夜の風 昼の影
最終話です
予想以上に長くなりました
三日目 ほんの僅かな過去
母親の荷造りに同行した葉月と弘樹。
母はいつもと違い、苛立ち焦っているように見えた。
母は一樹、葉月の部屋と続き、弘樹の部屋でも子供用のリュックへ乱雑に衣類を詰め込み、乱暴にタンスを閉じた。
その振動で弘樹のおもちゃが床に落ち壊れたが、母は謝る素振りも見せず、慌ててそれを拾った弘樹を鬼のような形相で睨み付けた。
子供たちが何かをやらかして叱られた時も、父と夫婦をしていた時も、十数年の日々の生活の中で、一度も見たことのない母の顔だった。
「そんなの置いて早く行くわよ!!」
母は怒鳴りつけるようにそう言いながら乱暴に弘樹の腕を掴もうとした。
「やだ!」
母の顔と声、そして何よりもピリピリと肌にすら感じる異様な圧力に、弘樹は怯えてその手を避けた。
母の顔は真っ赤に染まり、その目は家族を、自分の子供を見るような目ではなかった。
カタッと何かが揺れ動く音がした。
「地震?」
葉月は咄嗟にそう呟き、確認するように母をみやった。
「?!」
葉月のすぐそばに立つ母からは、イライラやピリピリとした空気を通り越し、鬼の形相そのままに、全身から赤黒い炎が吹き出しているかのような妙な圧力すら放っていた。
母の長い髪が静電気でも纏っているかのようにフワリと広がって行くように見えた。
カタカタ、ガタガタとそこかしこの物が揺れ、その動きは激しくなってゆく。
本が突然燃え上がり、すぐにその火は消える。
母の形相に怯えておもちゃを抱くように体を小さくし、少しずつ後退る弘樹。
部屋中の物が揺れ動き振動も大きくなってゆく中、獲物を追い詰める猛獣のように、赤黒い炎の幻視すら纏う母が一歩一歩ゆっくりと弘樹へ進む。
葉月はいつもと余りにも異なる母の姿に足がすくむが、それでもこれはいけないと、このままでは良くない事が起こると、止めなきゃ!、その思いのままに母の体へ抱きついた。
歩みの止まった母は物を見るような目で葉月を見下ろし歩みを止めると、再び弘樹へと視線を向けた。
葉月の目には怯え震えて半べそになり、動くに動けない弘樹の姿が見えた。
母はそんな弘樹の姿に、怯えと怒りの双方を混ぜたような、そんな表情を浮かべて、そして言い放った。
「この、化け物っ!!」
聞いたことも無い様な母の声。
それを聞いた弘樹は悲しそうな寂しそうな、何とも言えない顔で母を見詰めていた。
母は左手で乱暴に葉月を掴み、痛がる葉月を無視して引きずりながらドアへと向かう。
開かないドアに何かして開け、廊下へと掴みだされた。
葉月は弘樹が気になり背後を振り返ると、椅子が弘樹の頭に直撃して倒れる姿と、母が弘樹の名を呼ぶ声を聞いたのだった。
三日目夜
「話してくれてありがとう」
葉月の話を静かに聞き終えた少女は、礼を言いつつ春夏と太樹へ視線を向ける。
彼らは当事者ではないものの、一樹の事や四季や子供たちに聞いた話を掻い摘んで説明した。
自分の世界に没頭したようだった。
弘樹の様子を見つつ一緒に話を聞いていた太樹と春夏の顔は強張っていると、救急車を電話で呼んだ式が階段を駆け上がって来た。
その姿に先程の母を思い出したのか、葉月は叔母の背後に半歩隠れる。
「あと五分で到着するって。頭は絶対に動かさないようにって言われたわ」
慌てつつも冷静にならないと。
そんな様子で息子を心配する母の姿に、夫や妹は複雑な視線を向けた。
心配そうな母の視線を遮るように少女が立ち、「貴女、本当は気付いているでしょう?」と静かに四季を見つめつつ声をかける。
「なんの事?この人誰なの?」
四季は困惑した表情で夫と妹へと問うた。
「そんな事、どうでもいいことよ」
静かに、しかしキッパリとした少女の声が割って入った。
いつの間にか少女の手には革製の表紙の古い本があった。
「こんな下らない茶番、救急車がくる前にとっとと終わらせましょう?」
少女の手にある本は勝手に表紙が開くとパラパラと羊皮紙のようなページがめくれ始める。
少女はパタンと音を立てて本を閉じ、乱雑に肩から下げた鞄に放り込んだ。
「貴女の恐怖 貴女の闇夜 全て私が味見してあげる」
慈母のような優しい笑みを浮かべる少女の目は、いつしか深遠の如き闇と化していた。
そらしたいのにそらせない、心よりももっと深くにある何かが、それを求めてしまうのだと、理屈にもならない理屈に四季の心は縛られて、月の光すら差し込まぬ闇夜のような双眸を見つめ続ける。
それは遥か過去、黒曜石を用いて作られた鏡のように黒く輝き、四季の中のすべてを暴いてゆく。
「あっ、あぁぁぁっ!」
やめて!
見ないようにしていたのに!
気付きたくなかったのに!
見ないで!
そんな目で私を見ないで!!
四季は突然床に転がると、髪を振り乱しながら頭を掻き毟る。
唸り声を上げながら、両足は駄々っ子のようにダンダンと床を叩き、クネクネと身をよじる。
「何も見えないが、何かに取り憑かれているのか?」
「いえ、憑き物の類ではないわ」
妻の姿に太樹が問い春夏が答えると、二人は少女へと目を向ける。
「拗らせた子供が駄々をこねてるみたいなものよ」
少女は奇行を見せる四季を見下ろし、二人に視線を向けることなく答えた。
「選びなさい。
家族や親戚がどうとか、他人の目がとか、そんな下らない事に縛られたい? 自分自身を嘘偽りで塗り込めて、幸せの仮面をつけて生きて行きたい?
この地の魔女よ、本来なら貴女がどうなろうと構わないのだけれど」
チラっと床に倒れた弘樹を見やり、
「この子に免じて貴女にロゴスを与えましょう」
少女の言葉が少しだけ柔らかなものとなり、呻いて転がる四季の耳元へとその美しい唇を寄せた。
「人はその全てを見てはいない。聞いていない。必要なものを選び、それを現実として認識する」
混乱する四季の耳に心に、すんなりと少女の言葉が、そしてその意図する意味が正しくとどけられる。
そうだ。
人の目や耳には常に数多の情報が届けられている。
街を歩けば様々な光、数多の人々、風に揺れる木の葉、看板やゴミ箱、走る車に家やビル。
その耳には人の話し声、風の音、車の音、足音、大小問わず数多の音。
そのすべてを認識し、理解する事など人には出来ない。
だから人は自然と必要な物、不必要な物を普段から選別している。
「それは願望も感情も反映する。
見たい事、見たくない事、忘れたい事、書き換えたい事」
草花が好きなら道端に咲く小さな花に気づく事だろう。
ファッションが好きなら道行く人の装飾を自然と見ている事だろう。
タイプの人物が居たなら、その他大勢の中から自然とそれを見分けるだろう。
かすかに聞えた好きな曲に、耳を方向け、鼻歌を歌うかも知れない。
人はすでに、無意識で選び見て聞いている。
嫌なものを見た後も、時間の経過とともに忘れ去る事だって普通にあった。
それと同じ事だと、少女は語る。
「選びなさい。真の心で。その魂で。
逃げるのか、受け止めるのか、どこまでも抱え込み、己の中で溜め込み腐らせ歪めるのか」
時に不平や不満、怒りや悲しさ、それらの感情や記憶は時に抑え込まれ、ふとしたキッカケで繰り返し思い描けば、感情や環境によって歪んでゆく。
記憶がいつしか美化されたり、逆に色褪せるのにも似て、人の記憶や思いはその持ち主にすら時に蓋をし嘘をつく。
本人すら意識していなかった鬱積された感情が、ちょっとした事で唐突に爆発したり、必要以上に過激な反応を表してしまったり。
「お前の前には三つの道が示される。
私が与えたロゴスを解した今ならば、その道が見えるだろう?何であるのか判るだらう?
お前のこれから歩む道、その三叉路から選ぶがいい」
それは少女とは思えぬ威厳の籠もった言葉であり宣告だった。
四季の中で渦巻く混乱が、形にもならぬ感情が、形を得て整理されてゆく。
そうだ。
四季の力は人に関わる。
彼女は幼少期から人の感情を意識せずとも感じていた。
視覚や聴覚などの感覚同様、それは自然と淘汰する事を覚えたが、それでも強く主張する類のものはどうしても感じてしまっていた。
他所から特殊な家に嫁いだ母の、娘たちに対する劣等感、不理解、恐怖心。
この化け物!!!
そんな言葉にすら変換された想いを、何度彼女は聞いた事だろう?
気持ち悪い…面白い…どーせ嘘でしょ。目立ちたがり屋ってやつ?
友人知人の好奇心や噂を聞いた人びとの感情。
こんな力いらないのに!
異能を否定する自分の心。
俺もあんな力があったらいいのに!
一樹の憧れと共に嫉妬や羨望の混じった視線。
似て非なる力を得た、自分より遥かに生きやすい能力者、その力で光の中にいる妹春夏。
普段は大人ぶり、上から目線で何でも知った風に話すのに、実は一番お子様で一番手のかかる葉月。
似た力を持ち、やっと心を許し合える人と出会えた、そんな奇跡にも思える人だったのに、普通に働き普通に生きているように見える夫太樹。
認めつつ否定し続けていた異能、このまま自分の代で終わると良いと、能力を持たぬ子供たちの誕生に勝手に普通の家庭をイメージして喜んでいた自分。
しかし自分とは異なる異能を持って生まれた息子、弘樹。
気付いていたのだ。
子供たちが流行に乗ってスプーン曲げを試していた事も。
付録のカードで遊んでいたことも。
そして弘樹が父と母、二人の異能を混ぜ合わせたような、そんな力を持っている事も。
昔の自分そっくりな、臆病にも見えるその姿。
あの子は方向音痴な訳じゃない。
見える範囲、聞こえる範囲が人と異なる息子は、未だ無意識の選択がうまく出来ず、かなり集中しなければ雑多な情報が次々に入ってきて、うまく目的地にたどり着けないだけなのだ。
そう、私は知っていて見ない振りをしていた。
一樹の羨望の眼差しを日々受けた時の嫌悪感、風音にすらビクつく弘樹に重なる過去の自分への羞恥心や忘れたい記憶の喚起、ヒステリーを起こす葉月の甲高い声への苛立ち。
自ら毒草の種を撒き、肥料を与え続ける依頼者たち。
嫌だったのだ。
自分の嘘も、母の「化け物」と蔑む心の声を思い出す弘樹の姿も、下らないエゴ垂れ流しの葉月の声も、異能を持つ辛さを全く理解していない一樹の眼差しも。
夢に描いた普通の家庭。
普通などある筈もないのに、勝手に思い描き否定し無視し、その結果溜め込んだ記憶や感情。
そして気づく。
止めとなったのは、年度末から年度始めにかけての引っ越しによる疲れだったのだと。
子供たちの転校転入や、役所を始めライフラインの類の各種手続き。
通帳を睨みつつのお金のやり繰り、持って行く家具や家電の選択や新規購入、家事と仕事、そしてありとあらゆる事を「自分の思い描く普通母親、普通の家族」に縛られた思考で選択して行く自分自身に。
そしてそれらは無意識的に力を発動させていたのだった。
四季が胸のモヤモヤとして認識していたのは、そうして認識を歪められた事で目を逸らした己の力の行使の為なのだと今ならば理解できる。
大人ぶる葉月が大事にしている、春夏からの子供っぽい宝物を壊し。
羨望の眼差しを向ける一樹に己の母の姿を混ぜた化物を見せ。
過去の自分と重なる息子の力に干渉し、それらを起こさせ、最悪の言葉を投げ掛けた。
四季が幾ら気配を探っても気付けない訳だった。
自分と弘樹、その二つの力が持つ気配は、いつも身近にある、家にあって当然のものだったのだから。
落ち着きを取り戻した四季の目の前には
3つの未来が示されていた。
否を何も認めず、無かったように振る舞い結局家族も自分も壊してしまう未来。
癇癪を起こし続け、本心の吐露と言う名の暴力で我を通し、一時的な爽快感を得る代わりに全てを壊してしまう未来。
そして、困難でも、否定され拒絶されたとしても、それでも自分が納得出来る、普通など関係ない自分の家族を取り戻す道。
恥ずかしかったし情けなかった。
家族を巻き込み我が子を怪我すらさせた自分。
それは癇癪を起こす葉月よりもなお幼稚な、自分勝手なものだったから。
勝手に溜め込んで、当たり散らしただけという、お粗末な事件。
それでも…
受け入れよう、受け止めよう。
そして皆に謝ろう。
許して貰えるかはわからない。
それでも失いたくは無いものがあるのだから。
「決めたようね。まぁまぁの味だったわ」
満足したような表情で少女は告げ、そのまま家を出ていった。
床に転がり暴れていた四季は、全身の力を抜いて寝息を立てている。
弘樹の横に座り込みつつ、その姿を心配そうに見つめる春夏と、その隣で苦虫を噛み潰したような表情の太樹。
何が起きたのか理解は出来ず、しかし多分事件は解決したのだと何となく感じ取った様子の葉月。
遠くから救急車のサイレンが聞こえて来る。
「そろそろ到着するって電話が来たよ!」
階下から足を引きずり、二階へと声を掛ける一樹の声が家の中に響いた。
完