第二章 王子様
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二章 王子様
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暗殺計画は、三年後に実行するよう命じられた。国王が亡くなって、ターゲットに王位継承が移ってからだと言われた。
三年のうちに、何度か城に呼ばれ、歌を披露した。そのときすこしずつ城の配置だとか構造、人間を調べた。
三年後……あたしが暗殺を成功できるように。
「見事な歌だったよ」
にっこりと笑みを浮かべ、彼はいつもと変わらないまなざしをこちらへ送る。それを受け止め、にっこりと微笑する。
――心からうれしい、というように。
軽くウェーブのかかった亜麻色の髪を高く結い上げ、真っ赤なドレスを着込み、宝石でジャラジャラに着飾ったあたしを見せる。
組織のなかでも、この美貌は誉め称えられていたから。
彼は深い緑の瞳をそっとひそめ、こちらをじっと見つめる。エメラルドみたいな、とてもきれいな色だ。
「君の瞳は、紫がかっているんだね。紺色に見えたりするけれど」
「あら、よくお気づきですね」
内心驚く。だって、この紫がかった瞳の色は、なかなか気づけないものだから。彼は鋭い――だから、いつもヒヤヒヤする。
三年――あたしはやっと、彼とはじめて会話をしている。
いつもは遠くから見て、二言三言お誉めの言葉をもらうだけだった。何回も城に呼ばれるため、信用を得るため、努めて謙虚に、あたしはすばらしい歌姫を演じた。
その努力の結果とでもいうのだろう――とうとう、彼から声がかかったのだから。
「フィリップさま」
ぺこりとお辞儀し、あたしはにこりとほほえむ。
すらりとした身体に、明るめの茶色の髪、そして深く穏やかな瞳……物腰は柔らかで、申し分ない美男子が今、あたしの目の前にいる。
カスパルニア王国第一王子・フィリップさま――彼の評判は地方にも伝わっている。慈悲深い人柄も、その端正な顔立ちも。
裏地が緋色のマントをはおり、彼は銀の椅子に腰かけていた。部屋にはなめらかな木の丸テーブルと、宝石で彩られた棚などはあったが、王子の部屋にしてはシンプルだ。
ふと目を横に向けると、窓には深い紅のカーテンがひかれており、天外つきのベットのそばにはロウソクがともっている。
明るい茶色の髪を横に流し、彼は長い前髪の隙間から緑の瞳をのぞかせた。やさしい深みをたたえ、その眼はじっとあたしを射る。
こんなことは、よくあることだ。貴族なら、まして王族ならなおさらなのかもしれない。
気に入った女と一夜をともにすることくらい、この世界では珍しいことではないもの。あたしがその対象に入ったって、おかしくはない。
いや、むしろ対象になるために、今まで三年間も歌姫をやっていたといっても過言ではない。ボスもデジルも言っていたのは、こういうやり方だったんだから。
当時のあたしは、まだおこちゃまだったけれど、今は十七。王子さまはあたしより年上のはずだから、そういう関係になったっておかしくはない。
手が震える。
ああ、情けない。
怖いという感情は、消したはずなのに。なにを怯えるのだろう?
はじめてだから、なんて言葉は言い訳にすらならない。そんな貴族の箱入り娘みたいなこと、言えやしない。
彼に目を戻す。
にっこり笑いながら、フィリップ王子はあたしを見つめていた。
「君がはじめて城にきたときから、ずっと惹かれていたんだ」
甘い言葉で、女を釣って。何度そうしてきたのだろう。
「歌声はすばらしいよ。めったによろこばない僕の異母弟も、感動していた」
「ありがとうございます……」
声が上ずる。顔が引きつる。
落ち着け。なんのために、ここまできたのよ。
「怖い?」
くすりと笑い、彼はそっとあたしの腰を引き寄せる。
「ヤ」
無意識に拒絶の声が出てしまったが、すぐに呑み込んだ。両手を彼の胸に置く形で抱きとめられている。
心臓がひどく煩い。熱い。
彼は依然柔く頬を緩めたままで、あたしを見つめる。
その視線は甘く、彼に腰砕けになる女の気持ちはなんとなくわかった気がした。
もし、この視線を独り占めできたら――それはなんと魅惑的で、快感的なのだろう。甘い痺れに酔い、その瞳を虜とできたなら……。
「僕の父がね、一ヶ月ほど前に死んだんだ」
ぐいっと手を引かれ、ベットに押し付けられる。明かりは消され、燭台だけがほのかな光を発している。
「僕が王となるのは、もうしばらくしてからさ」
にっと笑い、彼はあたしに覆い被さった。
「なぜかわかる?父王の死は……もしかすれば他殺だからさ」
ハッとする。その言葉に反射して、身体がかすかに震えた。
国王が亡くなったのは、知っていた。デジルが殺したのだ――毒を使って。
けれど、まさか見破られるなど……
「父は立派な王だが、女グセが悪くてね。気に入った美女ならだれであろうと妾にしてしまう」
皮肉的に口元を上げ、フィリップはため息をこぼす。馬乗りになられている格好のまま、あたしは彼を見上げるしかない。
「父は香水をつけないのに、死体からは香水の薫りがしたんだ。けれど女といた形跡もない……死に方が流行り病に似ていたけれどね。ちょっとおかしいだろう?」
彼はあたしの頬を冷たい指でなぞり、くすっと笑う。そしてしなやかな身体をまげ、顔を近づけてきた。
緑の深い瞳が、迫ってくる――。
彼はあたしの首筋に顔をうずめた。
亜麻色の髪を撫で上げられ、生温い感触が首筋を舐め上げる。思わず、身を縮めた。
――恐い!
怖かった。はじめて、あたしは自分の本当の気持ちを知った。
死にたくないから相手を殺すだとか、自分の身を犠牲にしてまで依頼を受けるだとか、そんなこと、平気なわけはない。そこまでして、組織にいたいわけじゃない。
組織にいれば、生きていける。お金も入るし、不自由することもない。楽して生きていける――だからあたしは、組織の依頼をこなさなければならない。
……そう、自分に言い聞かせてきた。けれど。
本当はいやだった。怖かった。平気なわけ、ないじゃない。
この三年間は、幸せだったのかもしれない。三年という猶予のなかで、ただフィリップ王子だけを目指して生きていればよかった。彼にさえ集中していれば、あたしはただの歌姫でいられたんだ。組織はそうやって扱ってくれたから。
でも、もしあたしがこの身を捧げ、暗殺を果たしたら?
あたしは組織から大いに誉められるだろう。そうして次の依頼がくる。
次第に自分を犠牲にすることに戸惑いを感じなくなり、ただ依頼のために生きていくのだろう。
組織の人間は、みんなそうだから。
居場所がない……あたしには、ないのよ。組織以外に、考えられない。
ならばあたしは、そこにいるために、やるしかないじゃない。
恐いだとかいやだという感情を殺して、暗殺者になるしかないじゃない。
捕まれば死刑。バレても斬首。
チャンスは巡ってこない――自分でつくらなくては。
「――フィリップ、さま」
震えはおさまった。声もしっかりしている。
彼が首筋から顔をあげ、そっと目を細めてこちらを見る。
薄暗い部屋のなか、かすかな隙間から月光がさらさらと流れて、彼の瞳を光らせた。
どうすればいいのか。誘い方なんて、わからない。
デジルが言ってた――ただとろんとした目で、相手を見つめろって。そしたらあとは、相手が勝手にやってくれるって。
楽しめばいい。
アンタは今夜死ぬんだから。
「フィリップさま……」
うっすらと唇を開けて、彼を見つめる。
――あ、きれい。
やさしい瞳のなかに鋭さを見た気がして、ふいにそんなことを思った。
しかし、彼はいっこうにことをはじめようとはしない。ただじっとこちらを見ている。すこしの時間だったけれど、あたしには永遠の時のように感じられてしまった。
しかしやがて、王子はくすりと笑う。そのままそっと顔を近づけてきた――。
「――君は、海の匂いがするね」
すこし間を置いてから、閉じていた目を開ける。くると思っていたのにこない。それに、予想外の言葉に思わず顔をしかめた。
「まるで人魚姫みたいだね」
くっと笑んで、フィリップ王子は耳元でささやいた。
人魚姫……ですって?
「それはどういう……?!」
気づいたときには、両腕が頭の上で縛り上げられていた。柔らかな布だったけれど、キツかった。
驚いて声も出なかった。ただされるがままになる自分をながめているような気分で、王子がにっこりほほえむのを見ていた。
「知らない?人魚姫は泡にならないために、王子さまを殺そうとするんだよ」
ハッと顔をあげる。
まさか――バレていた?
途端に身体はガタガタと震え出す。
あたしは、バレた。王子を殺そうとしたんだ。死刑。
殺される。
死ぬんだ。
死にたく、ないよ。
「父を殺したのは、君じゃないね」
涙がとめどなくあふれる。怖くて、怖くて、仕方がない。フィリップ王子の声なんて、聞こえなかった。
「泣かないで……」
遠くで、そんなやさしい声がしたかと思うと、あたたかい手が頭をなでるのを感じた。
どうしてやさしくするの。今から、あたしは罪に問われて死ぬのに。暗殺しようと、していたのに。
ふいに、手の束縛が解かれた。
「えっ」
思わず泣き腫らした目でフィリップ王子を見上げ、間抜けな声を出す。
「僕ははじめ、君が父を殺したのだと思ったんだ……けれど、ちがったみたいだね」
にこっとして、彼はあたしを起き上がらせる。目がしっかり合い、離せない。
「どうして……?」
「香水さ。君には、誘惑する気満々な香水の香がなかった。だからちがうと思ったんだ」
きょとんとする。呆然とするしかなかった。頭は状況についていかないのだ。
「海の匂いがしたんだ。君、海に住んでいるの」
首を傾げ、何事もなかったかのように尋ねてくる青年を、あたしはぼんやりと見つめかえした。
なんておかしな人。聡明なのか、馬鹿なのか。情け深いのか、愚弄なのか。
あたしには、わからないけれど。
「……海は、見たことがない……です」
ぽつりと言葉を落とす。涙は止まっていた。
「なら、今度行ってみるといい。海を見れば、どれだけ自分が小さいか思い知らされる――世界は、広いんだ」
「世界……」
世界だなんて。
あたしの世界はずっと、組織のなかだった。そこしか知らなかった。
海を、見てみたい――世界を。
「名前は?」
「リア……」
我にかえる。じっと見つめる王子は、やはり笑顔しか見せない。
「リア、君は人魚姫よりセイレーンの方がぴったりかもしれないね」
柔く、風のような笑顔。薄暗いなかでも、ひどく人を惹き付けてやまない。
噂通りの、すてきな人間。
「セイレーンって、なんですか」
「海の魔女さ。人々を歌で惑わせてしまう……」
魔女。ああ、あたしにはちょうどいいかもしれない。
乱れたドレスを直し、立ち上がる。
暗殺は失敗……それとも、またいつかチャンスがくるか?
心臓が痛い。
「またおいでよ、待ってるから」
振り返る。ベットに身を預けながら、くすりと笑みをもらす彼がいた。
返答に困り、あいまいに笑う。するとフィリップ王子は目を細め、口を開いた。
「セイレーンのごとき歌姫……」
柔く、甘く、深く響く声。
骨の髄まで染み渡り、心を満たすように。
たとえるならば、それは海。まだ見ぬ広い水のたまり場所。
そんな、まだ知らぬ感情をひたひたと染み込ませていく、声。
――あたしはあなたを、殺すのに。
「またのご招待、お待ちしておりますわ」
――それでもあなたは、あたしを誘うの?