね。わたしははじめから忠告したじゃない。アンタはオトリで、死ぬかもしれないから、やめておけって」
「死ぬのは暗殺が失敗したらでしょう!」
癇癪を起こしたように叫ぶ。殴り飛ばしたい衝動に駆られた。
「失敗するに決まってるじゃない」
デジルはせせら笑い、つづける。
「まさか成功するなんて本気で考えていたわけないでしょ。言ったよね。失敗は許されないと」
屈辱的だと言ってもいいかもしれない。そんな感情がじわじわと競り上がってきた。拳を握りしめ、彼女をにらみつける。
デジルは癪にさわるような笑みを浮かべたまま、じっとあたしを見ていた。観察されていたと言った方が正しい気もする。
まるであたしの怒りを楽しむかのように舌舐めずりして、デジルは口を開いた。
「責任をとるのはわたしなの。アンタみたいな甘ちゃんになにができるというの。邪魔しないでほしいわ」
「あたしは……あたしのことはどうでもよかったのね」
悔しさが込みあげ、目頭がじんわりと熱くなる。泣いてたまるか。
ぎりっと奥歯を噛みしめ、耐えた。
「リア、あんたなんのつもりよ」
今度はデジルがじとりとにらみつけてきた。冷笑を浮かべていたが、その眼はすこしも笑ってない。
「あんたはわたしのなんなわけ。家族でも恋人でも友人でもないじゃない」
つきつけられた言葉はひどく残酷だ。
わかっていた。組織のなかに絆なんてないと。思い知ってたはずだった。
「あんたもう邪魔なのよ」
嬌笑ともとれる笑みを浮かべ、デジルはこちらを見上げた。
「明日、仕留めないなら――あんたも王子さまも、わたしが殺すから」
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落陽。 赤く染まる夕日を見つめていた。
今日中にやらなければ、あたしは死ぬ。
掌に落としたナイフを見、泣きたくなった。鋭い刄は肉体をいとも簡単に引き裂いてしまうだろう。
どうすればいいのかなんて、まったくわからない。けれど確実にわかることは――あたしはもう、王子さまを殺せないということ。
あたしにはできない。
だけど、あたしがやらなくても他のだれかが彼を狙う。そんなこと、痛いくらいわかっている。どうすればいいのよ。
苛々する。
この世界は想像以上に醜くて。
「フィリップ王子……」
もうすこし、あなたという人が知りたくなった。それはおかしなことかしら?
灰色のマントをすっぽりとかぶり、歩き出す。夕日を背にして、影をつくりながら。
どうすることもできないまま、ただ時間だけが無情に過ぎていく。あたしはおいてけぼりをくらったみたいに立ち尽くすしかないのだろうか。
世界は広いと、以前彼は言っていたけれど。あたしの知っている世界はとてつもなく無意味でつまらないもののように思えてくる。
ああ、だけどやっぱりあなたはちがうお人なのか。フィリップ王子の周りは、なんだか居心地がよくて、なかなか抜け出せない。一度離れたって、また近づきたくなる。
理由なんてわからないけれど、これを心惹かれると言うならば、うれしい。それはおかしなことなの?
うれしかったんだ。あたしの歌で、救われたと言ってくれたこと。たとえ嘘でも、うれしかった。
やっぱりあたしは歌が好きだ。改めてそれを知れたのは、彼のおかげ。
彼はあたし自身の知らなかったリアを発見させてくれる。
フィリップ王子が言っていた、『セイレーン』というものを調べてみた。
美しい歌声で船乗りを破滅へと導く怪物だとか、誘惑して船もろとも沈めてしまう妖女だとか、報われない欲望を美声にのせて災いを呼ぶ魔女だとか。
フィリップ王子は誉め言葉で言ってくれたようだけれど、あたしは不吉な予感を抱かずにはいられなかった。
たしかにセイレーンの歌声はうつくしく、聴くものすべてを魅了するのだろう。
けれど、その歌声を聴いたものは――海の底へと葬られる。その妖美な歌声に蠱惑されたばっかりに。
あたしは暗殺者だ。フィリップ王子を葬る道具。それはたとえ捨てゴマだとしても変わりはない。
拳を強く握りしめ、祈るように歩いた――フィリップ王子のいる、そこまで。
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部屋には涼やかな風が入ってきていた。夜風に近いそれは肌寒いと言っても過言ではあるまい。
昨晩と変わりない部屋だった。質素なテーブルにソファ、それから壁にかけられた人魚の絵。
緋色の椅子に深く腰かけ、彼は言葉通り待っていた。
裏地が深緑のマントをはおり、ルビーの宝石を散りばめた服を着ていたが、その髪は無造作に崩されていた。どこからかの帰還らしく、すこし疲れがうかがえた。
腰につけていた銀の鞘に収まっている剣をはずし、そっとそばの棚へのせ、ふっと軽く息をはいた。
「今日は会議があって遠出していたんだ……今さっき帰ってきたとこ」
あたしの無言の問いに答えるがごとく、彼はまたため息をこぼしながらそう言った。
椅子をすすめられ、彼と向き合う形であたしも座った。視線が重なり、かすかな戸惑いを覚える。
間抜けな話だった。フィリップ王子はあたしのために、律儀にバルコニーから梯を下ろしてくれていたのだ。「また殺しにくるといい」と言っていたが、彼はいったいどんな考えでそう言ったのだろう。その真意は?
よくわからない。だからこそ、知りたくなるのかもしれない。
しばらく窓から夕焼けをながめていた。赤く染まる丘をながめ、黒い鴉が親子で飛んでいくのを見守った。燃えているように熱い景色なのに、どこかもの悲しく、切なさに胸をしめつけられるとはおかしなことだ。
それが終わりというものなのだろう。一日の終わりに向けて、太陽はいよいよ色濃く沈んでいく。最後にその存在を大地に知らしめるように、熱く燃えながら。
それが終わりというものなのだ。
なぜか目頭が熱くなる。このままずっと見つめて、その日が丘の向こうに沈み、やがては残り火のような赤々しさもなくなってしまったら……あとに訪れる夕闇は、燃える色など皆無だ。
真っ暗闇を連れてくる。それをこのままじっと見つめて待つことなど、あたしにはできない。したくなかった。
「……そういえば、リアは海を見たことがないと言っていたよね」
ふと、フィリップ王子が夕焼けに目を向けたまま尋ねてきた。
「うん。どんなものなの」
以前、海を語る彼はすごくきらきらして見えた。あたしもその世界を、かいま見たいとさえ思ったほどに。
フィリップ王子は微笑を浮かべ、こちらに目を戻すことなく、話し出した。
それはどこか懐かしく、うれしそうで、それでいて――悲しそうだった。
ドキリと心臓が不吉な予感を感じとる。今すぐにでも暴れ出して、なにもかも消し去りたい――あたしとフィリップ王子だけ、ふたりだけになりたい――そんな衝動に駆られた。
「僕の母がこの国に嫁ぐ前にいた母国には、大きな絵画があったらしい。城の中心のタペストリーかなにかがたくさん飾ってあるその一画に、海が描かれていたんだ」
指を顎にあてて、懐かしむように彼は話しはじめた。その断片を見たくて、あたしも想像する。
「海底の絵だったらしい。けれどそこは暗闇ではなく、明るいエメラルドグリーンの世界だった……母はその絵画を詳細に憶えていて、僕にいつも聞かせてくれたんだ」
海に沈む海賊船、黒い大きな岩、ピンクの珊瑚にオレンジのヒトデ、黄色や赤、淡い青に色を帰る魚たち……それらがエメラルドグリーンの水中の世界を彩っている――フィリップ王子はうっとりと言葉を落とした。
それはまるで、おとぎ話のような世界。
「なかでもひときわ母の心を奪ったのは、金髪の髪をした美女だった。上半身は人間で、下半身は魚の、貝殻を髪飾りにした女性だった」
それまで外をながめていた眼が、すっとあたしを見た。強い引力で引きつけられるがごとく、たちまち動けなくなる。
「それが人魚だったんだ。母はすぐに彼女に魅了され、そんなうつくしい生き物のいる海にあこがれた」
うつくしい人魚――幻の生き物だ。伝説では恋した王子さまを殺そうとして、結局その愛ゆえに殺せず、海の泡となって消滅してしまった人魚姫。
広い海。そしてどこまでも深い。それはどんなものなのだろう。
「やがて母はこの国に嫁ぎ、僕が産まれた。僕が十歳の誕生日を迎える日、母とともに念願の海を見に行ったんだ」
言葉を失ったんだ、と彼は苦笑した。かつての自分がどこか滑稽に思い出されたらしい。
「もちろん金髪の人魚はいなかったけれど、すばらしかったよ。ああ、だけど君を近くで見たとき――海の匂いを感じたんだ。まるで人魚が人間に化けたのかと思った」
人魚は歌もうまいと聞く。遠回しに誉められたのがわかり、気恥ずかしくなった。
「あたしは、金髪じゃないわ……たしか、あなたの弟君でひとり金髪の方がいるじゃない」
恥ずかしさをまぎらせるため、顔を背ける。窓からさし込む夕焼けの光のおかげで、頬の赤みが目立たないことに感謝した。
「第六王子さ。たしかにあの子はだれもがうらやむ美を持っているだろうね」
「そうね。人魚姫みたいに」
含み笑いをして、互いに目を見合わせる。どちらからともなく、吹き出してしまった。
「これも人魚の絵よね」
ふいに壁にかけられていた絵に目がいき、尋ねた。やはりきらきらした金髪の美女が、明るいブルーの魚の尾をひらりと振っている絵だった。
「そうだよ。母が外国の商人から買いつけたんだ。他の部屋や回廊にもあるはずだよ。僕も気に入っている」
フィリップ王子もにっこりしながら答えた。
不思議な時間だった。まるで古い付き合いの友人のように、ふたりでとりとめのない話をした。
だれがあたしたちを暗殺者と王子さまだと思うだろう?
このまま時間がとまればいいのに。
だってあたしは、彼を殺したくはないもの。殺す理由が見つからないの。
はじめから、殺すことなんてできなかったのかもしれない。はじめて彼に会って、その瞳を見た瞬間から、なにもできなかった。毒牙なんてとうの昔に抜かれていたのよ。
そっとその瞳を見つめる。深くあたたかで、どこか鋭い瞳。
その瞬間、あたしの心は決まった。
「フィリップさま」
彼の名を呼ぶ。強く、自分を支えるために。
「あたし、あなたの暗殺者をやめるわ」
暗殺を迷うということは、もうしたくないということ。今日だって、きっと心のなかでははじめから決まっていたんだ。
あたしにだってわかるもの――あの人を殺すのはまちがっているってこと。
この国にだって、フィリップ王子の暗殺は百害あって一利なし。彼は王国に必要な人間だ。依頼者の理由がどうであれ、あたしにはできない。刺客になりきることなんて、あたしには無理だ。
それなのに今まではっきりと口に出して言葉にできなかったのは、あたしが自分の命にすがっていたから。どうしても自分のことだけしか、死の恐怖しか頭に入ってこなかったから。だけど……。
もし、フィリップ王子を殺して、あたしだけが生き残ったら?
ぞっとした。それは死ぬことよりも恐怖に近い。きっと生きていられない。
それ以前に、あたしは彼を殺せないだろう。その命を奪う瞬間、きっと手は動きをやめる。それがわかる。
だから、せめて後悔はしたくない。
ねぇ、フィリップ王子。
あんたほど、王さまにむいていない人はいないんだ。そして、あんたほど王さまになるべきだという人も。
壁にかけられた絵画が夕日を浴びて赤く染まる。それが次第に、闇に包まれていく。
それを目の端で捕えながら、王子が物悲しくほほえむのを、不思議な想いで見つめていた。