山野家
一日目
年号が平成となってまだ幾らも経たず、朝晩冷え込む事が多い4月頭。
山野家が都下の中古住宅へと越してきたのは、三人の子供たちが大きくなり、そろそろ子供部屋が一つという訳にもいかなくなった事と、週末していた家庭菜園やガーデニングをもう少し本格的にやりたいと望む妻の希望でもあっての事だった。
都内の一戸建てを売り、都心へと通勤可能な郊外に中古の家を購入したが、なかなかに良い買物が出来たのではないかと、この家の大黒柱 山野太樹は満足していた。
来年度高校受験の長男と間もなく中学生になる娘、小学三年生になる次男では生活サイクルも気遣う点も異なる。
引っ越すならば高校受験の前にという思いもあったので、丁度よい時期に知人からの情報で手頃な、とは言え結構な額だったが、その家が売り出されているのを知れたのは有り難かった。
新学期にも合わせたこともあり、春休みらしい休みは殆ど引っ越し作業に費やす事となったが、無事引っ越しは終わらせる事ができた。
子供たちは転校することに難を示したものの、それぞれ自分部屋があると言うのは相当に嬉しいようで、あまりこじれる事なく転居や転校のゴタゴタも少なかった。
生活は裕福ではないものの妻の四季が家計の足しにと始めた仕事がそこそこの稼ぎになる事もあり、決めた面も大きかった。
築二十年弱のその家は、前の持ち主が高齢になり都内の息子の家に越すのでやや安めに手放す事になったものだった。
5LDKのその家は、小型なら二台止められる駐車スペースに子供が走り回れる程の庭、それとは別に猫の額程の畑がある。
庭から畑へと向かう小道の脇には、豊作を願ってか小さな赤い鳥居が一つと腰を屈めてお詣りするのに丁度よい大き差のお稲荷さんの社があった。
妻の四季は小さな祠に酒や果物をお供えし、引っ越しの挨拶をしていた。
地方のやや古い家柄出身の四季は、こうした事には手を抜かない主義だった。
一階に風呂トイレ、ダイニングキッチンとやや広めのリビング、そして八畳ほどの夫婦の部屋と四畳半の客間があり、二階にはトイレと六畳ほどの部屋が三つ、それぞれ子供部屋に割り当てた。
荷物の大半はダンボールの中だったが、家具家電の搬入はほぼ済み、食器類も普段使う物は棚に並べ終わったが、流石に料理を作る余裕はなく、近所の蕎麦屋で出前を頼んで夕飯は済ませる事にした。
風呂上がりに子供たちはそれぞれの部屋へと戻り、準備や片付け、環境の変化に疲れたのかぐっすりと眠りについている。
夫婦はリビングでビールとちょっとした乾き物を摘みに二人の時間を楽しんだ。
二日目
翌日、学校が始まるまであと一週間足らず、片付けや掃除をしつつも合間合間に家の近所を見て回り、それなりに楽しい時間を過ごしていた。
都心までバスと電車を乗り継いで一時間少々の立地だが、家の周りは農家や山野家同様家庭菜園を行う家も多い。
玄関や庭に犬小屋を置いて中型〜大型の犬を飼っている家も多く、家人が犬を連れて散歩する姿もチラホラと見かけた。
姉の葉月と連れ立って散策に出掛けた弘樹は、そんな姿を見て羨ましそうにしている。
「うちも犬、飼わないかなー?」
「犬ってお世話大変らしいし、私は断然猫派よ!飼うなら猫よ!
ほら、おばさんの家で飼い始めた黒猫、名前なんだっけ?あの子とか凄く可愛かったじゃない?」
二人で母方の叔母、春夏の家へ泊りがけで遊びに行った時、飼い始めた子猫を見せてもらい、少しだけだか猫じゃらし等で遊んだ事を思い出しつつ葉月は弟を猫派にすべく説得を開始した。
味方は多いほうがよいのだ。
たまに頑固な所はあるものの、姉によく懐いている弘樹は大抵姉の押しに負けるのだが、それで嫌な関係になっていない辺り、姉弟の仲はそれなりにうまくいっていた。
「そーだね!確か名前は夜ちゃんだよ。寝てる時とかご飯食べてる時なんかも可愛かったよねー!」
弘樹は結構流されやすい性格をしているので、たまたま見かけた犬の散歩を羨ましく思ったのだろうが、叔母の家から帰宅すると両親に猫が飼いたいとせがんだ事もあったのだ。
流されやすく、怖がりなくせに好奇心は強い弘樹はかなりの方向音痴だった。
一人で慣れない地域へ出掛けると八割型道に迷うので、親戚の家に遊びに行くときや、家からやや離れた繁華街へ行く時も大抵家族の誰かしらが同行する事になっていた。
流石に通学や近所の友人宅へは迷わず行けたが、電車やバスを使って行くような親戚の家や慣れない場所はかなり危険なため、山野家のルールとなっていた。
引っ越して二日目の家の近所もかなり危険なのは変わらないので、誰かしらと一緒でなければ外出を控えるようにと両親にしっかりと弘樹は言われていたし、兄和樹と葉月もちゃんと見ておくようにと言い聞かされていた。
両親は近所へ菓子折りを持って挨拶周りをしており、兄は学校への道のりや駅付近までどの位の時間が掛かるのか調べると自転車で出掛けていった。
住み慣れない広い家に子供二人と言うのは何だか怖くて、二人は近所を見て回ることにしたのだった。
皆がもう少し幼い頃は三人であちこち遊ぶ事も多かったが、部活などもあって兄は別に動くことが増えたし、葉月も数日後には中学生だ。
入りたい部活もあるし、同性の友達とワイワイ騒ぎたい気持も大きい。
叔母さんが缶ビール片手に時々言っていた「今は嫌でも懐かしい時間とかあるもんなのよー」と言う言葉を何となく思い出しつつ、弟との猫談義に花を咲かせる葉月だった。
二日目の夜
家の中の共有エリアは大まかにだが片付き、中身の詰まったダンボール箱の大半や空になって折り畳まれたダンボール箱は客間に詰め込まれた。
太樹は明日から会社に出なければならず、細かい片付けは妻の四季と子供たちの仕事となった。
山野家の面々は夕飯も済み、食後の一家団欒をリビングでお茶を飲みつつ過ごしていた。
一樹の散策話や葉月と弘樹の猫飼いたいアピール、挨拶周りの時の人々の反応など、話題は尽きず、気付けば八時を回っていた。
「太樹さんからお風呂に入って。明日からお仕事だし、引っ越し早々遅刻とか困るもの」
にこやかに四季が促し、太樹が風呂場へ消える。
都心の住宅街に比べ、所々畑もあり緑も多いこの地域は夜になるとなかり暗く、かなかり静かになる。
時たま車の走る音や犬の鳴き声が聞こえて来るが、風もない日はシーンと静まりかえることも多く、都内で育った子供たちには少し怖いくらいだった。
四季は太樹が風呂に入っている間に子供たちと明日の片付けや買い出しなどの打ち合わせをしていると、弘樹が突然ハッとした顔をして、階段のあたりを凝視した。
弘樹は子供たちの中でもかなりの怖がりで、お化け屋敷には入れず、テレビの心霊特集やちょっとしたホラー映画を見た晩は一人でトイレに行けなくなってしまう。
築二十年の家だ。
湿度の関係などで屋鳴りが聞こえる事もあれば、仄かに吹いた風が木立を震わせる事が妙に近くに聞こえて来ることだってある。
幼い頃は自分も春夏もそうだったな、四季は微笑ましく思いながらも、未だ身を硬くする末っ子に、漠然とした僅かな不安を抱くのだった。