沸き上がる食欲亭
沸き上がる食欲亭はタルゴゴにおいて中堅にあたる食事処であり宿泊施設だ。一階食堂は宿を取っていない人間にも解放されていて、相応の金を払うことで食事や酒を得る。一階奥に数部屋と二階、三階に客室を儲け、その上は三角屋根の木造建築だ。
買い物を終えた俠龍たちは夕焼けの赤から宵の藍に染まる空の下、沸き上がる食欲亭に着いていた。
「この世界の日光も七色なのかな」
「え? シャロンの世界では空が七色なのかい?」
「いや、空は青とか赤とかでちょっと見こっちと一緒かな。七色なのは太陽光で、えーと、空気で拡散がどうとか、瞳孔に入る光がなんちゃらで……」
うろ覚え以下の知識を語るのは無理がある。俠龍は「まあいいや」とそうそうに切り上げ、目の前の建物へと向き直った。
「ここがヨシアが贔屓にしてるところ?」
「そう。沸き上がる食欲亭。肉料理が美味しいんだ。もちろんお酒も出すよ」
「いや酒はいいや。筋肉によくないし。プロテインとかBCAAがないってなら、この分肉を食いまくらないとな」
こんなことなら作り方を勉強しておくんだった、と嘆く俠龍だが、こんな事態を想定しうるわけもないのでただの無い物ねだりにしかならない。卵料理や乳製品の扱いがあるというのが救いだろう。
「あ、ここってコーラ置いてる?」
「うん、あるよ。コーラ好きなの?」
「好きも好き、大好物よ。簡単に太れるのも大きいよね。一応聞きたいんだけど、砂糖入ってるよね?」
「入ってるよ。砂糖がなきゃコーラじゃないしね。だから、チョコ同様少し高いんだけどね」
ヨシアの返答を聞き、俠龍は考え込むように顎に拳を当てた。
コーラに続き、砂糖も通じた。そういえば悪魔もそうだし、他の名詞についても同様だ。これは偶然か、はたまた翻訳か。ショコラティエの名前は異世界(つまり元世界)由来かと思っていたが、もしかしたらあれもこちらの言葉でチョコレート菓子職人を指す言葉が翻訳されてしまっているのではないか。魔法を使われる前にどんな会話をしていたのか覚えていればよかったのだが、どうせ通じない言葉だと大半を聞き流してしまっていたのが災いした。
ショコラティエと呼んでショコラティエが反応していることを思えば不自由はしていないのだが、すっきりしない。
「ヨシア。ピザって十回言って」
「ピザ? ってなに?」
「いいからいいから」
「……ピザピザピザピザピザピザピザピザピザピザ」
肘を指差し、
「ここは?」
「ひざ」
「これはうまくいくのか……。本格的にわかんねえな翻訳の法則」
「え? なに? なんだったの? ピザってなに?」
「まあまあ。早く中入ろうぜ」
混乱するヨシアの肩を叩き、俠龍は先に扉を開けて沸き上がる食欲亭へと入っていった。
□
中は外観よりも広く感じられた。丸テーブルひとつに椅子四脚をセットとして七セット儲けられていて、うち四セットが埋まっている。テーブル郡を縫うようにして、痩身の男が慌ただしく行き来していた。
「あ、ヨシアさん。おかえりなさい。食事ですか?」
「ただいま、アラドさん。二人分お願いします。あとコーラを二杯。それから、僕のチョコ残ってましたよね? それでお菓子を」
「はい。カディア! 夕食とコーラ、二人分追加ー!」
「はーい、パパ!」
男……アラドが声を上げると、奥の部屋から女の声がした。ヨシアは勝手知ったる顔で近くの椅子に腰を下ろす。俠龍も同じテーブルについた。メニューなどはなく、食事は時間時間で決まったものが出てくる。酒やつまみは別途注文で運ばれてくる。
「家族経営なのか?」
「そうだよ。昼間はウェイターもいるけどね」
「ふうん」
ちらと他のテーブルを、その上の料理を見る。どんなものを食べているのだろう。
埃などで汚れた薄着の、労働者風の客がメインの客層なのだろうか。いずれも赤ら顔で楽しげに声を上げている。テーブルの上には人数分のコップと大皿に盛られた料理が乗っている。
肉料理。サイコロステーキのように見えた。
「あれなんの肉?」
「なんだろうね。ここでは魔物の肉をメインに出してるから、たぶんなにかの魔物だと思うよ」
「いまいちピンとこないんだけど、魔物の肉が流通してんのか?」
「してるよ。傭兵への以来で街獣駆除なんかがあると、その肉を持ち帰って卸すんだ」
「へえ。うまいの?」
「家畜ほどじゃないけどね。野趣があって僕は好きだけど、臭いがダメって人も珍しくないよ」
「ジビエみたいな扱いなんだな」
「ところで、それなにに使うんだい?」
ヨシアの目線は俠龍の足元の袋に向けられている。金の入った布袋とは違い、こちらは麻袋だ。道中露天で買ったものである。
「トレーニング用、かな。向上より現状維持と劣化防止目的だけどな」
「ふうん? どう使うの?」
「ぶつける」
「もうちょっと詳しく。僕トレーニングで使ったことないよ」
「詳しくったってなぁ」
雑談をしているとアラドが近づいてきた。手には小さな盆を持っている。
「はい、これ。ショコラティエさんに」
そういって置かれたのはチョコレート菓子だった。溶かしたチョコにパンを浸して固めたもののようだ。
「うむ」
ショコラティエは鷹揚にうなずいてヨシアの肩からテーブルへと降りた。チョン、チョン、と跳ねて皿に近より、ツンツンとチョコ菓子を啄み始めた。
それを見ながら、そういえばと俠龍が口を開く。
「ショコラティエ、道中えらい静かだったな。森の中からこっち、ほとんど喋りっぱなしだったじゃないか」
思いついたような疑問には、ヨシアが応えた。
「街中では気を使ってくれてるんだよ。ショコラティエは小さいから目立たないけど、喋るとみんな悪魔だって気付いて怖がっちゃうから」
「そういえば怖がられてるんだっけ。うっかり忘れるな……。それにしてはアラドさんは平気そうだけど?」
「ここの人たちはもう慣れてるからね。ここを使うようになってから一度も人に危害を加えたことがないのを知ってるからだよ」
自分について話されている間も、ショコラティエは我関せずとチョコ菓子を啄んでいる。その様子だけを見るとただの小鳥、ペットのようだ。
果たして鳥はチョコレートを食べても平気だっただろうかと首をひねっていると、今度は大きな皿を持ったアラドがやってきた。
「はい、おまちどお」
「ありがとうございます」
「お、豪勢。ありがとうございます」
皿には山盛りのサイコロステーキと並盛の野菜が乗せられていた。肉の山の頂上には長い串が二本突き立っており、さながら肉で行う棒倒しのようだ。
「さ、食べようか。シャロンは食前の祈りは?」
「いただきます、だな」
手を合わせ呟く俠龍に対し、ヨシアは何も言わずに串を手に取り、肉片のひとつに突き刺して口に運んだ。
「うん、美味しい」
俠龍もヨシアにならい串で肉を突き刺す。しっかり火の通ったそれを口に入れた。
「ちょっと固いけど、うん。うまいな」
荒い塩が効いていて食欲を誘う。
「はい、コーラね。追加がいるときは声かけてくれるかな」
どかっとコーラの入った杯を置き、アラドは別のテーブルの対応に向かった。そちらは肉の追加を注文されたらしい。蹄で器用に串を挟み、大口で肉を頬張る山羊の獣人がいた。
草食獣の特徴が濃く出ているからといって、草食とは限らないらしい。歯の構造が肉を噛み切るようにはできていないはずだが、と考えたが、専門家でない俠龍では深く考察する余地もなく、すぐに目の前の肉に意識を戻した。
串で提供しているのは指が器用でない人向けで、肉が賽の目にカットされているのは口の構造が咀嚼に向いていない人向けなのだろう、と考えるにとどまっている。それが合っているかもわからない。
「基本的にはその日に入った魔物の肉がメインで出てくるよ。たまに魚」
「酒の肴ってのはなにがあんの?」
「基本的には虫かな。小さな幼虫の焼き物とかだよ。量は、そうだね、この皿の半分くらいかな」
「虫!」
何気ないヨシアの言葉にぎょっとする。そして目の前の皿に目をやり、そこに盛られる大量の幼虫を想像した。俠龍は腹に手をやり、胃の中身を思う。
「アラドさーん! 肴お願いします! 酒はいりません」
「はーい。カディア、肴ひとつ!」
「はーい、パパ!」
目の前の肉をたいらげてもまだ余裕がある。そう判断した俠龍は迷わず追加注文をしていた。
「虫、好きなの?」
「特別好きってわけじゃないけどね。動物性たんぱく質動物性たんぱく質」
生前(?)も何度か食べる機会があった。焼いた幼虫に塩をふったり、甘く味付けしたものが多かった。過去に食べたものはどれもクリーミーで美味。動物性たんぱく質も豊富ときている。
プロテインが見付からるまでの代替品として、重宝することになりそうだ。
□
「じゃ、また明日。ヨシアの動き出す時間に起きてなかったら起こしてくれ」
「はーい。また明日ね」
食後の歓談を終え、俠龍は自分に取った部屋へと入った。ヨシアは二階に部屋を取っているが、俠龍は一階の空き部屋を借りた。個室である。
個室ではあるが、決して広い部屋ではない。足を伸ばすのがやっとのベッド。枕元の小さなキャビネット。その上に心細いランプが乗っていて、そこまでいくための通路のような空きスペースがある。それだけだ。
「あくまでも寝るためのスペースってわけか。最低限をギリギリ下回るぐらいの空間じゃねえか」
ベッドの上にどさりと荷物を置く。鍵もかからない部屋に、ヨシア曰く大金を置くのは不安があったが、ここまで狭くてはたとえ深く寝入っていても、余人の侵入に気付かないことはないだろうと結論づける。
「思ったよりも狭いけど……、まぁいいか。半畳稽古とか拳打臥牛之地とか言うしな」
そう言って型稽古をはじめる。ナイファンチを初段から順に。バッサイダイ。セイエンチン。大八極。五行連環拳。歩幅を小さくしたり、一歩戻ったり、狭い場所で行うために工夫しつつ、俠龍が覚えている型や套路を繰り返す。
はじめはゆっくり。体が解れてきたら強く、大きく。それから鋭く、小さく。体の調子を確かめる。
これまで培ってきたボディイメージとは大きく異なる出力だ。突きの度に空気が唸りを上げている。これでは踏み込みも狂うはずだ。
「手加減を練習する必要があるかもなぁ。触れるものみな傷つけるなんて剣呑に過ぎる」
神武不殺は自分には高尚に過ぎるが、活殺自在ではあったのだ。一日こちらの生活を覗いてみて、荒事の回数は増えこそすれ減ることはないだろうと思う。手加減を覚えることは急務になりそうだ。
一通りの型を終えると、今度は前屈立ちで上段受け、下段払い。三戦立ちで正拳その場突き、回し受け。上中下段の前蹴り。蹴込み。回し蹴り。
半歩崩拳。斧刃脚。金剛八式。五行拳。いずれも震脚はしないように努めた。迂闊に震脚しては床板を踏み抜いてしまいかねない。
だくだくと流れる汗を買ってきた布で拭う。また別の布を取りだし、細く裂いて幾本かの平たい紐を作り、これまた買ってきたこん棒にぐるぐると巻き付ける。出来上がった布巻のこん棒でごつごつと脛を叩きはじめた。
「あー、なるほど頑丈になってる感あるな。全然物足りない」
呟いてから力を強める。様子見するような力加減から、やがて手首のスナップをきかせて。脛が終わるとこん棒を投げ出し、今度は板を取り出した。分厚い木の板にも同様に布を巻き、今度は拳に打ち付ける。拳が終わると次は肘。その次は額。
各所に痛みを感じながら、次の工作にうつる。財布用だという小さな革袋に金貨を詰めていき十分な重さを確保した。それの口紐をきつく結び、さらに紐を結んで長くする。一メートル少々の紐を縛り付けると、今度はそれを短く持って振り回し、自分の体に強かに打ち付けた。
紐の長さを巧みに調節し、腹、脇腹、鳩尾、胸、肩、二の腕、首、顎、太ももまでを丹念に丹念に痛め付けていく。
「……っかぁー、いってぇなやっぱ。俺苦手だこれ」
全身の汗を荒くぬぐい、ベッドに倒れ込んだ。
体のおおよそのスペックは把握できたが、全力を出して当てた場合どれくらいの力が出るのかは未知数だ。普段見慣れた自分の突きと比べると数倍のスピードが出ているように感じるが、あくまでも体感でしかない。果たしてこれが野性動物に、ましてや魔物と呼ばれる魔性に通用するものかどうか。
ヨシアは剣と盾こそ持つものの、生身で大きな獣を倒してのけるという。いや、ヨシアに限らない。それは他の傭兵や職業軍人にしたって同じことだ。それが自分にもできるかと言われると、俠龍にはそんな自信はない。
人間は本気を出したイエネコにも勝てない。それが俠龍の知る常識だ。日本刀を持ってはじめて互角とも言われている。
それをヨシアたちは剣や槍で打ち倒すというのだ。それも害獣を追い払う気安さで。
時には死者も出るとは言っていたが、しかしそれは未熟によるものだという。ふざけるな、というのが正直な感想だった。
「あるかよそんなことが……。ひらけた土地で銃持って車に乗って、ようやく人間は野性動物と対等だっての……」
人間が自分より重く、大きな生き物を殺し、肉に出来たのは、遠距離から一方的に攻める投擲力があったからだ。負傷した生き物を疲弊、消耗するまで追跡する持久力があったからだ。群れの雄が獲物を追い立てる数を確保できたからだ。
断じて、個の戦闘能力が他の動物を上回るからではない。
「でも、それをやっちまうってんだもんなぁ……。盗賊相手にした感じからして特別に動体視力とか反射神経が強いって印象はなかったし、意識の切り替えも並みだった。一発くらい斬られるか打たれるくらいしとけば連中の強さもわかったかなぁ」
俠龍ひとりで盗賊大勢を相手取れたのだ、こちらの人間が総じて俠龍より大幅に強いということはないだろう。であれば、魔物や動物が極端に弱いか? 否。もしそうなら駆除の以来など出はしない。ならば、一部の個人が突出しているのだ。
魔法か、あるいは加護か、はたまたそれ以外か。
俠龍は右手を顔の高さに持ち上げ、そのままぎゅっとにぎる。中指と薬指の爪が手のひらに食い込む。整えられたそれは手のひらを傷つけず、ただ圧迫する。
その手に握られる力がどれ程のものか。俠龍が受けているという加護はどれ程のものか。確かに膂力が上がっていることはわかる。だがそれで野生の生き物を相手にできるかと言われれば、自信はない。
例えば敵意を剥き出しに、殺しにきているニホンジカと戦えるかと問われれば、俠龍は逃げることを優先して考える。生き残ることが武道の大前提なのだ。戦わなくてはならない状況とはすなわち失策の果てであり、戦うことを選ぶのは下策であると、俠龍は師から教わっている。
「明日にでもヨシアと一戦試してみるべきかなぁ。一手ご教授願いますって」
こんがらがる頭をすっきりさせようと、両手で自分の頬を思いきり張る。力が強くなっているらしいが、体も頑丈になっているらしいので自分を痛め付けても強化の度合いはわからない。やはり何かを打ってみなくては。巻き藁打ちか立て木打ちがしたい。
煩悶を振り払うように勢いをつけて立ち上がると同時、
とん、とん
と控えめに扉が叩かれた。
「はーい、って返事しちまったけどノックの文化あんのかないいや開けちまえ」
がちゃりと扉を開けると、なにやら眉をハの字にしたアラドが立っていた。申し訳なさそうな、心配そうな表情だ。
「あのぉ、なんだかビュンビュンバシバシ音がするので様子見に来たんですけど、なにをされているんですか?」
「あぁ、すんません、騒がしかったですよね」
「いえいえ、うちはお代さえ貰えれば部屋でなにしようと構わないんですがね。壁や調度を壊さないようにお願いしますよって話をしに来たんです。騒音での揉め事なんかは、表でお願いしますよ」
なるほど、人の良さそうな顔をして、割り切りがいい。
アラドの体の奥、食堂では俠龍に迷惑そうな顔を向ける酔漢の姿もある。そんなに響いていたのか。思っていたよりも音が出てしまっていたらしい。
俠龍は振り回していた財布を手元に引き寄せ、それを持って食堂に向かって声を張り上げた。
「いやぁすいませんねせっかくの酒に水をさしちゃって。お詫びといっちゃなんですが、一杯二杯奢らせてください」
たちまち上機嫌になる酔っ払いたち。アラドに注文をしながら俠龍は近くの男に言う。
「みなさんどこでどんな仕事なさってるんですか? 俺は旅から旅の流れ者でして、土地土地での文化や出来事なんかを聞くのが大好きなんですよ。見ればみなさん顔が広そうですし、面白い事件からつまんない常識まで、色んな話を聞かせてくれませんかね」