始まり
二日目深夜
家族全員が風呂を済ませ、それぞれが部屋で寝静まってから数時間後、葉月はベッドの上で目を覚ました。
葉月はそっと身を起こし、部屋を見回す。
常夜灯の弱い明かりでも、暗がりに目が慣れていれば大まかに部屋の様子はわかるもので、新品のタンスと本棚にカラーボックス、前の家から持ってきた学習机と椅子、部屋の隅に置かれたダンボール箱、首を巡らせ初めての自分一人の部屋にウキウキと頭を働かせる。
カラーボックスにはすでに小物の類を収納し、タンスの上にはぬいぐるみが幾つか飾られている。
すでにぬいぐるみで遊ぶ年頃ではないが、親戚内でも一番親しい叔母の春夏が誕生日プレゼントにくれたクマのぬいぐるみは今でも大事にしていたし、引っ越しが決まった事を話した友人に貰った犬と猫のぬいぐるみも、やはり目立つ所に置いておきたかった。
地区二十年と聞いて少しがっかりしたけれど、前に住んでいた家も築十年は経っていた。
壁紙も貼り直され、風呂やトイレ、キッチンも改修され、リフォームも済ませた家は言うほど古臭くもなく、前の家よりずっと素敵だと思えていた。
何より兄や弟とは別の、自分だけの部屋があるのは嬉しい限りだった。
同じ部屋だと着替えや肌着の出し入れも気を使うし、友達も呼びにくかったのだ。
配置は完璧!
朝起きたら服の整理かな?
そう思いつつ再び横になり、掛け布団の中でもそもそと動いて明日の予定に思いを巡らせる。
葉月は興奮するとトイレなどではなくとも夜中に目覚める事が良くあった。
もっと幼い頃には闇夜が怖くて、泣きながら両親の部屋へ入り込んだものだった。
怖がりの弟が出来たお陰でその恐怖心は無くなり、怯える弟を慰める事すらあった。
あいつさっき何か怖がってたし、一人で平気かな?布団の中でお漏らししてないと良いけど。
なんやかんやで仲の良い姉弟だ。
流石に怖くてトイレに行けず、漏らしてしまう事もここ一〜二年は殆ど無くなった弟を思いつつ再び眠りにつこうとした時、それは聞こえてきた。
ギシッ
それは階段の方からだった。
ミシッ…ギシッ…
古くなくとも木の軋む音はする。
部屋や廊下などに音が反響すると、それは現実とは異なる何かとなって恐怖の対象になる。
母の仕事の事もあれば、弟の怖がりをどうにかしたい事もあり、以前図書館で調べた事や心霊現象の謎に迫る!みたいな特番で見た記憶が、あれは単なる軋みだと、葉月はそう言うことにして布団に丸まり、ギュッと目を閉じた。
ミシッ…ギシッ…ミシッ…
その音は明らかにある程度重量のある者が階段をゆっくり登ってくる音に似ていた。
でもきっと違う。
お母さんも居るし、怖くなんてないんだから!
そう心では思い込もうとしつつも、葉月は掛け布団を頭から被りブルブルと震えていた。
階段を登るような音は徐々に上へ上へ、ゆっくりと近づいてくる。
両親ならばこんな歩き方はしないだろう。
兄が何かやらかして部屋へ戻ろうとしているのかも知れないが。
そう思うと何だか気分が楽になってきた。
キッチンでつまみ食いでもしたのかも知れないし、喉が乾いて水を飲みに行ったのかも知れない。
自分が目覚めたのも、実は兄が隣室から出たドアの音のせいかも知れない。
多分そうだ。
きっとそうだ。
これじゃまるで弘樹みたいじゃん。
フッと体の力が抜けると、葉月は知らぬ間に眠りに落ちていた。
ギシッ…ミシッ…ギシッ
音はゆっくりと階段を登り、廊下へと至った。
その音は誰に聞かれる事もなく、怖がりの末っ子、弘樹の部屋の前まで続くとピタリと止まり、後は夜の静寂だけが山野家の二階を支配したのだった。
三日目朝
弘樹がリビングでぼんやりテレビを見ていると、ダイニングキッチンで兄の一樹と姉の葉月が何やら言い合いをしているのが聞こえてきた。
新居からの初出勤、車で駅まで父を送ると母が言い出し、しばし前に両親が家を出たため、一樹と葉月が母の準備した朝食を温め直したり盛り付けていたのだが。
「嘘だー!お兄ちゃん、絶対下から上がってきたでしょ?!」
葉月の言葉に一樹はやや五月蝿そうに、それでいて困った様子で朝までずっと寝ていたと返していた。
葉月は普段やや大人びた、と言うより大人ぶった態度を取りたがる娘だったが、それは同年代の女の子には時折見られる事だ。
特に頼りない弟の相手をする事も多く、個人差や経験などにもよるが、心身ともに男性より成熟が早いとされるのが女性である。
一歳年下の妹ながら、普段は自分よりも大人ぶった態度の、しかし実は未だ小学生から中学生になる、そんな年頃の女の子である事を何よりも一樹は身近で見て知っていた。
例えば何気ない会話から言い合いになった途端に、大人ぶった仮面を脱ぎ捨て感情的な子供に戻ってしまうように。
どちらかと言えば穏やかな性格の一樹は、やや強気で上から目線の妹葉月に弱い。
葉月は三人の子供たちの中で一番しっかりしている反面、時折弘樹よりも子供になる事がある。
「二人共どーしたの?喧嘩は駄目だよー」
言い合いから喧嘩になる前にと、弘樹は開きっぱなしだったダイニングキッキンへ小走りに向かい二人に声を掛けた。
二人は向かい合って話していた。
「二人共座って!今日はボクが準備するよ!」
弘樹は二人の間をすり抜けてガスコンロの前まで向かうも、兄と姉は慌てて間に入り込みそれを阻止した。
十歳の子供なら多少簡単な調理の一つも出来る子も普通にいるのだが、はっきり言えば弘樹はとてつもなく不器用で、ほぼ完成している食事を何もないのに躓き全て駄目にしてしまいかねなかったのだ。
食べ物だけならまだしも、これで熱々の味噌汁でもかかろうものなら大惨事だ。
葉月は弟を一樹にグイッと押し付けた。
「ここは私が準備するから、お兄ちゃんは弘樹と顔を洗ってきて」
二人共まだでしょ?
言外にそんな空気を匂わせつつ、葉月はいつものお姉さんぶった態度で兄に命じると、男二人はトボトボとダイニングキッチンから廊下へと出るドアへ向かった。
一樹がドアノブに手をやった時、弘樹はビクッと震え天井へと目をやり硬直する。
それに気付かず一樹が僅かにドアを開けたとき、それは起こった。
パタパタパタパタ…
軽い足音にも似た音が二階から聞こえてくる。
パタパタパタパタ…
ドン!
パタパタパタパタ…
途中ジャンプでもしたのか、何かが二階の床に落ちたような音も聞こえて来る。
一樹がそっと葉月に振り返ると、妹もやや怯えた表情でキッチンに立ち、お玉片手に兄へと視線を送っていた。
ゴクリと一樹は唾をお飲み込みドアをそっと開けて二階への階段とそして玄関へと続く廊下へ出る。
葉月もお玉をキッチンに置くと一樹の後へと続いた。
弘樹は未だ怯えた様子ながら硬直は解けたようで、二人の後ろに隠れるようにしつつも二階の様子を伺っていた。
タッタッタッタッ
ドン!
キッキンにいた時より鮮明に響く音に子どもたちも表情が険しくなる。
「近所の子供とかが空き家のままだと思ってイタズラしてるのかも。動物って可能性もあるかも知れないしね」
近所の子供って事はないだろうな、そう一樹は思いつつも玄関の傘立てから傘を一本取り出して構え、葉月も弘樹はここにいてとヒソヒソと声を掛けつつ二人はそろそろと階段を一段一段登って行く。
ミシッミシッ
静かながらも階段は足音を響かせるが、謎の音は収まる気配もなく続いていた。
ドン!
タッタッタッタッ
ドタドタドタ…
音はより激しくなり、心なしか階段へ近づいて来ているような気がする。
「ねぇ、警察呼んだ方がいいよ」
弘樹は小声でビクビクしながらも言うが、二人は首を横に振り階段の中程に差し掛かった頃、
バキッ パキパキッ
二人のすぐそばで、空気が弾けるような音が響いた。
「きゃー!」
葉月は傘を放り投げて階段を駆け下り、一樹も顔面蒼白になりながらその後を追うが、何かに躓き、階段に背中を何度も打たれながら滑るように落ちた。
葉月は咄嗟に壁にへばりついて避け巻き込まれなかったが、廊下まで落ちた一樹は右足首を両手で抑えて呻いていた。
「うぅ…いってぇ」
兄の痛がる声が廊下に響き渡った時、二階の音は綺麗に途絶えていた。