第四章 猖狂の夜
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四章 猖狂の夜
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――静かだ。
空はくもっていて、星なんて見えない。月も闇に隠れ、顔を出さない。雨が降りそうだ。
賑やかな舞踏会とは裏腹に、こちらはとても静かだった。沈黙が辺りを占め、気配すら絶っているよう。
髪色を戻し、真っ赤なドレスを脱ぎ捨て、あたしは灰色のマントをかぶり、闇に溶けこんで歩く。衛兵すらいない道は、不気味なほど静かだった。
罠かもしれない。見張りがいないなんて。
それでも、もうどうでもよかった。あたしはもう、いらない子なんだから。
失敗は死――それはつまり、はじめからあたしは殺される予定だったんだ。
初仕事が第一王子暗殺だなんて、ちょっとおかしいと思ってた。だけど、みんなそういうものなのかなと、あまり気にしなかった。
けれど、今日、デジルは暗に教えてくれた――あたしは最初から、成功するなんて思われてないって。
よく考えればわかることだ。王子暗殺だなんて、腕のいい暗殺者じゃなくちゃ成功なんてできない。つまりはじめからあたしは視野に入ってないということ。
「暗殺者が捕まれば、そいつが拷問されるでしょ。その隙に他の人間がターゲットを暗殺しちゃうの。その、暗殺者――オトリが捕まった日のうちにね」
デジルは感情の読めない声で淡々と言った。その表情は仮面に隠れて見えなかったけれど、あたしには笑っているように思えた。
「翌日からは警戒するかもしれない。でも、暗殺者が捕まった直後は――すこしの油断ができるのよ。まぁ、オトリが暗殺を成功させてくれれば、別に問題はないわね」
ガタガタと震え出す身体を、止めることができなかった。彼女の言葉は異様な重みを持ってあたしを貫く。
「失敗は死を意味する――つまりね、捕まれば組織は助けない。渋って殺せないなら、組織に邪魔だとして消されるの」
ああ、取り乱しちゃいけない。わかってた。けれど、悔しさや惨めさや腹立たしさで涙が出てきた。
悲しかった。
あたしははじめから、ただのオトリだったんだ……。
「それでもやるの?」
デジルは仮面をはずす。その眼がじっとこちらを見つめて離さない。
「――やる」
馬鹿かもしれない。だけど、きっとどうしたって変わりはないんだ。
今夜彼女に仕事を任せたとしても、組織にいる以上また依頼がくる。そしてあたしの役は、やっぱりオトリなのだろう。
ならば王子暗殺という大役をこなし、認めさせればいい。暗殺者として、その名を知らしめればいい。
それがあたしが生きていくための条件なのだから。
デジルの次の言葉を待たずに歩き出した。ただ目指すは、第一王子フィリィップさまの寝室。
マントを着込んで闇にまぎれ、音もなくゆく。
懐には鋭いナイフを忍び込ませ、心を冷たく保つ。
失敗は許されない――そうでしょ?
忍び込むのは簡単だった。隣の部屋から警備の手薄な王子の寝室のバルコニーによじ登る。
窓は開いていた。
レースのカーテンがさらさらと風にそよいでいる。まっくらなその部屋に、あたしは躊躇うことなく足を踏み入れた。
ベットに近づき、そっとのぞき込む。そこにはすやすらと眠っている王子がいるはずだった。
しかし――
「こっちだよ」
驚いたってもんじゃない。心臓が飛び出したかと思うほどバクバクいった。
唐突にふりかかった声に焦り、きょろきょろと見回す。すると、ちょうどあたしが入ってきたバルコニーに、人影が見えた。
「リア、やっぱり君か」
その人物――風邪で寝込んでいたはずのフィリィップ王子は、優雅に手摺に身を預け、立っていた。
計られたのだろうか。なぜあたしが来るとわかったのだろう。
あからさまに、あたしは待ち伏せされていたのだ。
「海の匂いがしたから、もしやと思ったんだが……まずいな」
なにがまずいと言うのだろう。それならあたしのほうが言いたいくらいだ。
見つかってしまった。待ち伏せされていた。それはつまり、あたしが暗殺者だと……すくなくとも、不審者だと疑いようもなくなったということ。
失敗したんだ。
「騒がないで。衛兵が外の部屋で待機しているんだからね」
ナイフを取り出したあたしを見やり、彼は驚きも動揺もなくそう言った。
このまま殺ってしまおうかとも考えたが、もし彼の言うとおり衛兵がいるのなら、今ここで騒を起こせば確実にあたしは捕まってしまう。
あたしは死にたくない。
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じっと彼から目を離さず、動きをやめる。頭のなかでは焦りや苛立ちや不安が渦になって荒れていた。
ちょっとの間彼は思案していたが、やがて顔をあげ、にっと笑った。
いぶかる暇もなく、彼はバルコニーの手摺に足をかけ、上のバルコニーによじ登る。
ぎょっとした。まさか王子さまがそんなことをするなんて、思ってもみなかったから。
フィリィップ王子の姿が消え、あたしは呆然と立ち尽くす。どうしたらいいかなんて、まったく見当もつかなかった。
逃げられた――そう思い当たり、急いで彼を追おうとバルコニーに出る。
「ここまでおいで」
見上げる。階下を見下ろし、にこにことほほえむフィリィップ王子が顔を出していた。
ここまでおいで?
かちんときたあたしは、その言葉通りに実行してやった。
ご丁寧なことに王子さまは上から布をたらしてくれていたので、それを使ってよじ登る。ムカムカして、気分は最悪だった。
「ご苦労様」
にっこり微笑を浮かべるその整った顔をにらみつける。酌に触る。
罠なのかなんなのか知らないが、わけがわからない。あたしはただの歌姫ではないとわかったはずなのに、彼は顔色ひとつ変えないのだ。 ただすらりとした足を伸ばして、ベットに腰かけていた。
「リアはとても素直だね」
くすくすと失笑ぎみに笑うと、彼はそのまま品定でもするかのようにあたしを見やった。
広い部屋だった。明かりはほとんどなく、ベットのそばのランプがほのかに光っている程度だ。質素なテーブルに深緋のソファがあり、そして天外つきベットがある。壁には人魚の絵がかけられていた。
「なぜあたしだとわかったの」
マントをはぎとり、顔を見せる。バレているなら、隠す必要などない。
「言っただろ。海の匂いが――」
「ふざけないでよ」
懐からナイフをすばやく取り出し、彼に向ける。声はかすかに震えた。
海の匂いだなんて、知らない。そんなこと、だれからも言われたことはない。
嘘だ。彼は嘘をついている。
あたしを油断させるためか、なにかをはぐらかすためかわからないけれど、そんな子供じみた嘘にはもう騙されない。
海に匂いなんて、あるわけないじゃない。
「……本当だよ」
フィリィップ王子はやさしくそう言った。
動揺も焦りも戸惑いも恐怖も、なにもない。そこにはただやさしさしかなかった。
目を細め、彼はゆっくりと口を開く。
「情報があってね。今夜僕を殺しにくると……それで急遽待機ってわけ。下の部屋の外では衛兵たちが僕の合図を待っているんだ」
ぐちゃぐちゃだ。心はめちゃめちゃだ。
最初から計画通りだったのだろう。歌姫としてあたしを城に忍び込ませ情報を探らせ、あとはオトリにして捨てる―― シナリオ通りだったんだ。
フィリィップ王子を殺す役目はあたしじゃない。デジルだったんだ。
なんだったのかな。あたしは。
人を殺せとはじめて言われた日、あたしは眠れなかった。相手がフィリィップ王子だと知って、さらに不安は募った。
それでもなんとか気持ちを封じ込め、暗殺者になりきる決心をしたのに。
なんなのかな、あたしは。
「君は最初から、捨てゴマだったんだよ」
フィリィップ王子がはっきりと声を落とす。見やると、強い緑色の眼があたしを見つめていた。
ああ、だけど。そんなこと、言われたくなかった。知りたくなかった。
はじめからあたしはいらない子だったの?
だいきらいだ、こんな世界。不公平よ。
なぜ彼はきらびやかな世界で他人に恭しくもてはやされ、守られて生きているのに、あたしは自分を捨てて暗い道にいかなくてはならないの?
だれがこんなふうになりたくてなったっていうのよ。あたしははじめから暗殺者になりたかったわけじゃないのに。
死にたくないよ。いやだ。
なら、どうする?
「だからもうあきらめて――ッ!」
口を開いたフィリィップ王子に、あたしは躊躇うことなく襲いかかった。
懐から取り出したナイフをぐいっとかざし、切りつける。彼は突然の攻撃に驚いたようだが、すぐにナイフをかわした。
――なめないでよ。あたしだってただの女として生きてきたわけじゃない。
避けた身体を立て直される前に、あたしはもう一度横にナイフを滑らせる。
――アンタを殺すために、あたしは必死だったんだ。何度も何度もシュミレーションして、頭のなかでその身体に刄を埋めた。
空をきった刃物。またしても避けられたが、そのまま蹴りを彼の足に撃ち込む。攻撃というよりは、不意打ちを狙った。
――体術だって毒学だって学んだ。あたしはアンタを殺すために、日々そうやって過ごしてきたんだ。
フィリィップ王子はバランスを崩した。宙に浮かぶ身体。あたしはチャンスを逃さなかった。
――歌姫なんかじゃない。ただの人殺し。それになりはてようと必死だったあたし。それが無駄だったなんて、わかりたくなかった。
王子の身体を、あたしはそのまま王子の後ろにあったベットへと押しつける。なすすべなく倒れた彼に、そのまま馬乗りになった。
息が荒い。気分は言いようのないほど高ぶっている。
ああ、やっと見れる。恐怖に引きつる彼の顔が――。
「殺してあげるよ、王子サマぁ」
死にたくないよ。あたしは。
だからあんたを、殺してあげる。
狂った愚か者と呼ばれてもいい。あたしは死にたくないんだよ。
生きることに執着しているわけじゃない。あたしはただ、死の恐怖に勝てないだけ。
先の見えない暗闇に囚われるくらいならば、いっそ先の見える真っ暗な道を取りたい。
死――それはとてつもない恐怖だった。
「殺してあげる」
冷たく言い放ち、じっとその緑の瞳を見つめる。
「ねぇ。そのきれいな瞳を、濁らせてあげるよ」
不敵に笑った――すくなくとも、あたしは笑ったつもりだった。
それはもはや――狂喜。